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昭和27年のてるてる坊主【てるてるmemo#26】
1、これまでの試行錯誤
ここ最近、昭和20年代(1945-54)のてるてる坊主に注目して、その特徴の分析を進めています。これまでのところ、昭和29年と28年のてるてる坊主について検討してきました。検討の材料としたのは、てるてる坊主研究所でジャンルを問わずに蒐集してきた文献資料。
引き続いて本稿では昭和27年(1952)の資料に注目します。これまでに紹介した昭和20年代から30年代の事例とも比較しながら検討を進めていきましょう。
まず注目したいのは絵のある資料。この年は8例を数えます(★後掲の「昭和27年(1952年)のてるてる坊主【てるてる坊主図録Ver.5.4】」、および、表1参照)。
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2、姿かたちと色
絵のある資料8例をめぐって検討の切り口としたいのは、てるてる坊主の「姿かたち」「色」「目鼻の有無」「文字の有無」の4点です。
第一に姿かたちをめぐって。昨今のてるてる坊主は裾をひらひらとさせたスカート姿をしています。昭和30年代にもそうしたスカート姿のものが大半でしたが、ときおり、着物姿のものも散見できます。着物姿のものは着物を着ていて、ときには帯まで締めています。
ともあれ、スカート姿と着物姿の事例数を比較してみると、昭和30年代に圧倒的に優勢だったのはスカート姿。10年間のうち実に9カ年はスカート姿のほうが優勢で、昭和33年だけ両者の事例数が拮抗していました(★表2参照)。
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いっぽう、昭和30年代に先立つ昭和29年と28年に注目してみると、スカート姿より着物姿のほうが優勢です。その傾向はこの27年も変わりません。着物姿(6例)がスカート姿(3例)の倍も見られます。昭和30年前後が、着物姿からスカート姿への過渡期にあたるのかもしれません。
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なお、昭和27年の事例のうち、資料⑦は着物姿のものとスカート姿のものが混在しています(★図1の上)。また、⑤は首元よりも裾のほうが広がっていてスカート姿にも近い姿をしています(★図1の下)。ただし、胴に紙を巻いて着物のようにしてあり、帯も巻いているため、ここでは着物姿と捉えておきましょう。
第二に色をめぐって。通常の白ではなく、色の着いたてるてる坊主も散見できます。前掲したように資料⑦では着物姿のものとスカート姿のものが混在していますが、着物姿のものには赤い着物に赤い帯や、白い着物に紫の帯のものが見られます(★前掲した図1の上)。あるいはスカート姿のものも、さまざまな色や模様のリボンを首に着けています。同じく前掲した⑤では、赤い紙を衣として巻き、そのうえに黄色い帯を巻いています(★前掲した図1の下)。
ほかにも、着物姿のてるてる坊主には色の着いたものが目立ちます。資料④では赤い花柄の着物に赤い帯という組み合わせ、また、⑧では白い着物にやはり赤い帯を締めています(★図2参照)。
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3、目鼻と文字の有無
第三に目鼻の有無をめぐって。眉・目・鼻・口など顔のパーツがあるものと、それらがないのっぺらぼうのものにわけた場合、昭和30年代にはほぼずっと前者の目鼻のあるもののほうが優勢でした。ただし、昭和30年と37年の2カ年だけは、両者の事例数が拮抗していました (★表3参照)。
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昭和30年代に先立つ昭和29年と28年には、やはり目鼻のあるもののほうがやや優勢でした。そして、この27年も目鼻のあるもののほうがだいぶ優勢です。なお、資料⑥では「へのへのもへ」といった平仮名で顔のパーツが書き込まれており、さらに、ひげも生やしているのが特徴です(★図3参照)。
