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昭和26年のてるてる坊主【てるてるmemo#27】


はじめに

 前回まで、昭和29年、28年、27年とさかのぼりながら、昭和20年代後半のてるてる坊主の特徴を分析してきました。検討の材料としたのは、てるてる坊主研究所でジャンルを問わずに蒐集してきた文献資料です。

 引き続いて本稿では昭和26年(1951)の資料に注目します。かつて分析した昭和30年代のてるてる坊主の傾向とも比較しながら検討を進めていきましょう。
 まず注目したいのは絵や写真のある資料。この年は8例を数えます(★後掲の「昭和26年(1951年)のてるてる坊主【てるてる坊主図録Ver.5.3】」、および、表1参照)。

1、姿かたち・目鼻・文字

 絵や写真のある資料8例をめぐって検討の切り口としたいのは、てるてる坊主の「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」の3点。
 第一に姿かたちをめぐって。当時のてるてる坊主には、スカート姿のものと着物姿のものの2種類が見られます。スカート姿のものは、昨今のてるてる坊主と同じように裾をひらひらとさせています。いっぽう、着物姿のものは着物を着ていて、ときには帯を締めています。
 スカート姿のものと着物姿のものの事例数を比較してみると、昭和30年代にはスカート姿が圧倒的に優勢でした。しかしながら、それに先立つ昭和20年代の終わりごろには着物姿がやや優勢です(★後掲の表2参照)。この昭和26年も同じく、着物姿(5例)がスカート姿(4例)よりやや優勢です(⑦は両者が併存)。

 資料⑦のてるてる坊主は実際にはスカート姿ですが、子どもたちの夢のなかで、衣を作って着せてもらって喜んでいます(★図1)。そのため、ここではスカート姿と着物姿の併存と捉えておきましょう。

 第二に目鼻の有無をめぐって。眉・目・鼻・口など顔のパーツがあるものと、それらがないのっぺらぼうのものにわけた場合、昭和27年から39年にかけては、ほぼずっと前者の目鼻のあるもののほうが優勢でした。ただし、昭和30年と37年の2カ年だけは、両者の事例数が拮抗していました(★後掲の表3および図2参照)。そして、この26年も目鼻のあるもののほうがだいぶ優勢です。

 第三に文字の有無をめぐって。昭和27年から35年にかけては、願いごとを文字にしててるてる坊主に記す作法が毎年見られました(★後掲の表4参照)。しかしながら、この昭和26年にはそうした作法はまったく見られません。

2、設置場所・設置方法

 てるてる坊主の絵や写真がある8例の資料から読み取れる情報をもとに、昭和26年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵や写真のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表5参照)。

 前掲した表1と表5を合わせて、まず注目したいのがてるてる坊主を吊るす場所。木には7例(②③⑤⑦⑫⑬⑱)見られます。なかでも、資料⑫には具体的に松の小枝と記されています。あるいは、軒に2例(⑧⑩)見られます (★表6参照)。

 軒や窓辺などを「建物の周辺部」として一括りにしたうえで、「建物の周辺部」と「木」の事例数を年ごとに比べてみましょう。昭和32年~39年(1957-64)の8カ年では、「木」優勢は35年のみで、実に7カ年で「建物の周辺部」優勢です。
 いっぽう、それに先立つ昭和26年~31年(1951-56)の6カ年では、29年のみ同数で、そのほかの5カ年は「木」優勢です。てるてる坊主の設置場所は、昭和30年代前半に「木」から「建物の周辺部」へと緩やかに移り変わったようです(★図3参照)。

 木や軒ではない場所も散見できます。資料⑮では単に「外」と記されています。そのほかには「ルツク」(リュックサック。⑰)、あるいは、「靴の中、机」や「枕のそば」という例(ともに⑳)も。
 なお、設置方法に注目してみると、言うまでもなく、てるてる坊主はほとんどの場合は吊るされています。そうしたなか、ここに挙げた資料⑳では「靴の中、机」や「枕のそば」に「おいた」と記されているのも特徴的です。この資料⑳については、あとでまた詳しく紹介します。

3、作る動機

 てるてる坊主を作る機会として目立つのは学校行事。運動会が2例(⑬⑳)、遠足が1例(⑪)見られます。
 前掲した図1のてるてる坊主は、『よいこ』2巻2号二年生(資料⑦)所収の、漫画家・さわいいちさぶろう(1911-89)の「てるてるぼうずのゆめ」という作品に登場しています。ここでは、子どもたちが外出を前にしててるてる坊主を作っています[『よいこ』1951:71-75頁]。
 同じく先に触れた、リュックサックに吊るされたてるてる坊主は、山登りの際に晴天に恵まれるようにと作られたもの。雑誌『山』188号(資料⑰)所収の島田武(生没年不詳)「秋雨の峠」という一文に次のように記されています[『山』1951:32-33頁]。

