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天気の好し悪しと日ごろのおこない【てるてる坊主考note#32】


はじめに

 わたしたちはときどき、天気を自らの日ごろのおこないと関連づけて解釈しようとすることがあります。
 たとえば、久しぶりに屋外での野球観戦の日。雨の予報が外れて、うそのように気持ちのよい好天に恵まれたなら、「日ごろのおこないがいからかなぁ」と悦にるようなこともあるでしょう。
 あるいは、一生のうちに何度も見られないような流星群が予想される夜。あいにくの雨模様で、心待ちにしていた天体ショーを見損なったときには、「日ごろのおこないが悪いせいかなぁ」と自身の不徳を責めることもあるでしょう。
 こうした解釈のもとになっているのは、人間のおこないが天に作用するという発想です。古今東西を見わたすと、人と天を相関的に捉えようとする思想は、古代の中国で顕著に発達しました。
 本稿では、古代中国における人と天気をめぐる思想をまず概観します。さらには、そうした思想がやがて日本へもたらされて展開していった、具体例も紹介します。そのうえで、人が天気に働きかけようとする場合の、手段のひとつであるてるてる坊主の位置づけにも触れられればと思います。

1、殷(商)の湯王による雨乞い

 はじめに、古代中国の事例から。六朝時代(220-589)の前期、4世紀半ばに文人・干宝(?-336)が著した『捜神記』は志怪小説の祖と称され、奇怪な話が無数に集められています。
 全20巻のうち、天子が天命を受ける話を集めたのが巻8。そのなかに「湯王の雨乞い」という話が収められています[干1964:176頁]。

商の湯王が夏を滅ぼしたのち、七年間も大ひでりが続き、洛川は涸れてしまった。そこで湯王は桑林そうりんまで出かけて神を祀り、爪と髪を切り、みずからを犠牲いけにえとして捧げる心で上帝に祈願した。すると、たちまちのうちに大雨が降り、国じゅうがうるおったのであった。

 商とは中国の王朝。別名の殷のほうがよく知られているでしょうか。紀元前17世紀ごろから紀元前11世紀半ばまで、黄河の中流域を支配しました。その創始者がとう王(生没年不詳)で、善政をおこなったことで知られています。
 湯王の時代に、酷い旱魃が7年ものあいだ続いたことがあったといいます。黄河の支流の1つ、洛川の水が涸れるほどでした。
 そうしたなか、湯王は自ら雨乞いをおこなっています。湯王が赴いた場所は桑林。桑の生えた土地というわけではなく、固有の地名のようです。祈願の対象は「上帝」。これは別名を「天帝」とか単に「てい」ともいい、中国における天上の最高神を指します。
 湯王がおこなった雨乞いでは、自身の爪と髪を切って、天の神さまに捧げるという方法がとられました。そこには、湯王が自らを生け贄として天の神に捧げる、という意味が込められています。

2、天の子孫や臣下としての王

 初代・湯王のあとも、殷王朝では天の神さま「てい」に対する崇敬が長く続きました。「帝」をめぐっては、科学思想史研究者・荒川ひろし(1940-)が論考「天の思想史」(2001年)のなかで次のように説明しています[荒川2001:2-3頁]。

帝は意志をもつ天の神、雨を降らこ(ママ)とも、旱魃を起こして飢饉をもたらすこともでき……(中略)……自然と人事にたいして絶対的な力をもつと考えられていた……(中略)……自然神でありながら帝は別格の存在、殷の王はその直系の子孫であるとされていた。

 殷の代々の王たちは、天の神さま「帝」の直系の子孫であるため、「帝」の意志を予見できるのだと考えられていました。殷の都から発掘された甲骨文には、王が卜占によって「帝」に伺いを立てた文言が数多く見られるといいます。

