昭和29年のてるてる坊主【てるてるmemo#24】
1、これまでの試行錯誤
かつて、昭和30年代のてるてる坊主の特徴をつかむべく、昭和39年(1964)から30年(1955)まで1年ごとにさかのぼりながら、全10回にわたって検討を加えました(★詳しくはマガジン「昭和30年代(1955-1964)のてるてる坊主たち」の各記事を参照)。
検討対象としたのは、てるてる坊主研究所でこれまでにジャンルを問わずに蒐集してきた文献資料。蒐集にあたっては、おもに国立国会図書館の所蔵資料、およびそのデジタルコレクションを活用させていただきました。
引き続いて本稿では、昭和30年代に先だつ昭和29年(1954)の資料に注目します。これまでに紹介した昭和30年代(1955-64)の事例とも比較をしながら検討を進めていきましょう。
それでは、いまから70年さかのぼったてるてる坊主のある光景へ。まず注目したいのは絵のある資料。この年は7例を数えます(★後掲の「昭和29年(1954年)のてるてる坊主【てるてる坊主図録Ver.5.6】」、および、表1参照)。
2、姿かたち(目立つ着物姿)
絵のある資料7例をめぐって検討の切り口としたいのは、てるてる坊主の「姿かたち」「目鼻の有無」「文字の有無」の3点です。
第一に姿かたちをめぐって。昨今のてるてる坊主は裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしています。昭和30年代を振り返ってみると、やはりそうしたスカート姿のものがほとんどでした。ただ、着物を着たり帯を締めたりした姿のものも散見できました。
スカート姿のものと着物姿のものの事例数を比較してみると、昭和30年代のほとんどの年において、スカート姿のもののほうが優勢でした。昭和33年(1958)だけ両者の事例数が拮抗しています。そうしたなかめずらしいことに、それに先立つ昭和29年には着物姿の事例数がスカート姿の事例数より優勢なのが特徴です(★表2参照)。
なお、資料⑥で作りかたを説明されているてるてる坊主はスカート姿のようにも見えます(★図1の左)。しかしながら、芯になる中身の部分はスカート姿のようでも、その上から色紙を着物のように巻いており、裾はスカートのようにひらひらとしてはいません。そのため、ここでは着物姿と見なしておきます(ページの周りを模様のように囲んでいる、無数の小さなてるてる坊主たちにも目を向けてみましょう。こちらは裾の広がった形であるため、スカート姿と見なします)。
資料①のてるてる坊主も手づかみにされていて姿かたちが不明瞭ですが、⑥の着物姿と同じような形をしており、裾はひらひらとしてはいません(★前掲の図1の右)。そのため、やはり着物姿と見なしておきましょう。
ともあれ、昭和30年代には昨今と同じようなスカート姿が断然優勢だったなかで、それに先立つ昭和29年には打って変わって着物姿が優勢である点は注目されます。ちょうどこの時期が、着物姿からスカート姿への過渡期にあたるのでしょうか。昭和28年以前のてるてる坊主の姿かたちが気になるところです。また稿をあらためて検討できればと思います。
3、目鼻や文字の有無
第二に目鼻の有無をめぐって。眉・目・鼻・口など顔のパーツがあるものと、それらがないのっぺらぼうのものに分けて、それぞれの事例数を比較してみます。昭和30年代にはほぼずっと前者の目鼻のあるもののほうが優勢です(★表3参照)。
ただし、中盤から終盤にかけての昭和34~39年(1959-64)に比べると、序盤の昭和30~33年(1955-58)には、のっぺらぼうのものの数もそれなりに目立ちます。言い換えれば、昭和30年代はのっぺらぼうのものが徐々に勢いを失っていく時代と言えるでしょうか。
そうしたなか、のっぺらぼうのものがまだ目立っていた昭和30年代序盤へとつながっていく、昭和29年はどうでしょうか。事例数を比較してみると、目鼻のあるものが4例(③❺⑥⑦)に対し、のっぺらぼうのものは3例(①④❺)。目鼻のあるもののほうがやや優勢です(②はシルエットのみのため不明。白抜きの❺は両者が併存。★後掲の図2の左)。はたして、のっぺらぼうのものは昭和20年代には目立っていたのかどうか、今後の検討課題です。
第三に文字の有無をめぐって。昭和30年代の前半ごろ、30~35年(1955-60)には願いごとを文字にしててるてる坊主に記す作法が毎年見られました(★後掲の表4参照)。しかしながら、昭和36年(1961)以降になると、そうした作法はほとんど姿を消し、38年(1963)に1件見られるのみです。
そして、てるてる坊主に文字を記す作法が散見できた昭和30年代の前半へと連なる昭和29年にも、文字のあるてるてる坊主は2例見られます。
