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【歴史21】スイス史備忘録21(傭兵契約同盟・傭兵の戦い・宗教改革・ツヴィングリ改革・再洗礼派)

スイス史の学習内容を深めていきます。

①ヴェネツィアを味方につけたフランス国王のフランソワ1世はスイスへの反撃を始めた。1515年にマリニャーノの戦いでスイス軍はフランス軍の砲撃で1万人近く亡くなった。

②1516年にスイス諸邦はフランスと永久平和を結んでミラノをフランスに引き渡してアルプスの南の共同支配地を確保した。これは今のティチーノである。

③1521年にはスイス諸邦とフランスとのなかで新しい傭兵契約同盟が成立した。フランソワ1世は神聖ローマ皇帝カール5世との戦でスイス人傭兵を動員した。

④1522年のビコッカの戦いで、1525年のパヴィーアの戦いでは
多くのスイス人傭兵が戦死した。

⑤ヨーロッパの多くの地域で16世紀に宗教改革が起こった。ドイツ修道士マルティンルターがローマカトリック教会を批判した事から始まった。1515年にローマ教皇であるレオ10世はサンピエトロ大聖堂を改築するためにドイツで贖宥状の販売を始めた。

⑥1517年に聖書内容を重視したルターは贖宥状の販売を批判する九十五カ条の論題を発表した。

こうして教会制度への不満を持っていた諸侯や市民・農民たちの間で教会への反発が広がっていった。

⑦キリスト教の改革とローマカトリック教会からの分離独立を支持した人々をプロテスタント(新教徒)と云う。聖書を唯一の拠り所として人間の行いではなく神の恩恵と内面の信仰を重視した。

⑧チューリヒではザンクト・ガレン修道院領の農村トッゲンブルク出身のフルドリヒ・ツヴィングリが宗教改革の中心となった。ウィーン大学とバーゼル大学で学んだ後にグラールスとアインジーデルンで司祭を務めた。

⑨イタリア戦争に従軍司祭として参加したツヴィングリは戦争現場を目撃して傭兵制に反対した。スイス防衛の戦いは肯定したが外国に兵力を売る制度は認めなかった。

⑩1519年にチューリヒの司祭となったツヴィングリは反傭兵制であったので民衆支持を集めた。チューリヒは1521年のフランスとの傭兵契約同盟に参加しなかった。

⑪1522年にイエスキリストが荒野で40日間断食した事に由来する肉断ちの期間に印刷工房の職人たちが重労働に耐えるためにソーセージを食べる事件が起きた。

これがチューリヒの宗教改革の端緒となった。

⑫1523年1月にチューリヒ市当局は約200人の市参事会員と400人の聖職者、コンスタンツ司教の派遣団などを集めて公開討論会を開いた。その結果市参事会は聖書のみに従った説教を行うべきであると決定して宗教改革を承認した。

⑬10月には第2回の公開討論会を開いてミサ聖祭や聖画像の廃止を決めた。急進派のコンラート・グレーベルらと対立したが改革は進んだ。聖画像などの教会装飾物が撤去され修道院は廃止されその財産は貧困対策に使われた。

⑭それ以後にツヴィングリの教えは農村部やチューリヒ領外に伝わった。ザンクトガレン、バーゼル、シャウハウゼン、ベルン、ビールで宗教改革が始まった。宗教改革はグラールス、アペンツェル、グラウビュンデン、ヴァリスなどの農村部に波及した。

⑮原初三邦とツークの人々はカトリック教会に忠実した。都市邦ではフリブールやルツェルンなどが改革を拒んでいた。

⑯急進改革派も登場した。

聖書にない幼児洗礼を批判して信仰告白を自ら行える成人のみに洗礼を施す立場をとり再洗礼派と呼ばれた。コンラート・グレーベルやフェーリクス・マンツがそのリーダーであった。

■参考文献 『1冊でわかるスイス史』踊 共二 河出書房新社

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