 殷のあとに続くのが周の時代(紀元前1046ごろ-紀元前256)。荒川は当時の詩を集めた『詩経』を分析対象としています。そのなかでは、殷の時代から引き続いて、天を表すのに「帝」という語が使われています。加えて、目立ってくるのがそのものズバリ「天」という表記。
 「帝」と同様に「天も地上の自然を支配、旱魃をひきおこし、飢饉をもたらす神」でした。注目されるのは、そうした天の臣下として王を位置づけた詩が散見される点。なかには、雨が降るよう祈って、王が犠牲を捧げて天を祀った詩も詠われているといいます。
 こうした、古代中国における天の信仰をめぐって、荒川は、「人間の頭上を覆う圧倒的な存在である天空そのものが意志をもち、ときには超自然的な力を振るう人格的な神であった」と指摘しています[荒川2001:4-5頁]。

3、災異説に基づく天人相関説

 その後、中国における天をめぐる思想や科学・哲学は、前漢の時代(紀元前206-紀元後8)に頂点を迎えたと荒川はいいます。なかでも注目されるのが災異説。荒川はその代表例を2つ挙げています。

 1例めは、劉安(紀元前179-紀元前122)が指揮を執って編纂された哲学書『淮南子えなんじ』に見られる記述。劉安は前漢の初代皇帝・劉邦(紀元前247-紀元前195)の孫で、淮南《わいなん》地方の王です。
荒川によれば、『淮南子』の特徴は「気」を原理として天地の創成や構造を説いていること。本稿の関心に沿うかたちで、荒川が指摘する『淮南子』の要点をいくつか抜き出してみましょう[荒川2001:13-15頁]。

・「陽と陰の気が上下に分離、凝縮して天と地が形成された」
・「風、雨、雷、雪などの気象も天と地の気に起因する」
・「洪水も旱魃も陰陽の気の生み出す現象である」

 気象の変化やそれにともなう災害は、陽(天)と陰(地)の気によって引き起こされるというのです。
 そのうえで荒川が注目しているのが、『淮南子』に記された「君主は天に従わねばならない。それを怠ると天に異変が生ずる……(中略)……人間は天=自然にも作用する」という考えかた。その具体例として、巻3「天文訓」から次のような記述を引用しています[荒川2001:15頁]。

人主の情は上に通ず。故にちゅう暴なれば則ち飄風へうふう多く……(中略)……令をもて収めざれば、則ち淫雨多し。

 君主の思いは天に通じている。そのため、罪ある者を暴力的に罰するならば、激しいつむじ風が巻き起こる。それでも天の意志に従おうとしないのならば、長雨が降り続ける。そういった思想が記されています。
 人間のおこないは天に通じている。なかでも、君主の場合は特別で、誤った統治をおこなえば天の怒りを買い、たちまち風水害に見舞われるというのです。

 2例めは、儒学者・董仲舒(紀元前176ごろ-紀元前104ごろ)が『春秋繁露しゅんじゅうはんろ』で提示した、災異説に基づく天人相関説。ここでも、荒川が整理している要点を挙げると以下のとおりです[荒川2001:16頁]。

・「君主が道を失って政治が悪化すれば、天はそれを咎めて災害を起こす」
・「それでも反省がなければ、奇怪な現象を起こして警告す」
・「君主は天のもたらす自然現象の変異にたえず注意して、君主は天の意志にかなった政治につとめねばならない」
・「天の意志を端的に示すのが、天体の異常、とくに惑星の不規則な運動は政治の乱れの反映であると見られていた」
・「人間の気は天の気へ感応するのであって、だから、降雨も止雨も人間の行為で可能である」

 君主が誤った統治をおこなうと、天は自然現象に変異をもたらすといいます。君主がとくに注意を怠らなかったのが、天体や気象に関しての異常。
 なかでも、天気は人間の気に応じて変化するので、人間のおこない次第で雨をコントロールすることも可能なのだといいます(古代中国における天の思想、および、災異説や天人相関説の展開をめぐっては、堤之智ゆきとも氏(1958-)のブログ「気象学と気象予報の発達史」をおおいに参考にさせていただきました。https://korechi1.blogspot.com/)。