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第四に文字の有無をめぐって。昭和28年から35年にかけては、願いごとを文字にしててるてる坊主に記す作法が毎年見られました(★後掲の表4参照)。しかしながら、昭和36年以降になるとそうした作法はほとんど姿を消し、38年に1例見られるのみです。
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この昭和27年には、文字のある事例は2例。ひとつは資料⑦で、窓の外に吊るされているてるてる坊主10個のうち8個に文字が書いてあります(★前掲の図1の上)。さまざまな色を使って「てる」と書き込まれています。
もうひとつは資料⑤(★前掲の図1の下)。赤字の衣に白い文字で、やはり「てる」と何か所も書き込まれています。
この資料⑦と⑤を見比べてみて、注目したいのが文字の向き。前者の⑦では、どの文字もきれいに縦に並んでいます。おそらく、てるてる坊主のかたちを完成させたのちに、文字を書き入れたのでしょう。いっぽう、後者の⑤は向きがバラバラ。こちらは、衣とする紙にあらかじめ文字を書き入れておき、それから胴の部分に巻いて、てるてる坊主のかたちを完成させたのでしょう。
4、設置場所(木・建物の周辺部など)
てるてる坊主の絵がある8例の資料から読み取れる情報をもとに、昭和27年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表5参照)。
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前掲した表1と表5を合わせて、まず注目したいのがてるてる坊主の設置場所。木には8例(②③⑧⑨⑫⑬⑭⑮)見られます。具体的な樹種が明示されている例としては、南天(⑬)と梅(⑭)が1例ずつ。資料⑨では生け垣に結びつけられたり掛けられたりしています。
あるいは、軒に4例(④⑥⑦⑲)、窓辺に1例(⑱)見られます。軒と窓辺を「建物の周辺部」として合わせると5例を数えます。この昭和27年には「木」(8例)が「建物の周辺部」(5例)よりも優勢です(★表6参照)。
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「木」と「建物の周辺部」の事例数を年ごとに比べてみましょう。昭和32年~39年(1957-64)の8カ年では、「木」優勢は35年のみで、実に7カ年で「建物の周辺部」優勢です。いっぽう、それに先立つ昭和27年~31年(1952-56)の5カ年では、29年のみ同数で、そのほかの4カ年は「木」優勢です。この時期、設置場所が「木」から「建物の周辺部」へと緩やかに移っていく傾向を見て取ることができます。
「木」や「建物の周辺部」以外に設置されている例がひとつだけ。俳句集『新墾』22巻9号(資料⑱)に次のような句が収められています[『新墾』1952:34頁]。
春灯にてるてる坊主下げてあり
下関(山口県)在住の田村見呂勺(生没年不詳)が詠んだ句です。春灯とは文字どおり、春の夜のともしびのこと。明くる日に控えていたのは花見でしょうか。
5、作る動機(学校行事など)
てるてる坊主が作られる機会として目立つのは学校行事。遠足が4例(②⑨⑩⑬)、運動会が2例(⑬⑭)見られます(⑬は遠足と運動会を並記)。
そのほかの例はふたつ。ひとつは、海へ遊びにいく前日にてるてる坊主を作っている例。波野千代(1897-?)が、句集『ホトトギス』55巻2号(資料⑮)に「てる〳〵坊主」という短文を寄せています。波野千代は歌舞伎役者・中村吉右衛門(初代。1886-1954)の妻。てるてる坊主が次のように登場しています(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[『ホトトギス』1952:9頁]。
友達を連れて、孫達が遊びに来た。明日は海へ行くのだと云つて、はしやいで居たのが、急に雨になつたので、子供達は皆てる〳〵坊主をこしらへ初め、庭中の木と云ふ木に一杯つるして帰つて行つた。翌日雨は上つたが、ぬれたてる〳〵坊主が、あち、こちに汚らしく下つて居るので、私は女中に言つて片附けさせた。
