性格的なもの
つい言いすぎたあの瞬間、
「あ、やっちまった」と心の中で叫びながらも、何もなかったように過ごしてみる。
でも、時間が経てば経つほど、頭の片隅にある違和感が膨らんでいく。
家に帰り、ひとりになると
あの場面がまたフラッシュバックする。
頭の中でリプレイされる映像が、まるでスクリーンに映し出されているように、鮮明に蘇る。
あの一言は言う必要があったのか?
自分の発言で、相手がどう思ったか、今さらながら気になってくる。
もしかしたら傷つけたのではないか、失礼に感じたのではないかと、次々に不安が押し寄せる。
冷静になればなるほど、「なんであんな言い方しちゃったんだろう」と反省してしまう。
それが一度ならまだしも、毎回こうだから困る。
話し終わった瞬間は大丈夫そうだったのに、
後から反省会が始まるのがこの性分。
ついには、心の中で架空の相手に謝罪することまである。
「恥ずかしさ」を抱える性分
なぜこうも毎回、自分がした発言や態度に恥ずかしさを感じてしまうのか。
その理由を自分なりに掘り下げてみると、どうも完璧を求めすぎているのかもしれない。
言い方ひとつ、表情ひとつ、相手への配慮ひとつ…
すべてが「これで正解だったか?」と気になる。
ただ、その気持ちを持っているからこそ、後悔が生まれるのだろう。
完璧ではいられないと頭で分かっていながら、どこかで「失敗したくない」という気持ちが残っている。
こうして失敗や恥ずかしさを抱えると、自分自身への評価が下がったような気がして、またモヤモヤが続く。
恥ずかしさが染み込む瞬間
自分の発言が浮かんでは消え、また浮かんでくる。
その瞬間、自分の中で何かが染み込んでいくのを感じる。
この「染み込む」という表現が妙に合っている気がする。
時間が経つごとに、深く深く染み込んでいくように、心の中に「恥ずかしさ」が積み重なっていくのだ。
誰にも見せない秘密の染みが心に広がっていく感覚。
それが積もりに積もって、やがて自分を規定してしまう。
「こういう言い方はやめよう」「この場面では慎重になろう」と、次第に慎重になりすぎる場面も増えていく。
でも、こうして染み込む感覚があるからこそ、他人にやさしくできる場面もあるのかもしれない。
「自分もあの時恥ずかしかったから、彼も同じ気持ちかもしれない」と考えることで、少しだけ寄り添える自分がいる。
恥ずかしさとの付き合い方
恥ずかしさを抱えて生きるのは、正直、面倒でやっかいだ。
それでも、その感情があるおかげで、慎重に言葉を選ぶ癖がつく。
その場の勢いでバッと話してしまうより、少し時間を置いてから言葉を探すようになっていく。
「どうせ後で後悔するなら、最初から丁寧に」と思うことも多くなった。
それでも、すべてがうまくいくわけではない。
ときどき、勢い余って「やっぱり言い過ぎた」と後悔することもある。
それを繰り返しながら、少しずつ「こうすればよかった」が「こうでいいのかも」に変わっていく。
自己完結型の恥ずかしさと後悔は、自分自身を見つめ直すための手がかりでもある。
恥ずかしい自分がいるから
気づけば、恥ずかしさを感じる性分が「自分」になっている。
他の人には気にならないことでも、自分は反省してしまう性格。
その性格がなければ、いまの自分はどうなっていたのだろう?
そんなふうに考えると、案外この性分も悪くないと思えてくる。
恥ずかしさや後悔を抱えることは、ある意味で「自分を成長させるチャンス」でもある。
少しずつその感情と向き合っていけば、いまより少しだけ穏やかな自分になれる気がする。
最後に
恥ずかしさと後悔を抱く性格は、誰にでもあるものかもしれない。
ただ、それを抱えて生きるか、抱えながら前に進むかの違いがあるだけだ。
恥ずかしさに縛られるのではなく、その性分を自分の一部として受け入れて、日々を過ごしていきたい。
たとえ反省会が何度続いても、その経験がいつか役に立つと信じて、また次の一歩を踏み出していく。