4、天皇の命令による雨乞い

 人間の日ごろのおこないが天気に作用することを解いた古代中国の災異説や天人相関説は、やがて日本にも伝わります。それは、日本列島と中国大陸や朝鮮半島とのあいだで往来が活発だった7世紀ごろのこと。
 災異説や天人相関説の影響を窺わせるような、日本の事例を紹介しましょう。江戸時代の随筆集『譚海』に見られる、天皇の命令による雨乞いの記事です。『譚海』は津村正恭(1736-1806)が著し、寛政7年(1796)に発行されました。雨乞いについての記事は巻3に掲載されています。
 ある年、京の都が旱魃に襲われたといいます。具体的な年代は記されておらず不明です。旱魃により、近郷では琵琶湖から流れ出る水も干上がるほどだったといいます。そこで、天皇が命じて雨乞いがおこなわれました。その様子が以下のように詳しく綴られています(読みやすさを考慮して、原文に句読点と改行を加えた)[津村1796]。

禁裏にて雨乞せさせ給ふ事あり。
其式は北山八瀬の村より嫁せざる十五六歳の女子を壱人召れ、五つ衣緋の袴等を借し下され、官女の衣体に仕立られ、
女子沐浴潔齋して此服を着し、三重がさねの扇子をもち、高き台の上に座せしめらる、
其台は白木にてこしらへ、高さ壱丈余なる物にて四楹に笹竹をたて、其竹に院中より始め、堂上公卿の雨乞に詠ぜられたる和歌を、短冊に書れたるを結ひ付、堂上の雑掌かはる〴〵其下に番をする事也。
扨潔齋の日限終りて、女子を官服のまゝ手輿にうつし、大の字山へかき行也。供には雑掌残りなく倶し、炎天に蓑笠を着て行列をとゝのへ、晚景に出京し、
彼山に行登りて、神泉苑の水を硯にうつし墨にすり、女子に書せたる呪文を谷に投入て帰路に赴く時、やがて一天かきくもり、大雨車軸を流す如く降たりとぞ。

 雨乞い儀礼の主役を担っているのは15~16歳の女の子。八瀬やせ(現在の京都市左京区)から召し出されてきた未婚の子です。からだを清めたのち、宮中の女性と同じ衣裳をまとって、高さ3メートルあまりもある台のうえに座らされます。四隅に立てられた笹竹にはたくさんの短冊。そこには、宮中の人たちが雨を乞いつつ詠った和歌が記されました。
 そうした潔斎の日が済むと、女の子は輿に乗せられて大の字山(大文字山。標高465メートル)へ運ばれます。この山登りに、たくさんのお供が行列となって付き従います。炎天下ですが、お供の人たちはみな、蓑笠を着けた雨支度。
 おそらく、山の頂上まで登ったのでしょう。そこで女の子が雨乞いの呪文をしたためます。使われたのは、雨乞いの霊験あらたかなことで知られる神泉苑(現在の京都市中央区)の池の水で磨った墨。その呪文を谷へ投げ入れたところ、山からの帰途、早くも豪雨がやってきたといいます。
 この『譚海』に記された雨乞い儀礼について、民俗学者の宮田登(1936-2000)は次のような解釈をしています[宮田1977:36頁]。

京都では大文字山が雨乞いの対象となっており、この山中に水神がいると信じられていたらしい。この神に天皇の代行者である一五、六歳の女子が立てられ、それが一種いけにえの機能を発揮するようだ。その女子が谷へ呪文を投入するというのは、いけにえとしての女性が水神に捧げられたことを象徴する儀礼だろうか。この段階では、天皇の代行者が、雨乞いの霊力を現出するのであるが、本来は天皇の宗教活動の一つであったように思われる。