前掲した資料⑦(★図1の上)と同様に、子どもたちの手でてるてる坊主がいくつも作られています。もっとも、窓の外に吊るされている⑦とは違って、こちらは「庭中の木と云ふ木」に吊るされました。そのため、てるてる坊主は雨に濡れて「あち、こちに汚らしく下つて居る」状態となり、片づけられてしまっています。
もうひとつは、来客を楽しみにてるてる坊主を作っている例。日本童話会が編んだ『幼児に聞かせるおはなし百選』所収の「おばあちゃんのおうちで」(資料⑲)という童話です。作者は滝川慈海(生没年不詳)[日本童話会1952:225頁]。
おばあちゃんのおうちでは、昭子ちゃんがくるという、お手紙がきていましたから、うちじゅうで、毎日、昭子ちゃんのことを お話して待っていました。
きのうなんか、五年生のひろ子ちゃんは、
「あした、お天気かしら。」
といって、ちよ紙でお人形さんをこしらえました。そしてお人形を、おうちののきにつるして、
「てるてるぼうず てるぼうず
あした天気に しておくれ。」
と、ひろ子ちゃんは、うたいました。
なお、この滝川慈海の「おばあちゃんのおうちで」という童話については、かつて、昭和31年(1956)の資料として紹介したことがあります。ところが、それよりも3年早いこの昭和28年のほうが初出のようです(★詳しくは「昭和31年のてるてる坊主【てるてるmemo#22】」参照)。
6、千代紙で作る
材料にも目を向けてみましょう。ほとんどの場合、てるてる坊主は紙で作られています。具体的には千代紙(⑧⑲)や鼻紙(②)、新聞紙(⑰)などが用いられています。
つい先ほど掲げた、『幼児に聞かせるおはなし百選』所収の「おばあちゃんのおうちで」(資料⑲)のなかでは、昭子ちゃんが来るのを待つひろ子ちゃんが、千代紙でてるてる坊主を作っていました。
もうひとつ、千代紙で作る事例が見られるのが、作詞家・松坂直美(1910-2002)の童謡集『おままごと』(資料⑧)。そのなかに収められた「ちよがみおりましょ」と題する次のような唄です(★図4参照)[松坂・清原1952:頁数表記なし]。
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ちよがみおりましょ
こんこんあめの
ふるときはなかよくちよがみ
してあそぼ
にんぎょのきものに
かざぐるま
それから
それから
なんにしよ
あしたはてんきに
なるように
てるてるぼうずも
つくりましょ
7、鼻紙や新聞紙で作る
鼻紙で作る事例に触れているのは、先述した「おばあちゃんのおうちで」(資料⑲)と同じく『幼児に聞かせるおはなし百選』に収められている「てるてるぼうず」(資料②)という童話。作者は増田浩子(生没年不詳)。幼稚園の遠足に来たものの、弁当を食べている最中に雨が降ってきてしまった場面です[日本童話会1952:81頁]。
やす子ちゃんは、いそいでおべんとうにふたをして、ポケットからはな紙をだしました。ぐるぐる。一枚をまんまるくまるめました。おやおや、いったい何をするのでしょうね。もう一枚
を、その上から、かぶせましたよ。おや、もうわかった人がいるようですね。
「ひもがないわ。」
と、あたりをさがしますと、
「これをあげましょう。」
先生が、赤い糸をくださいました。
その糸を、ぐるっとまくとでき上り。かわいいてるてるぼうずができました。赤い糸はまるでリボンのように見えます。
新聞紙で作る事例が見られるのは、『婦人生活』6巻4号(資料⑰)に収められた「密林の愛の女教師」と題する記事。筆者は「本誌特派記者」と記されています。当時からさかのぼること4年、昭和23年(1948)の春に山間の開拓地にある分校へと赴任した、女性教師の奮闘ぶりをめぐる報告です[『婦人生活』1952:129-130頁]。
片山先生がちょつと口の中で歌いながら、教室の後ろの方に目をやつて、はつと息をのんだ。
そこの壁には、生徒たちが一生懸命に書いた、習字や、図画や、算数や書取りの成績が張り出してあつたのだが、すゝけた、汁のような雨もりのために赤い丸や墨が汚なくにじんでしまつていた。
彼女は急いで、一枚一枚丁寧に机の上に拡げた。誰がぶら下げたのか、新聞紙の切れはしで作つたてるてる坊主が、しよんぼりと、雨もりに濡れていた。
ぐつしよりと雨を吸い込んだてるてる坊主。彼女は、幼い子等が、自分たちの書いたものが濡れるのを、うまく説明も、処理もできないまま、こうして、てるてる坊主を作つてぶら下げたその心根がいじらしくて、胸底がじーんとうずくのだつた。
