枠に囚われない人=なぜ?と言う疑問を繰り返すことで本質に迫れる人
「あの人は枠に囚われない!」
という言葉を耳にすることがあります。こう言う人たちは「異端児」
とか「革命児」とかセンセーショナルで簡単な言葉で片付けられてしまいますが、「枠に囚われない」人の実態とはどのようなものなのでしょうか?
今回は枠に囚われない人の実態について考えていきたいと思います。それではよろしくお願いします!!
※なお、この記事は毎度のことながら僕の完全主観です。具体的なデータなどはどこにもありませんので悪しからず笑
結論は、すでにタイトルでも明らかになっているように、枠に囚われない人とは、「なぜ?」と言う疑問を繰り返すことで物事の本質に迫れる人だと考えます。
具体例として織田信長を挙げます。彼は戦場にいち早く大量の鉄砲を導入するという「枠にとらわれない」ことを成し遂げました。では彼はなぜ、そんなことができたのでしょうか?
多くの武将たちが、鉄砲をこれまでの作戦の延長線上で考えていたのに対して、織田信長はいち早く「こちらの損害を少なくし、かつ相手に大きな損害を出した方が勝つ」という戦の本質に迫っていたのではないかと考えられます。
この本質に至るまでに、きっと「定石である〜作戦はなぜ有効なのだろう?」「なぜあの戦で〜が勝ったのだろう?」「私が〜の戦で勝てたのはなぜだろう?」と反省と分析をくりかえしていたのだと思います。
その結果、戦の本質に迫ることができ、「こちらの損害を少なくし、かつ相手に大きな損害を出した方が勝つ」という本質の具体策として「大量の鉄砲と柵を使った」これまでの「枠にとらわれない」作戦を実行できたのではないでしょうか?
今教育界にもI CTという名の火縄銃が伝来してきました。何なら生成A Iも近々入ってくるでしょう。
今までの授業の延長線上でICT活用をしようとしても、織田信長以前の大名のように「授業(戦)じゃICT(火縄銃)は使えない」という結論になるだけです。
そんな今だからこそ、織田信長のように「教育(戦)の本質とは何か?」という議論に立ち返る必要があると思うのです。
まずはこれまでの授業の基本であった、「学習規律」「発問」や「挙手による発言」「板書」がなぜ重要だったのかを考え抜くことが必要かと思います。その過程で、もしかしたら「学習規律」「発問」や「挙手」、「板書」が以前より重要度が低いものになるかもしれません。かつて、「剣術」や「弓術」が鉄砲の伝来によって重要度が低くなったように・・・。
そうやって議論していけば、子供達がもっと伸び伸びと、自分の個性を発揮できる、教師なら誰もが夢見るような授業が実現できるかもしれません!
ってなことを言ってみた3年目の年末です。生意気でしょうか???
※ボツになったところ
枠に囚われない人=なぜ?と言う疑問を繰り返すことで本質に迫れる人 というこの式を学校現場に当てはめ、先生方の実態として具体化してみましょう。
そのために、枠に囚われる人=なぜ?という疑問を問わない人 という式も立ててみます。
授業の事後検討会、教育施策が降りてきた時の反応、実際の仕事ぶりの3つの場面について考えていきます。
授業の事後検討会において、枠に囚われる人は、でよく具体的な技術そのものを指摘します。「めあてを立てないのはだめでしょ」「教室前方に掲示物がないのがいいね」「I CT活用はしなくてよかったんですか?」など、あくまで具体的な論点をもとに議論をしようとします。こうすることで、次から授業で使える技術を得ることができます。
対して枠にとらわれない人は、意図を引き出そうと質問します。「なぜめあてを立てなかったのですか?」「教室前方に掲示物を置かなかったのはなぜですか?」「I CT活用をしなかったのはなぜですか?」と意図を引き出して、回答を得て、そこから議論を始めようとします。こうすることで、次から授業で使える見方・考え方を得ることができます。
教育施策が降りてきた時、枠に囚われる人は振り回されます。「今度は自由進度学習かよ」「前は問題解決型の学習だったのに」というようにです。でも、何やかんや実践します。
対して枠に囚われない人は、周りい反応は合わせつつ、施策の意図を瞬時に理解します。もしくは、施策の意図をじっくりと考え、もし納得いかなければ無視します。
実際の仕事ぶりは、枠に囚われる人は安定した成果を出します。
対して枠に囚われない人は、失敗が多いです。でも、たまに大きな価値を生み出すことがあります。
枠に囚われる人と囚われない人、両者を比較してみましたが、どっちも大事ですよね。枠に囚われない人ばかりだったら公立学校としての学校は成り立ちません。
むしろ、学校は完全なボトムダウン体制の組織なので、降りてきたことを確実に実行できる枠に囚われる人が現場の教員としては相応しいのかもしれません。
ただ、