〈自分らしさ〉がわかるまで
子どもの頃の習い事で、一番長く続いたのは書道だった。教室に通った小4から高1までの7年間、私はずっと自分の字が嫌いだった。
私の字は、とにかく極端だった。墨汁をつけすぎて字がよく滲む。真っ直ぐに引いたはずの線も、そこからぶわっと苔のような滲みが広がると、一気にメリハリや鋭さを失う気がした。力加減の調整も苦手だった。線はいつも丸太のように太く、それを意識すると今度は情けない小枝のように細くなりすぎる。
そんな野暮ったく稚拙な字が、自分自身を写す鏡のように思えた。どこか垢抜けないところも、極端で感情的になりやすいところも、コンプレックスが全て字に表れているような気がして忌々しい。国語の教科書の文字を、そのまま拡大したような字を書けたらと思っていた。
教室は全国に支部がある協会の一拠点で、普段はみな決まったお題を書く。が、毎年冬になると、自由にお題を選んで書くコンテストがあった。
中ニの冬、私はかなり前からお題を決めていた。それは、同じ教室に通う同学年の柴田さんが一年前に選んで佳作を受賞したお題だった。〈真実〉、受賞作をまとめた冊子で見たその作品は、起筆が刀のように鋭く、一点の滲みもない。一本の線の中でも濃淡や強弱がシームレスに表され、まるで私の字の癖とは対極にある、洗練された美しさだった。
同じ作品を書けば、柴田さんの字に近づけるかも。何より、運動もできて、おしゃれなのにさっぱりとして嫌味がない、私にないものを全て持った柴田さんに近づけるのではないか、どこかでそんなことを、本気で期待していた。私は彼女の受賞作をくまなく眺め、墨汁の量を極限まで減らし、線の太さまで再現しようとした。
やっと渾身の一枚を書き上げて意気揚々と提出した。すると、60代のマダムのような先生は苦い表情で一言、
「あなたがいいならいいけど…」
と言って、渋々と作品を受け取った。満足のいく出来だったのに、明らかに納得していないその態度に、突き放されたような、見放されたような気になった。
少し動揺しながら席に戻る。コンテストの他にも、通常の月ごとのお題にも取り組まなくてはいけない。が、すでに集中力は使い果たし、満足感もあって気が抜けたのか、柴田さんを真似る意識は消えてしまった。
教室では、失敗作は捨てずに乾かして、硯や筆の掃除に再利用していた。何枚か書き終え、教室の前方、先生の机の近くでボツが並ぶ一角にそれらを並べて席へ戻ると、少しして先生の気が急いたような声が私を呼んだ。
気が緩んでいたとはいえそんなに酷い作品だったかな。少しビクビクしながらそちらへ向かうと、先生はさっき失敗作コーナーに置いたはずの一枚を手に、興奮気味に言った。
「すごくあなたらしくていいじゃない!こっちをコンテストに出しましょう」
〈情熱〉と書かれたその作品は、私の癖の見本市のようだった。事態を飲み込めずにいると、先生は周りの生徒にも作品を見せ始めた。
「あったかくて、力強くて、すごく赤木さんらしいよね」
感慨深そうに語る姿を前に、複雑な気持ちだった。〈真実〉は、私にとって完璧だったのだ。頑張りを否定されたようで面白くなかった。
でも、同時にものすごく嬉しかった。先生にここまで褒められるなんて。それも、滲みは温かさで、太い線は力強さだと。私自身がムキになって矯正しようとしてきた自分の癖を、そこが良いと言われたのだ。温かい喜びが全身に広がっていった。
結局、私は〈情熱〉をコンテストに出した。そして、3ヶ月後、その作品は「大賞」の賞状と共に、教室の一番目立つところに飾られたのだった。
自分らしさとは、なんと不確かなものだろう。自分では欠点だと思っていたものが、他の誰かから見れば輝かしい個性となることもある。
今も、すぐに周囲と比較し、自分はダメだと思ってしまう。そんな時にこの出来事を思い出して、いや、私もそう卑下したものではないぞと思い直す。それは、すごく大切なことのような気がしている。
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