感情移入、自己投影からの解放
音水信二さんのGレコの感想記事を読んで色々思うことがあったのでかいてみる
『Gのレコンギスタ』が目指したものは「《正しい》主人公の欲が満たされることで、観客まで満たされるような気持ちにするビジネスモデルからの解放」と登場人物や登場組織に感情移入、自己投影するではなく、共感、理解するという作品の見方の普及のための作品ではないだろうか。
引用した箇所、読んでいて色々思うことがある・・・・
まず、「主人公の欲」ってなんだろう?
考え出すときりがないから、仮定を置こう
ある作品があったとして、主人公が達成したい何か、のこと
と定義してみる。
では、主人公が達成したい何かは何をもって正当化されるのだろう?
この問いに対する答えを考えたとき一番安直な方法は
「主人公サイドは正義の側にたっている」
とすることで、視聴者側に安心感を与えることだ。
何に対する安心感?
それは、主人公は正義だから、主人公=自分とする、つまり主人公側に自己投影、感情移入することだ。
これは娯楽作品を作るうえで王道なパターンでジャンプ系の作品をはじめいたるところでこのパターンが使われている。
ただ、ちょっと待ってほしい
その主人公の「正義」とはどこからきているのだろうか?正しさは誰がどうジャッチするのだろうか?。主人公が「正義」の側に立つということでその行動がすべて正当化されるのだろうか?
ここで思い出したのが、「竜とそばかすの姫」ですずが物語の終盤でとった行動が視聴した人たちに賛否両論を起こしたことだ。<Uの世界>で奇跡を起こしたすずが、その後、虐待を受けている子供たちの元に単身乗り込む問うシーンだ。このシーン、自らの危険を顧みないすずの行動に対し、「大人の力を借りないのはおかしい」、「児童虐待をカジュアルに扱っている」っていう人ばかりだったのがとても気になった。誰一人、なぜすずがあの行動をとったか書いている人がいない。ちなみに私は
で、この時のすずの気持ちを推察してみました。で、何が言いたいかというと、主人公=自分って観点で見ている、つまり主人公に自己を投影している人が意外と多いな、ということです。いったん、すずに対して自己投影をやめて、フラットにみて、すずの気持ちに寄り添ってみると、彼女は「優しさと激しさ、両方もっている」ことがわかるんですよ。すずが持っている「激しい心」は時に「母を憎む気持ち」になり「大人の無作為を憎む気持ち」となるんですよ。その気持ちの激しさが<Uの世界>で伝説の歌姫、Belleになれる源なんですよね。だから「竜とそばかすの姫」はすずの気持ちに寄り添って彼女の心の動きを追うところにだいご味があり、ただのミュージカル風の作品としてみるにはあまりにもったいないです。
竜とそばかすの姫について長々と語ってきました。ここで言いたかったのは、主人公=自己投影する見方の問題点は、自分の思考の枠組みにないものを拒絶することを助長するってことなんですよね。娯楽作品をみると自分は常に正しい側にいてカタルシスを得る・・・・。これは一歩間違えたら、「自分の枠組みにいない人は排除する、無視する」って思考になりかねない。冨野監督は「全体主義のアンチテーゼとしてGレコを作った」といっています。全体主義は正しいことを信じ込む人たちが、暴走した帰結としておこるものだ。だから、Gレコでは「絶対的な正義」を描かない。その代わり、立場も違えば考えも違う人たちがお互いのコミュニケーションに四苦八苦しながらも世界を作っていく、そんなカオスだけど色彩が豊富な世界が描かれている。現実は何か正しいものが物事を進めるのではなく、多種多様な人々が協調し時には反目しながら進めていく、複雑で地獄だけど楽しい世界だ。そんな世界で揉まれてアイーダやベルリのように自分の思考の枠組み、フレームを広げていってほしい、というのが冨野監督の想い、なのだろう。そして、その思いは多様性が重要視される世の中で必要とされるスキルだ。だから、Gレコは大人じゃなく子供に見てほしいと言っているのだろうな
最後に、最近見たアニメ
・竜とそばかすの姫
・ARIA THE BNEDIONE
・Gレコ劇場版3
・地球外少年少女
どれも、登場人物や登場組織に共感、理解するように作られていていいなーと思う。こういう作品が主流を占めるようになれば多様性に対する認識ももっと深まっていくと思うよ
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