ひとつは資料⑤(★前掲の図2の左)。木に吊るされたふたつのてるてる坊主のうち、右側の大きいほうに「てるてるぼう」という文字が見えます。絵からはみ出していて見えない裾の部分に、続けておそらく「ず」と記されているのでしょう。
注目したいのは、2文字目の「る」が帯に記されている点。このてるてる坊主を作る際、着物を着せて帯を締めて形を整えて、そのあとから文字を書き込んだことがわかります。なお、左側の小さいほうには目鼻も文字も見えません。
文字のある事例のもうひとつは資料⑥(★前掲の図1の左)。てるてる坊主の中身をスカート姿のように作り、そこに着物として色紙を巻き付けます。その色紙に「おてんきに して おくれ」と記されています。こちらの場合は、あらかじめ色紙に文字を書いておき、あとからそれを着物として胴に巻き付け、紐で縛って形を整える、という順序で作られています。
4、木や建物の周辺部に吊るす
てるてる坊主が描かれた7例の資料から読み取れる情報をもとに、昭和29年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表5参照)。
前掲した表1と表5を合わせて注目したいのが、てるてる坊主の設置場所。木には9例(②⑤⑨⑭⑮⑯⑰⑱㉓)見られます。具体的な樹種が明示されている例としては、南天が2例(⑨⑯)、梅が1例(⑮)見られます。
また、軒に4例(①⑳㉑㉘)、窓辺にも4例(⑬㉔㉕㉗)、そして縁先に1例(㉖)見られます。軒・窓辺・縁先を「建物の周辺部」として合わせると9例を数えます。
「木」と「建物の周辺部」の事例数を比べてみると、昭和30年代には大半の年で「建物の周辺部」が優勢でした(★表6参照)。そうしたなか、序盤の昭和30~31年、および35年は「木」のほうが優勢です。そして、昭和30年代序盤に連なるこの29年には、「木」と「建物の周辺部」の事例数は拮抗しています。
5、作る動機①
続いては、てるてる坊主が作られる機会に目を向けてみましょう。目立つのは学校行事。遠足が7例(②⑦⑧⑫⑬⑱㉖)、修学旅行が1例(㉖)、運動会が4例(⑦⑧⑬⑯)見られます。このうち、⑦⑧⑬の3例では遠足と運動会を並記、㉖では遠足と修学旅行を並記しています。
山に登ったり、川を渡ったりといった、自然を相手にした行動の際にもてるてる坊主が作られています。山を登るに際しての事例が見られるのは、読売新聞社教育部の『学校新聞:作り方の実際』(資料㉔)。学校新聞に掲載する短評の一例として、長野県にある高瀬中学校(北安曇郡池田町)の学校新聞から、短評欄「瀬音」の記事が以下のように紹介されています[読売新聞社教育部1954:112-113頁]。
学校行事としての山登りの前日に、「テルテル坊主の大群」があらわれたといいます。なお、高瀬中学校がある池田町は童謡「てるてる坊主」の作詞者・浅原鏡村(本名は六朗。1895-1977)の出身地でもあります。
いっぽう、川を渡るに際しての事例が見られるのは、作家・宮崎博史(1899-1990)の童話『たん子たん吉珍道中』(資料⑰)。「川わたりの巻」に次のような場面が見られます[宮崎1954:64頁]。
あるいは、天体観測に際して作られるてるてる坊主に触れているのが、船乗りでもあった作家・須川邦彦(1880-1949)が著した『海の信仰』(資料㉗)。上巻の「海の神秘性」と題した一節に、次のように記されています(「……」は原文のママ)[須川1954:4頁]。
地球・月・太陽が一直線上に並び、地球から見ると月によって太陽が隠されるのが日蝕。地球と月の距離が遠い場合には、月が太陽を隠しきれません。そのような場合に、月のまわりに太陽がリング状に見えるのが金環蝕です。
6、作る動機②
てるてる坊主が作られるのは、行事や外出など特別な予定がある場面だけとは限らないようです。郷土史家・福家惣衛(1884-1971)がまとめた『香川県民俗誌』(資料㉒)の「民間信仰」の章には、いくつもの言い伝えが列挙されています。そのなかで「天災天候に関するもの」として挙げられているのが、次のような言い伝え[福家1954:107頁]。
晴れてほしい用事を前にして悪天候を予防するために作るのではなく、すでに雨が降るなかで作る、めずらしく対症療法的なてるてる坊主の例です。
あるいは、小説のなかには雨を願うてるてる坊主も登場しています。ラヂオ東京文芸部が編んだ『愛の記録』(資料㉕)に収められている、作家・宇井無愁(1909-92)の「ふれふれ坊主」と題した作品には、次のような一場面が綴られています(傍点と「……」は原文のママ)[ラヂオ東京文芸部1954:113頁]。
さらには、社会問題を憂えたなかでてるてる坊主に触れている例もふたつ。ひとつめは放射能汚染を憂う記事から。『日本児童文化』37号(資料⑬)に掲載された「放射能雨と幼児の夢」という記事です[『日本児童文化』1954:1頁]