8、お礼(酒・キャラメル)
最後に注目したいのが、願いがかなった場合のてるてる坊主へのお礼。酒をお礼にあげる例がふたつ見られます。ひとつは『こどもとかがく』26号(資料④)に収められた、くろいわたくま(1931-)の漫画「てるてるぼうずありがとう」より(★図5参照)。
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太陽のもと、てるてる坊主に向けて、グラスに入った酒が差し出されています。グラスの中身は、器に似合うような洋酒なのかもしれません。
もうひとつの例は、日本童詩教育連盟が編んだ『詩の国』45号(資料⑩)より。そこに収められている「行けなかつた奈良」という作文にてるてる坊主が登場します。作者は京都市新洞小学校4年生の山田圭吾(生没年不詳)。経済的な事情で遠足に行くことができない男の子の、複雑な胸のうちが綴られています[日本童詩教育連盟1952:5頁]。
僕は遠足にいかれへんのに「てるてるぼうずてるぼうず、あした天気にしておくれ、そしたら、あまざけほんまにのましてやるからな!」
いや、僕は遠足に行かれない、そう思うとてるてるぼうず、あした雨にしておくれと、いえてきた。
朝起きて見ると雨あがりでしーんとしていた。
こちらの場合は、酒は酒でも子どもらしく、もし晴れたら甘酒をあげるといいます。
あるいは、お礼が酒ではない例もひとつ。先ほど、鼻紙を材料にする例として挙げた、『幼児に聞かせるおはなし百選』所収の「てるてるぼうず」(資料②)には続きがあります[日本童話会1952:81頁]。
てるてるぼうずを、そばの木の枝にかけました。
ぶらん、ぶらん
てるてるぼうずは、パラパラ雨にあたって、ぶらんこしてますよ。
みんなは、これを見て、
「てるてるぼうず、てるぼうず、
すうぐに、天気にしておくれ。」
と、うたいました。
ふざけんぼうのてるおちゃんは、
「はれたら、キャラメル一こあげよ。」
と、うたったので、みんな笑いだしました。
もし晴れたらキャラメルをあげるといいます。先ほどの甘酒しかり、てるてる坊主は甘いものが好みのようです。
本稿は昭和27年のてるてる坊主をめぐる粗い覚え書きでした。もっと長い目で見た昭和20年代全般におけるてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。
参考文献
【表1と表5に関わるもの】(発行年はいずれも昭和27年(1952)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①山田光『幼児のためのリズム遊び』〔本編〕、万有社(「てるてるぼうず」)
②日本童話会〔編〕『幼児に聞かせるおはなし百選』、小峰書店(増田浩子「てるてるぼうず」)
③浜田広介『ひらがな童話集』、金の星社(中尾彰「てるてるぼうず」)
④『こどもとかがく』26(8月号)、明和書院(くろいわたくま「てるてるぼうずありがとう」)
⑤『どうよう』(小学館の幼年絵本1)、小学館(岩崎良信「てるてるぼうず」)
⑥『二年ブック』2(3)、学習研究社(「てるてるぼうず」)
⑦『こどもクラブ』8(7)、大日本雄弁会講談社(鈴木寿雄「てるてるぼうず」)
⑧松坂直美〔詩〕清原ひとし〔絵〕『おままごと』、ゆりかご社(「ちよがみ おりましょ」)
⑨宮津博ほか〔編〕『低学年のための新学校劇選』、誠文堂新光社(塩沢嘉孝「あしたはえんそく」)
⑩日本童詩教育連盟〔編〕『詩の国』45、東門書房(山田圭吾「いかなかつた奈良(作文) 」)
⑪『少女世界』5(11)、富国出版社(御法川富夫「てるてるぼうず」)
⑫『橄欖』31(12)、橄欖社(服部よし子)
⑬山口県文化史編纂委員会〔編〕『山口県文化史外篇』、山口県知事公室文化弘報課(「防長民謡集」)
⑭久保田浩・森久保仙太郎〔共編〕『教室の手帖』、誠文堂新光社(まつやま・かつこ「日々の記録」)
⑮『ホトトギス』55(2)、ホトトギス社(波野千代「てるてる坊主」)
⑯『寒虹』4(3)、寒虹発行所(田村美呂勺)
⑰『婦人生活』6(4)、婦人生活社(本誌特派記者「密林の愛の女教師」)
⑱『新墾:短歌雑誌』22(9)、歌誌新墾発行所(森谷一夫「療室」)
⑲日本童話会〔編〕『幼児に聞かせるおはなし百選』、小峰書店(滝川慈海「おばあちゃんのおうちで」)