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【日本史9】明治史備忘録39(森有礼・帝国大学創設・小学校令改正・教育勅語・キリスト教関係者・内村鑑三・内村鑑三不敬事件)

①第1次伊藤内閣で文部大臣だった森有礼(ありのり)によって1886年(明治19年)の帝国大学令で東京大学は帝国大学に改称された。国家の必要に応じる人材を養成する事が明文化された。

②1897年(明治30年)に京都帝国大学が創設されて東京の帝国大学は東京帝国大学となった。昭和初期までに九州、東北、名古屋、大阪、北海道の各地、日本の統治下だった京城(ソウル)と台北に帝国大学が創設された。

③森有礼は師範学校令、中学校令、小学校令の制定に関わって教育制度の確立に貢献した。

④森有礼は伊勢神宮を参拝した際に不敬な態度をとったという噂が流れて1889年(明治22年)の憲法発布記念式典の日に国粋主義者に暗殺された。

⑤1890年(明治23年)に小学校令は改正された。尋常小学校(4年生まで)の授業料が無償化されて庶民が教育を受けやすくなった。

⑥小学校令と同時に明治天皇が国民に向けた教育勅語を発布した。儒教の道徳観を反映した。法制局長官の井上毅と明治天皇の教育係だった元田永孚(ながざね)が中心となりつくられた。

⑦主に「父母に孝行を尽くし、夫婦の仲を大事にし、学問を修めて努めて善良有為の人物になること」

「一身を捧げて皇室国家のために尽くすこと」などが記されて皇族と臣民が忠実に守るように説かれた。

⑧教育勅語の謄本は全国の学校に配布されて教師と生徒は勅語を読む奉読式が義務づけられた。謄本を粗末に扱う事は天皇への不敬とみなされた。

⑨教育勅語の価値観は教育界との軋轢を生んだ。明治期の教育界には立教学校(立教大学)を創設したアメリカのチャニングMウィリアムズや同志社(同志社大学)を創設した新島襄といったキリスト教の教育者が多かった。

⑩札幌農学校でアメリカ人の植物学者であるウィリアムSクラークの教えを受けた英語教師である内村鑑三もそうである。

⑪内村鑑三が東京府尋常中学校(日比谷高校)に在職していた1891年(明治24年)1月に奉読式で教育勅語の謄本への拝礼を拒否した事が不敬とみなされた。内村は職を追われた。

これが内村鑑三不敬事件である。

⑫教育関係者のなかでは非難派と擁護派に分かれた。内村は各地のキリスト教系学校で教師をした。大日本帝国憲法では安寧や秩序に反しない限りは信教の自由は認められていた。

⑬教育勅語への拝礼には法的根拠はなかったが拝礼は強制化していった。

■参考文献 『1冊でわかる明治時代』 大石学 河出書房新社

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