ふたつめは水害に加えて住宅問題や増税問題を憂うもの。作詞家・三木鶏郎(1914-94)の『冗談十年』中巻(資料⑲)に収められている「てるてる坊主」と題する作品です[三木1954:62頁]。
7、お礼もしくは罰
最後に、てるてる坊主へのお礼もしくは罰をめぐって。『現代ユーモア文学全集』第20(資料⑱)に収められた「てるてる坊主」には、願いがかなって晴れたのでお礼をする場面が次のように記されています。著者は小説家の武野藤介(1899-1966)です(読みやすいように改行を加えた。また、同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため「〳〵」と表記。「……」は原文のママ)[『現代ユーモア文学全集』1954:161頁]。
願いをかなえてくれたてるてる坊主を神棚にあげて柏手を打ち、それから台所へ持っていって頭に酒をかけています。そして、そのあとは川に流すのが作法のようです。
いっぽう、願いがかなわなかった際の罰に触れているのは2例。ひとつは、先にも触れた『こどものじてん』(資料⑤)。「すてる」の項の例文に「☆だれが すてたか てるてるぼうず、きのうも きょうも あめばかり。」と記されています[石黒1954:274頁]。昨日も今日も連日の雨なので、誰かが作ったてるてる坊主が捨てられています。
もうひとつは、実践国語研究所が編んだ『実践国語』15巻164号(資料⑫)。そのなかに収められている国語教育者・中村万三(1913-2003)の一文「詩指導の出発」に、小学校低学年の児童が書いた絵日記の言葉が紹介されています[実践国語研究所1954:51頁]。
遠足を楽しみにしててるてる坊主を作ったのに、雨で遠足は中止。頼りがいのないてるてる坊主は首をちょん切られています。
本稿は昭和29年のてるてる坊主をめぐる粗い覚え書きでした。さらにさかのぼった昭和28年以前のてるてる坊主、および、もっと長い目で見た昭和20年代全般におけるてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。
参考文献
【表1と表5に関わるもの】(発行年はいずれも昭和29年(1954)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①大木雄二・中尾彰『すずめのてがみ』、金の星社(「てるてるぼうず」)
②日本学校劇の会『学校演劇』1(4)、日本学校劇の会(永井鱗太郎「かぜをおこしたてるてるぼうず」)
③『幼稚園ブック』6(6)、学習研究社(林義雄「てるてるぼうず」)
④『小学館の幼稚園』7(3)、小学館(藤田桜「てるてるぼうず」)
⑤石黒修〔監修〕『こどものじてん』、東雲堂(「すてる」「てるてるぼうず」)
⑥足立乙市・竹中京子『幼児と遊ぶ絵と工作集』、大日本雄弁会講談社(「人形」)
⑦松石治子『幼児の製作十二か月』、三友書房 (「十月の製作」)
⑧岩手県教育委員会〔編〕『岩手の俗信』第2集 天文気象に関する俗信、岩手県教育庁(「人事と天気に関する俗信」)
⑨堀七蔵『四年生のぎもん』上巻、福村書店(「気象に関する疑問」)
⑩堀七蔵『三年生のぎもん』上巻、福村書店(「天気についてのぎもん」)
⑪児童文学者協会〔編〕『童話の国:学年別』2年生、実業之日本社(佐藤久子「雨の日」)
⑫実践国語研究所〔編〕『実践国語』15(164)、穂波出版社(中村万三「詩指導の出発――小学校低学年」)
⑬『日本児童文化』37、日本児童文化社(「放射能雨と幼児の夢――米国内にも水爆反対の声」)
⑭『青樫』16(3)、青樫社(三谷時子)
⑮鳥取歌話会〔編〕『新稲葉集』第2集、円坐荘(北浦聡子「焼けし桜」、吹野雅子「夕茜」)
⑯中部日本新聞〔編〕『くらしの作文』、黎明書房(原田久江「夫の作ったおすし」)
⑰宮崎博史『たん子たん吉珍道中』、東京文芸社(「川わたりの巻」)
⑱『現代ユーモア文学全集』第20 (コント名作集)、駿河台書房(武野藤介「てるてる坊主」)
⑲三木鶏郎『冗談十年』中巻、駿河台書房(「冗談カーニバル(III)」)
⑳『心の花』58(10)、竹柏会(金崎のぶ「両陛下奉迎」)
㉑『バンキング』76、産業経済社(「ぎんこう柳壇」柏木武行)
㉒福家惣衛〔編著〕『香川県民俗誌』、四国公論社(「民間信仰」)
㉓関計夫『子供の道徳教育:教育心理学的考察』、慶応通信(「幼児の宗教」)
㉔読売新聞社教育部『学校新聞:作り方の実際』、さ・え・ら書房(「記事のスタイル(短評の書き方)」)
㉕ラヂオ東京文芸部〔編〕『愛の記録』、山田書店(宇井無愁「ふれふれ坊主」)
㉖寺内栄一・倉島厚『私達の天気予報:新聞天気図の見方』、恒星社厚生閣(「天気予報のいろいろ」)
㉗須川邦彦『海の信仰』上、海洋文化振興(「海の神秘性」)
㉘『逓信協会雑誌』7月518、逓信協会(石丸貞次郎「〔事業記録〕三月十一日の国会」)
#雨の日をたのしく