ちょっといい?
汁かけご飯がダメかどうか――
そんな問いかけ自体が、すでに結論を握っている気がする。
秋晴れの空の下、
なぜか天気予報は降雨の不穏を煽る。
見上げれば雲、確かに少しだけ浮かんでいて、
「降るかもな」と言われれば反論の余地はない。
警戒すべし、とは言うが、
人はやはり、その場の体感に寄る。
実際、今日の空気は暑い。
湿気がまとわりつく中、
少しでも体を動かせば汗が滲む。
動く職員は誰もおらず、
むしろその静けさが不思議と耳を刺す。
「汁かけご飯」。
禁忌のような言葉が響くが、
何が悪い?と問い直してみたくなる瞬間。
仕事中のこの手軽さ、さっぱり感、
それが否定されるのは理不尽の極み。
だが規則は規則で、
皆どこかしらで飲み込むしかない。
それでもなお、心の中では
しばしば揺れ続けるその問い。
汁かけご飯、
この一皿に流れる安堵の味は、
本当に否定されるべきなのか?
俺は賛成派だ
世間でどう言われようと、俺は堂々と汁かけご飯を支持する。
その一杯には、肩肘張らない温もりがある。
具材はシンプルに限る。
豆腐、にんじん、玉ねぎ、油揚げ。
味噌仕立てが基本だけど、
たまに醤油ベースにしてみるのも悪くない。
どれも主張しすぎないが、
食べるたびに「ああ、これだ」と舌が懐かしさを思い出す。
温めすぎず、ほんのり人肌。
この温度がまたいい。
胃にすっと馴染む感覚が、
まるで身体全体に優しく語りかけてくるようで、
その瞬間がたまらない。
ほっこりして、ホッとする。
その一瞬、世界が止まったような気分になる。
まるで、生活の喧騒や仕事の重圧なんて
どこか遠くの出来事みたいに思える。
おじやや雑炊とは違う
だが、ここで言いたいのは一つ。
汁かけご飯はおじやや雑炊とは全く違う。
おじやや雑炊は、あくまでご飯がスープと一体化して煮込まれて、まるで一つの料理のように溶け込む。でも、汁かけご飯はその名の通り、ご飯の上にただ「汁」をかけるだけのシンプルなもの。ご飯はしっかりそのまま形を保っていて、具材と汁は上にのっただけだから、食べるたびにその「分けられた感じ」がまた良い。
おじやや雑炊に感じる「おかゆっぽさ」や「とろみ」がない分、食感が楽しく、ご飯の存在感がしっかり残る。それが俺にとって、心地よさの源なんだ。
しかし、この時間は長くは続かない。
現実がすぐそこに控えているからだ。
職場の空気はいつも一定の緊張感がある。
何かしら問題が起きる前提で動く日常。
「警戒して然るべき」
これが俺たちの基本スタンス。
予報が雨だと言えば、降ると決めて備える。
晴れていても、いつでも対応できるように準備を怠らない。
だからこそ、一瞬の油断も許されない環境が続く。
秋晴れの日に、汗ばむほどの仕事をしていると、
その緊張感がさらに増す。
「今日は大丈夫だろう」なんて思いが、
どこかでミスを引き起こすから。
周りを見ると、動く職員もほとんどいない。
それぞれの持ち場で淡々と役割を果たしている。
こうした状況の中で、
ふと「汁かけご飯」のような
ささやかな安らぎが欲しくなるのは当然だと思う。
それでも、時折、耳にする反対意見。
「そんなものは食べ物じゃない」とか、
「雑すぎる」「手抜きだ」なんて声が、
まるで正義のように響くことがある。
だが俺に言わせれば、
汁かけご飯の魅力はむしろその“雑さ”にあるんだ。
肩肘張らない手軽さ。
それが、忙しい日々の合間に
心と体をほぐすちょうどいい存在になる。
仕事が終わって家に帰ったとき、
子どもたちが無邪気に「おかえり」と駆け寄ってくる。
そんな何気ない幸せに、汁かけご飯はよく似合う。
食卓に並べば、湯気の向こうに家族の笑顔が見える。
子どもたちはそれぞれ好きな具材を選び、
「今日は玉ねぎが甘いね」とか、
「油揚げもっと欲しい」とか言いながら、箸を進める。
それがどれだけ贅沢な時間か、改めて感じることがある。
現実は常に忙しく、
気を抜けばすぐに押し流されるような毎日だ。
でも、汁かけご飯を前にすると、
ほんの少しだけその流れを止めてくれる。
心が落ち着く。
胃が暖まる。
「これでまた明日も頑張ろう」と、
自然と前を向けるようになる。
小さな儀式としての一杯
だから俺は、堂々と言いたい。
汁かけご飯が好きだ、と。
それはただの食事じゃない。
日常を乗り越えるための、小さな儀式でもある。
現実に戻るのはちょっと憚られる。
だが、その時間を引き延ばすことができるのが、
この一杯の力だ。
次の朝、また新しい一日が始まる。
気を引き締めながらも、
心の片隅には汁かけご飯のぬくもりを
そっと残しておきたいと思う。
それでいい。
いや、それがいい。