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屋根の上のてるてる坊主【てるてるmemo#11】
はじめに
てるてる坊主を作ったらどうするか。昨今では軒下や窓辺に吊るしておくのが一般的です。ただ、てるてる坊主研究所で蒐集してきた資料のなかには、ごくまれにてるてる坊主を吊るさないケースが見られます。
たとえば、机の上や庭先にただ置いておくだけという事例が見られます。そして、珍しいところでは屋根の上に投げておくという事例も見られるので、今回はこちらをご紹介します。併せて、同じように屋根の上に関わりのある、ほかの風習との簡単な比較も試みます。
1、小学生の日記から
てるてる坊主研究所で蒐集してきた資料のなかで唯一の、屋根の上に投げ上げるという事例は、大正14年(1925)のもの。金川健三の『ぼく』という書物に記載されています。
この作品が書かれた当時、作者の健三は実はまだ尋常小学校の児童でした。『ぼく』は健三の1年間の日記を集めて出版したものです。そのため、綴られているてるてる坊主の事例は創作ではなくノンフィクションです。
健三が通学していたのは大阪市立渥美尋常小学校(現在は場所が移って大阪市立南小学校)。健三は数年間にわたって、毎日のように学校に日記を提出していました。その文章の豊かさに目をつけた、当時の担任教師・伏井岩太郎が書籍化を思い立ち、『ぼく』と題して出版されたのです。
書籍化されたのは大正14年(1925)の1年分の日記。その4月4日(土曜日)の記事に「テルテルボーズ」が登場します。当時、健三は尋常小学校4年生。2学年上の兄がいました。
翌日の日曜日には京都の妙心寺(京都市右京区)へ参詣の予定です。しかし、この日の午後、健三が学校から自宅に帰りつくころには、あいにくの雨が降ってきました。明日の空もようが心配です[金川1926:49頁]。
兄ちやんは、紙で、テルテルボーズをこしらへてくれました。おさけを 頭からかけて、屋根の上へ、なげときました。お母さんは、
「おさけを明日かけるのに、もうさきかけたのか。」
と、お笑ひになりました。
夕方、おふろへ行きまして、早くねました。
「テルテルボーズを出してやつたさかい、きつとお天気か。」
と、兄ちやんにたづねますと、
「そうや。」
と、云ひましたから、きづかひないと思ひました。
健三の兄が「テルテルボーズ」を作りました。材料は紙。「テルテルボーズ」ができあがると、兄はすぐにその頭から酒をかけ、屋根の上へと投げ上げました。
それを知った母は微笑みます。その理由は、本来ならば明日かけるべき酒を、子どもたちが先走ってすでにかけてしまったから。「テルテルボーズ」を屋根の上に投げた点については、母は違和感を表明していません。母のそうした反応から推測すると、てるてる坊主を屋根の上に投げるのは、当時はわりと普通に見られる光景だったのかもしれません。
ただ、紙製の軽いてるてる坊主を屋根の上まで届くほど高く投げるのは、なかなかむずかしいはずです。投げ上げるのに先立って、酒を浸み込ませることで目方を増やしたのは、健三の兄なりの工夫だった可能性も捨てきれません。
2、天へと続く屋根の上
屋根の上に何かを投げ上げる風習というと、まず思い浮かぶのは、子どもの歯が抜けたときのこと。上の歯は縁の下に、下の歯は屋根の上へと投げて、丈夫な大人の歯が生えてくるように願います。
そうする理由としては、上の歯は下に向かって、下の歯は上に向かって伸びるので、その伸びていってほしい方向に投げるのだとか。あるいは、床下や屋根裏を棲み家とするネズミにあやかって、ネズミのように歯がすくすくと伸びるように願ってのことだとか。
いずれにせよ、歯を投げる風習については、その目的も理由も前掲した「テルテルボーズ」とは明らかに異なります。
むしろ、屋根の上に関わる風習のなかで「テルテルボーズ」を投げ上げる心意と感覚が近しいのは、魂呼びの風習かもしれません。『日本民俗事典』で「魂呼び」の項を引くと、以下のように説明されています(傍点は引用者。以下同じ)。執筆担当者は民俗学者の井之口章次(1924-)[大塚民俗学会1998:436頁]。
人の臨終にあたり、その人から遊離した魂を呼び戻すことによって、甦えらせようとする呪術儀礼。(中略)
一般に屋根の上に昇ったり、井戸の底に向ったり、他界と思われる方を向いて遠ざかり行く霊を呼び戻す。産死や若死の場合に主として行なわれ、分布は全国にわたる。
