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【日本史8】平安史備忘録48(鹿ヶ谷の陰謀・治承三年政変・安徳天皇・平家政権樹立)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①1176年(安元2年)に滋子が病に倒れて亡くなった。こうして急速に成り上がった平家への院近臣の不満が爆発した。

②翌年に加賀国(石川県南部)の国司と延暦寺との衝突を起因として都では延暦寺の僧兵が国司の解任を求めて後白河法皇に強訴した。こうして治安が悪化した。

③左京で大規模な火災が頻発して大内裏の建物や多くの貴族の邸宅が焼失した。崇徳上皇の祟りと噂された。後白河法皇は清盛に平家の武士を動員し延暦寺の僧兵を攻撃するように命じた。

④しかし寺社を敵に回すことによる仏罰や神罰を恐れる意識が強かったので応じられなかった。この対応もあり後白河法皇周りでは清盛への敵意は高まっていった。

⑤1177年(安元3年)に後白河法皇の院近臣らが鹿ケ谷(京都市左京区)の山荘に集まって平家打倒の密議を行った。信西に仕えた僧侶の西光、権中納言の藤原成親、法勝寺の僧侶の俊寛、摂津源氏の武士の多田行綱などが集まった。

⑥行綱が裏切り清盛に密告したので関係者は捕まった。西光は処刑、成親は備前国(岡山県南東部)に流され倒された。俊寛は九州南方の鬼界ヶ島(鹿児島県の奄美群島の一つ)に流された。

⑦これが鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)である。この陰謀は諸説あるがどちらにしろ後白河法皇の有力側近たちは失墜していった。

⑧1178年(治承2年)に高倉天皇と徳子の間に生まれた言仁親王が皇太子とされて清盛は皇位継承者の外祖父となった。1179年(治承3年)に清盛の娘の盛子、嫡男の重盛が急死した。

⑨清盛と敵対していた藤原基房は後白河法皇に働きかけてこの2人の所領を自分のものとした。清盛は福原から大軍とともに都に乗り込み後白河法皇に「今後は政治関与しない」事を確約させた。

⑩離宮の鳥羽殿に幽閉して基房らを官職から追放した。これが治承三年政変である。1180年(治承4年)2月に清盛は言仁親王を即位させて安徳天皇(81代目)とした。

⑪高倉上皇が院政をし藤原基通が摂政をしたが安徳天皇は3歳であり上皇は20歳、基通は21歳だったので若かった。

ゆえに清盛が実権を握った。

⑫太政大臣の平清盛を中心とした平家一門の複数人物が公卿として名を連ねる初の武家政権が成立した。清盛は後白河法皇や近臣院の知行国や荘園を奪って平家一門や関係者に分配した。

⑬それらの地域にいる武士を組織化して支配するために国司に代わる国守護人、地頭といった役職を新しく設置した。一時は全国の60カ国の知行国のうち33カ国は平家の知行であった。

鎌倉幕府はこの制度を継承して各地に守護、地頭を配置したと云われている。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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