日本史 / 倭寇 (わこう) の侵略 2 「後期倭寇」
こんにちは、TOYOです。これまでもお伝えしてきておりますが、私たちが教えられてきた歴史や科学、医学、経済学などの知識のすべては、その時代の権力者によって捏造された嘘だったことがわかっています。それは、日本史においても同じです。
14世紀、南北朝~室町時代初期から16世紀にかけて、圧倒的な軍勢で他国を侵略していた日本の倭寇 (わこう) 。
今回は前章の「前期倭寇」に続き、「後期倭寇」について考察してみたいと思います。
後期倭寇
上の図は、後期倭寇の様子を描いたものです。この図では右が倭寇で左が明軍です。後期の倭寇の大部分は中国人ですが、日本人っぽく描かれています。
右の倭寇の船は三隻。各船に7人から10人ほど乗り組み、いずれも頭を月代 (さかやき)のように剃り上げ、短い単衣の軽装、ハダシ。弓、長槍、刀、長刀などを持っています。
16世紀(戦国時代)に活動した後期倭寇は、「真倭(しんわ)」と呼ばれた日本人の割合は1~2割に過ぎず、大部分の構成員は中国人で、また大航海時代において東アジア海域に進出し始めたポルトガル人も倭寇の一員として扱われました。
構成は、マラッカ、シャム、パタニなどに移住した中国人や、一部の日本人
(津島、壱岐、松浦、五島、薩摩など九州沿岸の出身者)、ポルトガル人諸民族を含んでいたと推測されます。
後期倭寇で中国沿岸にて略奪行為を繰り返した勢力のメンバーの大半が中国人であったことが明らかなのですが、戦後のわが国の歴史教科書や多くの参考書では、この重要な事実がほとんど無視されています。
中国明朝では、人民が自由に海外で行動することを禁止した海禁政策が採用されていたのですが、中国経済の発展は、この政策の維持を著しく困難にし、大量の密貿易者を発生させることになってしまいました。
中国人の密貿易者、正規の通行者であることを証明した「勘合」をもたない日本人、新たな勢力として台頭してきた南蛮人(ポルトガル人)など、中国側からすれば極めて悪質かつ非合法な海賊集団が、東アジア世界にあふれていました。
こうした海賊集団が活発化した理由は、日明貿易が断絶してしまったからでした。
後期倭寇は、かなり違法な貿易を行うことが目的となっていたようです。
公式でいわれている一般的な歴史では、種子島にザビエルが来たことで、日本にポルトガル人が現れたということになってますが…
すでに後期倭寇の時点でポルトガル人が含まれていたということになりますね。
16世紀に活動した「後期倭寇」とは、略奪者であり、商人であり、運び屋であったということになります。
日本国内の諸大名は密貿易のルートとして倭寇を使い、その結果として日本国内に様々な渡来の品が伝わって来るようになりました。
鉄砲、キリスト教、西欧諸国の学問、美術品などが伝わってきました。
倭寇のクライアントは「日本の大名」ということになります。
つまり、海賊が荒らし回って密貿易をしていたというのではなく、「大名からの司令を受けて、活動していた」ということですね。
大名が倭寇を使っていたということであれば、前期倭寇でいわれていた500隻という規模の船を持っていたことも、納得できることだと思われます。
何百隻の船を持っていたということになると、これははたして非公式の活動だったのかという疑問が浮かび上がってきます。
実際に起こっていたことは、公式の歴史からは、かなりかけ離れたものだったのではないかと考えられます。
倭寇による国際的な密貿易ルートから得られたものは、結果的には、日本の文明の水準を大きく向上させることに繋がったことも事実です。
戦国時代は、じつは、天下統一に動いていた大名はごく一部で、ほとんどの大名は天下統一よりも、倭寇を通じた貿易による利益の方に力を注いでいたと考えられます。
その大名の代表は、中国地方に勢力を張った大内氏(大内義隆)。
当時の大内氏は中国地方西部~北九州にまでまたがる大大名です。
中央に食い込み、本拠地の山口には雅な京文化が栄えました。
また、国際貿易港の博多を押さえ、商人や禅寺ともパイプを持ちました。
自らを、百済王の後裔(こうえい)とするほどの国際派だったと言われています。
本拠地である "山口" という地域は、長崎同様、イエズス会やキリスト教と縁の深い地域となっています。
公式の歴史では、フランシスコ・ザビエルが来て山口と縁が深くなったとされていますが、じつは、ザビエルが来る前から、"イエズス会やキリスト教と山口は繋がっていた" と思われるようなエピソードも後に出てきます。
また、中国人の王直が後期倭寇の一員となり、海賊活動を開始します。
倭寇として名をあげた王直は、五島列島(長崎県)を拠点として勢力を拡大しました。
王直の船がイエズス会のフランシスコ・ザビエルを運んだのではないか、という説も存在します。
ザビエルを日本に運んだ倭寇の船は阿王号とされていて、王は王直の名字です。つまり王直の倭寇船が鉄砲もザビエルも運んだ可能性もあります。
薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長十一年(1606年)に著した「鐡炮記 (てっぽうき)」という書物には…
天文十二年(1543年)に中国船が種子島に漂着し、織部丞がこの船に乗っていたポルトガル商人を城主の種子島時尭に引き合わせることによって、わが国で最初に鉄砲が伝えられることになるのですが、織部丞が筆談をした相手の「五峯」は倭寇の頭目であった王直の号と同じであり、種子島に鉄砲を伝えたのは、王直であったと考えられています。
王直が居住した五島列島の福江島には、航海の安全の為に王直が建立したと伝わる明人堂 (五島市指定文化財) や六角井 (長崎県指定文化財) が残されています。
後期倭寇の活動を衰退させたのが、豊臣秀吉でした。
朱印貿易船を計画した豊臣秀吉は1588 (天正16) 年に、倭寇を取り締まるための「海賊取締令/海賊停止令」を刀狩り令と同時に発令します。
海賊取締令は、「国土の支配者である天下人は、海上の支配者でもある」という原則のもとで打ち出され、倭寇を衰退させたと同時に、海上交通の取締りの権限が国家(天下人)にあることを明確にした法令でした。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の話が公式に伝えられていますが、朝鮮側からすれば「倭寇=日本人による侵略」という意味なので、文字通りの侵略行為であったことから、これもまた倭寇と呼ばれています。
1588 (天正16) 年に「海賊取締令」が発令されていますが、その前年には、キリスト教の宣教師を追放するための「バテレン追放令」を発令しています。
こうして「前期倭寇」(14世紀、南北朝~室町時代初期) は日明貿易を開始した足利義満の圧力によって衰退し、「後期倭寇」(室町時代中期~戦国時代) は豊臣秀吉の海賊取締令によって衰退していくことになったのです。
じつは、この「倭寇」という海賊の物語は、「日本国による朝鮮侵略を隠すための物語」だったのではないでしょうか?
このブログを作成するにあたり、
寝起きの考察さんの動画と、歴史逍遥『しばやんの日々』の「後期倭寇の実態はいかなるものであったのか~~倭寇4」を参考にさせていただきました。