各地に広く分布する魂呼びという招魂の風習。それは、産婦や若者などの予期せぬ急な死に際して、鎮魂の意味を込めておこなわれました。
魂に向かって呼びかける場所として、多く択ばれてきたのが屋根の上と井戸の底。そこは、遠ざかっていく霊魂が向かう、他界へと連なる場所と位置づけられていたようです。
地上に暮らす人びとにとって、屋根の上は天空へと続く場所、いっぽうの井戸の底は地中へと続く場所と意識されてきたのでしょう。それぞれに、天国あるいは地獄へと続いていくイメージを重ね合わせることもできそうです。
前掲の井之口章次が『日本の葬式』のなかで、屋根の上での魂呼びについて、たくさんの事例を丹念に集めています。そのなかから印象的な例を2つ掲げておきます[井之口1965:20、26頁]。
急病などで人が死に瀕したとき、近所の者がその病人の家の棟に上り、一斗桝をふせ、棒切れなどで打ちたたく。死後、霊魂は肉体をはなれて屋根の棟から抜け去るから、それをおさえて元に戻すのだという。これは一に死の予告でもあったから、その音はあわれにひびいたという。(福島)
埼玉県秩父郡倉尾村の人が、明治も末の四十五年ごろ、上吉田で実見したところによると、死にぎわに法印と家の者と、二人で屋根にのぼり、死者の名を呼ぶことがあった。生きかえるものなら返事をするというが、実際に呼びもどされて、二十五歳から七十五歳まで生きていた岩崎富作という人があった。
3、屋根の上で晴天を祈る
もう1つ、屋根の上に関わる風習として思い起こされるのが、てるてる坊主と同じ晴天祈願の人形である「雨人」。
江戸時代の中ごろ、天明5年(1785)の夏に角館(現在の秋田県仙北市角館町)で目にした雨人を、旅人の菅江真澄(1754-1829)がスケッチしています(★下記の図参照。詳しくは「日を乞う「雨人」【てるてるmemo#2】」参照)。
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雨人は屋根の上、棟の部分に立てられています。材料は藁でしょうか。腰には蓑を着けているようです。幡を手にしており、「鹿嶋大明神」と墨書されています。
添え書きには「連日雨ニ日ヲコヒ祈ル時立之」と説明があります。連日の雨に際して、雨が止んで日が差すようにという願いが込められていたことがわかります。雨人という呼び名だけを聞くと、雨を願う人形なのかと勘違いしてしまいそうですが、あくまでも晴天祈願のまじないです。
先述のように、雨人は江戸時代の中ごろ、天明5年(1785)に秋田で見られた事例。いっぽう、冒頭で紹介した「テルテルボーズ」は大正14年(1925)の大阪の事例。時代や場所は大きく異なります。しかしながら、双方とも晴天祈願にまじないの人形を作り、それを屋根の上に置いているのは、興味深い一致です。
おわりに
屋根の上。そこは、先述した魂呼びの風習においては、天空へ連なる場所と意識されていました。同様の意識を、秋田の雨人や大阪の「テルテルボーズ」の事例にも窺うことができそうです。
ただし、天の位置づけには違いがあります。魂呼びの場合、天には、死者の霊魂が向かう他界というイメージが託されていました。いっぽう、雨人や「テルテルボーズ」の場合にはより現実的に、対象とされるのは天そのものの状態。屋根の向こうに大きく広がる天に働きかけて、その状態のコントロールが図られています。
また、昨今のてるてる坊主と比べてみるならば、意識される方向の違いも気になります。昨今、てるてる坊主が吊るされる場所として一般的なのは軒下や窓辺。そこは屋内から屋外への境に位置しています。いっぽう、雨人や「テルテルボーズ」が置かれるのは屋根の上。そこは屋敷のなかで天までいちばん近い場所です。
いずれも家の内と外を分ける境界ではあるものの、軒や窓辺の場合は水平方向に意識が向くのに対して、屋根の場合は意識の向く先が垂直方向である点が特徴的です。
てるてる坊主を設置する場所や方法の多彩さ、および、そこに込められた意味については、今後また稿をあらためて整理・検討できればと思います。
参考文献
・井之口章次『日本の葬式』(ハヤカワ・ライブラリー)、早川書房、1965年
・大塚民俗学会〔編〕『日本民俗事典』、弘文堂、1998年
・内田武志・宮本常一〔編〕『菅江真澄全集』第9巻、未来社、1973年
・金川健三『ぼく』、大阪出版社、1926年