 本来ならば天皇が自ら先頭に立って雨乞いの儀礼をおこなうべきところ、女の子がその身代わりとなって、水神に生け贄として捧げられる役を担っている、という指摘です。
 また、民俗学者の赤坂憲雄も、同様に『譚海』の記事に着目しており、「この雨乞いの儀礼にあたって、天皇→少女→呪文という〈置き換え〉がおこなわれていたようにおもわれる」と述べています[赤坂2002:245頁]。

おわりに

 人間のおこないは天に通じている。そして、誤ったおこないに対しては、天は自然現象に変異をもたらすかたちで警告する、という古代中国の災異説や天人相関説。かつての君主たちは天体や気象に異常がないか、注意を払ったといいます。
 その名残といえるでしょうか、冒頭で触れたように、とりわけ気象状況については、わたしたちも自らの日ごろのおこないに原因を求めて解釈しようとすることがあります。
 そうやって自分のおこないと天気に因果関係を見出そうとする場合、一般的に、「晴」の原因は日ごろのおこないが「善い」ため、「雨」の原因は日ごろのおこないが「悪い」ためとされます。
 注目したいのは、善悪を逆にして、日ごろのおこないが「悪い」から「晴」とか、日ごろのおこないが「善い」から「雨」とは言わない点。これはいったいなぜでしょうか。
 かつて、わたしたちのお天気観を探って整理したことがあります。とっかかりにしたのは、「天気がいい」とか「天気が悪い」といった、天気に関わる日常の言いまわし。その結果、月並みではありますが「晴=プラス」/「雨=マイナス」という図式を再確認することができました(★詳しくは表、および、「なぜ「ふれふれ坊主」はないのか【てるてる坊主考note#30】」参照)。

 先述したような、天気の「好い/悪い」を日ごろのおこないの「善い/悪い」と結びつける発想もまた、この「晴=プラス」/「雨=マイナス」という図式を基盤としているのでしょう。
 あるいは、人にレッテルを貼って「晴女・晴男」とか「雨女・雨男」という際にも、前者にはポジティブなイメージ、後者にはネガティブなイメージがなんとなく付きまといます。周りから「晴女・晴男」だといわれても、嫌な感じはしません。しかしながら、「雨女・雨男」呼ばわりされるのは残念です。
 こうした、「晴女・晴男=ポジティブ」/「雨女・雨男=ネガティブ」というイメージにも、天気の原因を日ごろのおこないに求める発想が絡まっていそうです。すなわち、好天をもたらす「晴女・晴男」は日ごろのおこないが「善い」のに対し、悪天候をもたらす「雨女・雨男」は日ごろのおこないが「悪い」のではないか、という連想です。
 わたしたちがてるてる坊主を作るのは晴れてほしいとき。とりわけ、晴れてほしいのにまさかの雨模様の場合、その願いは切実さを増します。
 それでも、結果的に願いはかなわず無情の雨という場合も当然あるでしょう。そうしたとき、わたしたちはてるてる坊主に責めを負わせることができます。ひょっとしたら、悪天候に見舞われたのは、自らの日ごろのおこないが悪かったせいかもしれないのに。

参考文献

・赤坂憲雄『境界の発生』、講談社、2002年(初版は砂子屋書房、1989年。初出は「人身御供譚への序章」〈兵藤裕己・山本ひろ子・赤坂憲雄〔編〕『物語・差別・天皇制』、五月社、1985年〉)
・荒川紘「天の思想史」(『人文論集』51巻2号、静岡大学人文学部、2001年)
・干宝〔著〕竹田晃〔訳〕『捜神記』(東洋文庫10)、平凡社、1964年
・堤之智「気象学と気象予報の発達史」https://korechi1.blogspot.com/
・津村正恭『譚海』、1796年
・宮田登『民俗宗教論の課題』、未来社、1977年(初出は「いわゆる権威としての天皇信仰」〈『季刊現代宗教』創刊号、エヌエス出版会、1975年〉)

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