読書の記録:『晩夏』 井上靖著 中公文庫
毎年この時期になると読み返さずにいられない本がある。それが井上靖の『晩夏』だ。
この本に出会ったきっかけは、NHKラジオで日曜深夜に放送されている「ラジオ文芸館」だった。一時期、夜になってもなかなか眠れない時期があり、「どうせ眠れないなら……」と思い、ほぼ毎夜、枕元に置いたラジオのボリュームをしぼって流していた。そんな折に、短編小説の朗読が聴けるこの番組を知り、毎週日曜深夜の放送を楽しみに待つようになった。そしてある夜、『晩夏』が紹介されたのだ。
物語は、海辺の漁村に住む少年が、東京から家族とともに避暑にやってきた「少女雑誌から抜け出したような病弱な少女(原文)」に、ほのかな憧れを抱いた短い日々が描かれている。ラジオで聴いていっきに引きこまれた私は、起き出して書名をメモして、翌日すぐに購入した。
表紙カバーに藍色の海と夏雲が描かれた本には、表題作である『晩夏』を含めて、漁村や山村に暮らす少年を主人公とした短編が15編収められている。これらの作品に相互の関連性はなく、登場人物も物語の舞台も、作品ごとに異なる。けれど全15編に通底して感じられるのは、誰もが経験してきた少年時代への郷愁だ。不思議なことに、女性の私が読んでも、幼い頃に様々な場面で胸に抱いた感情が蘇ってくる。たとえば、『晩夏』で主人公の少年が東京から来た少女に抱いた憧れや嫉妬に似た思いを、幼かった私も、東京に住むいとこの女の子に対して感じたことがある。同じ歳ながら「~なのよ」「~だったの」などと妙に女性らしい言葉で話し、髪型はもちろん、服から靴までどことなくあか抜けていたいとこに、私は憧れたものだ。もちろん、少年の憧れと私の憧れは別種のものではあるけれど、自分の周囲にはいない、都会的な空気をまとった存在への憧憬は同じ類だろう。
本作には、ちょっと世間からはみ出した大人たちにたいして少年が抱く感情も描かれている。村きっての酒好きで何かと評判の悪い男や、複雑な事情を抱えた年上の女性、温泉宿にやってきた訳ありげな男女。そうした大人たちをなかば好奇心とともに見つめる少年の心のうちを読んでいくと、何とも言えない懐かしさと切なさ、寂しさのようなものがこみあげてくる。そういえば自分が子供だった頃にも、いつも昼から酔っぱらって商店街を歩き回る男の人や、なぜかときどき家からいなくなってしまう、友達のお母さんがいた。こうした大人たちに、私は好奇心とかすかな嫌悪感を抱いたものだ。そんな甘苦い感情に浸りたくなって、夏の終わりはそれでなくともどことなく寂しいのに、どうしてもこの本を開いてしまう。
本編以外にも、巻末付録として掲載された「少年に与える言葉」、辻邦生氏と椎名誠氏による巻末エッセイ2編も、たいへん読みごたえがある。まだまだ日中は暑いものの、朝晩に吹く風は涼気を帯びるようになり、蝉の声も絶えたこの時期にうってつけの一冊だ。