「照る照る坊主」を作つて晴天を祈願するのは、茶気大いに掬すべきものがあるが、「登山に出発する前夜手紙を書くと山で雨に会う」とか、「枕元にルツクを置いて寝れば雨に会わない」——などから始まつて、晴天のマスコツトをルツクに下げたり、たわいもないことが、まことしやかに、しかもずいぶん大巾に登山家の間で行われている。

 太陽や月、星といった天体観測に際してもてるてる坊主が作られている例がふたつ見られます。ひとつは、日蝕や月蝕の観測について記している例。『写真と技術』16号(資料⑯)に収められた、写真家・江崎清(生没年不詳)の「今は昔」と題する一文です[『写真と技術』1951:6頁]。

日蝕や月蝕があると地方まで出張した。私が覚えてゐるのは、宇都宮へ日蝕を写しに行つた時と、仙台へ金環蝕を写しに行つた時のことである。父が出張した後には、家の者は照る照る坊主を作つて天気を祈つたことなぞ懐しい思出だ。

 父親が日蝕・月蝕の写真撮影に赴いた日、子どもたちがてるてる坊主を作って好天を祈ったといいます。
 もうひとつは、星の観測について記している例。『天文月報』45巻1号(資料⑲)の「POSITIVE NEGATIVE」欄に寄せられた、「竹内」と筆者が記されている報告です[『天文月報』1951:10頁]。

東京天文台の掩蔽観測出張も回を重ねること既に十数回。……(中略)……12月5日、6日の観測では静岡県金谷、茨城県田水山、上大津に出かけた両観測班とも光電観測に見事成功、本陣の三鷹で得られたものと合わせて一挙に6個の貴重な資料が得られた。尤もその蔭には天文台女子職員一同がテルテル坊主を作つたり、慰問文を送つたりの涙ぐましい応援があつた由。

 掩蔽えんぺいとは、日本天文学会の「天文学辞典」というWEBページによると、「観測している天体と観測者の間を他の天体が通過するために、観測している天体が隠される現象」のこと。また、光電観測とは、電子的光検出器(光電測光器)を使って天体の明るさを測る方法をいうそうです。各地の掩蔽観測が無事におこなわれるよう、国立天文台(東京都三鷹市)では「女子職員一同」がてるてる坊主を作って応援していたといいます。

4、効力アップの工夫

 続いて注目したいのが、てるてる坊主の効き目をアップさせようとする工夫。ふたつの事例が見られます。
 ひとつは、竹柏会が発行している短歌雑誌『心の花』の55巻10号(資料⑨)に掲載されている、寺江定子(生没年不詳)が詠んだ一首から[『心の花』1951:19頁]。

そぼぬるるてるてるばうず所在なくば来てよひそかに酒のまさうぞ

 てるてる坊主を吊るしたものの、天気は雨。濡れたてるてる坊主はいかにも所在なさげです。そんなてるてる坊主に向けて、もし良かったらこっそりこっちに来て酒でも吞まないかと呼びかけています。
 もうひとつは、詩人・森英介(1917-51)の詩集『火の聖女:地獄の歌』(資料⑳)から。「童子」と題された詩の一節です[森1951:72-73頁]。

お雨さん
お雨さん
 
テルテル坊主おいたのに
あゝ なぜ降るの
 
靴の中、机にもテルテル坊主のおまぢな
麦酒の泡をふりかけて
 
枕のそばにおいたのに   お雨さん
なぜ降るの
 
遠足の
朝の 窓の 雨

 遠足を前にしててるてる坊主が作られています。先にも触れたように、設置場所としては「靴の中」「机」「枕のそば」が列挙されています。また、設置方法は吊るすのではなく「おいた」というのが特徴的です。そして、てるてる坊主の「おまぢなひ」の効果を上げるべく、ビールの泡を振りかけています。

5、お礼と罰

 次に、願いがかなって晴れた場合のお礼、あるいは、願いがかなわなかった場合の罰をめぐって。まず、お礼については浜田徳太郎(1883-)と成田潔英(1884-1979)がまとめた『紙すきうた註解』(資料⑫)から。「紙と川柳」の節の「花見と紙」という項に挙げられているのが次の一句[浜田・成田1951:152頁]。

花の翌日あす紙の帰依僧ときにつき

 出典は不明ですが、前後の文脈からしておそらく江戸時代の川柳と推測されます。「花の翌日あす」とは花見の翌日のこと。そして、「紙の帰依僧」、すなわち、紙で作った信仰対象の僧とは、てるてる坊主のこと。「とき」とは日中の食事のことを指します。
 花見を前にしててるてる坊主を作ったところ、花見当日は無事に好天に恵まれたのでしょう。花見の翌日、てるてる坊主にごちそうを供えている光景が詠まれています。

 いっぽう、願いがかなわなかった場合の罰については、毎日小学生新聞編集部が編んだ『白い風:少年少女作文集』(資料⑪)から。そのなかに収められている「潮干狩しおひがり」と題する作文にてるてる坊主が登場します。作者は東京都杉並区にある桃井第三小学校4年生の石田哲彦(生没年不詳)[毎日小学生新聞編集部1951:187-188頁]。

雨のためにのびにのびた遠足は、千葉県の幕張まくはり海岸です。
ぼくはとびあがるほどうれしかったです。学校へ行ってみると、みんながもう来ていました。中央線にのって中野でのりかえました。電車はまもなく幕張駅につきました。ちょうど、雨がザーザーとはげしくふってきたので、プラット・ホームで、あまやどりしました。ぼくは、もう遠足はだめかと、思いました。窪田くぼた君は「家へ帰ったら、てるてるぼうずの首を切っちゃうよ。」と、いいました。

 クラスメートの窪田君は遠足を楽しみにしててるてる坊主を作ったのでしょう。しかしながら、遠足の目的地に着いた途端にザーザー降りの大雨。願いがかなわなかったので、窪田君はてるてる坊主の首を切ってしまうそうです。

おわりに

 最後に注目しておきたいのが、『理科資料単元』小学校四年の上巻(資料⑭)に見られる記述。「自然の変化」という章の「春夏秋冬によって、天気はどのようにちがうでしょう」という項目に次のように記されています[『理科資料単元』1951:30頁]。

天気に関する迷信も多い。それについてしらべ、話し合う。たとえば、
1 かみなりがへそを取る。
2 ひなた雨が降るのは、きつねの嫁入りがあるとき。
3 かみなりが落ちると、雷獣がかけまわる。
4 てるてるぼうずを作ると雨が止む。
5 雨乞いをすると雨になる。
このような迷信は、よく検討してそれを信じない態度を養うことが大切である。

 この『理科資料単元』は、学校で子どもたちに理科を教える際の指導書。そのなかで、信じてはいけない迷信として、雨乞いなどと並んでてるてる坊主が挙げられています。

 本稿は昭和26年のてるてる坊主をめぐる粗い覚え書きでした。もっと長い目で見た昭和20年代全般におけるてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献
【表1と表5に関わるもの】(発行年はいずれも昭和26年(1951)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①西条八十〔編〕松田文雄〔絵〕『日本童謡集』、あかね書房(「てるてるぼうず」)
②新関健之助『トラノコトラチャン魔法の輪』、金の星社
③『よいこ』2(3)一年生、集英社(黒崎義介「てるてるぼうず」)
④『小学二年生』7(3)、小学館(中條雅二〔作〕初山滋〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑤新井五郎『おにんぎょう』、光洋社出版
⑥塚本信男『子供写真の写し方』、双芸社
⑦『よいこ』2(2)二年生、集英社(さわいいちさぶろう「てるてるぼうずのゆめ」)
⑧『なかよし』4(39)2年、新潟日報社(おおぎすいよし「てるてる坊主(ぼーず)」)
⑨『心の花』55(10)、竹柏会(寺江定子)
⑩永井鱗太郎『あかいおりづる:幼年劇集』、誠文堂新光社(「みぶりだけのげき(2)」)
⑪毎日小学生新聞編集部〔編〕『白い風:少年少女作文集』、あかね書房(石田哲彦「潮干狩」)
⑫浜田徳太郎・成田潔英〔共編〕『紙すきうた註解』、製紙記念館(「紙と川柳」「紙と俚謡」)
⑬『太陽少年』2(12)、妙義出版社(伊藤隆夫「マンガ運動会」)
⑭『理科資料単元』小学校四年 上巻、金子書房 (「春夏秋冬によって、天気はどのようにちがうでしょう」)
⑮『横須賀市の気候』、横須賀市教育研究所(「俚諺と気候」)
⑯『写真と技術』16(3/4)、写真と技術編集部(江崎清「今は昔(2)」)
⑰『山』188、朋文堂(島田武「秋雨の峠」)
⑱箕島町編纂委員会〔編〕『町誌たちばなのさと』、箕島町誌発行会(「伝説」)
⑲『天文月報』45(1)、日本天文学会(竹内「POSITIVE NEGATIVE」)
⑳森英介『火の聖女:地獄の歌』、火の会(「童子」)
㉑『日本及日本人』2(12)、J&Jコーポレーション(14世根岸川柳「川柳の研究」)
㉒東条操〔編〕『全国方言辞典』、東京堂

参考にしたWEBページ
・日本天文学会「天文学辞典」
https://astro-dic.jp/


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