日本史 / 源氏のルーツ
こんにちは、TOYOです。
平安末期の武家を代表する名門であった源氏 (げんじ/みなもとうじ) の
ルーツは、じつは天皇(皇族)にあります。
源氏は平氏 (へいし/たいらうじ) とともに、争いながらも武士の地位を高めていきました。
江戸時代までの日本の歴史は天皇家、源氏、平氏、藤原氏の歴史だといっても良いでしょう。
じつは、私の家系は源氏の末裔にあたります。
今回は、源氏とは何者であったのか、
その成り立ちを探っていきたいと思います。
源氏の定義
源氏の定義は以下のとおりです。
1.天皇の子孫から臣籍降下した元皇族(賜姓皇族)
2.「源」という性 (氏) を賜った一族であること
この2つの要件が揃っていることが重要となります。
天皇家(皇族)と臣籍降下
8世紀、奈良時代の「律令制度」により、以下のように定められました。
天皇には子供がいますが、その中には、天皇の地位につける子供と天皇になれない子供が出てきます。
この天皇になれない皇族から、原則として4代後には「臣籍降下 (しんせきこうか) 」するという原則が定められました。
この「臣籍降下」とは、天皇になる見込みのない皇族に対して、「姓」を与えることによって天皇家から外し、人臣(臣下)の身分に置くことを意味します。
「天皇になる見込みのない、皇族」というのは、例えば、母親の身分が低い人や天皇の親戚から遠い人などです。
臣籍降下とは、こういう人に「性」を与えることで、天皇家の籍から外すことを言います。
つまり、臣籍降下した人は天皇家(皇族)の人間ではなくなります。
彼らは皇族だった時は、国家財政で生活することができましたが、皇族ではなくなると、貴族の仕事に就いて自力でお金を稼がなければならなくなります。
天皇は彼らを国家財政で養う必要がなくなり、やりたかった政策がやれるようになります。
つまり、この臣籍降下は、皇室の経済政策として奈良時代に律令が定められた頃から行われるようになったわけです。
聖武天皇・桓武天皇
このような経済政策をしていたにもかかわらず、「桓武天皇 (しょうむてんのう) 」と「桓武天皇 (かんむてんのう) 」という2人の天皇がお金を使いまくり、国家の財政難が深刻になります。
9世紀初頭、そのしわ寄せが、桓武天皇の息子である「嵯峨天皇 (さがてんのう) 」に降りかかってきたのです。
嵯峨天皇
この嵯峨天皇には、なんと自分の子供が50人もいたのです。
嵯峨天皇はここで思案しました。
自分の子供50人が将来結婚し、それぞれ5人の子供を産んだら、子供は
250人という数になる。さらにまた、この子供たちが将来子供を産んだら、1250人という大変な数になる。
ただでさえ、先代の天皇たちがお金を使いまくっていたのに、さらに多くの子供たちが増えたら、皇室はやっていけなくなります。
そこで、嵯峨天皇はひとつの英断を下しました。
「自分の息子・娘、32人を臣籍降下させる」ことにしたのです。
この時に、臣籍降下させた自分の息子・娘、全員に「源 (みなもと) 」性を
与えたのです。
ここに、日本に初めて「源」という性が生まれました。
つまり、「源」という性は嵯峨天皇が生んだのです。
嵯峨天皇から「源氏」が始まった
弘仁5年(814年)に「源」の性と、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位である「朝臣 (あそん) 」の姓を賜り、皇子を臣下の籍に降ろしたと記録されています。
源氏は、日本の天皇の皇子・皇孫の中から臣籍降下し、「源 (みなもと) 」の姓を授けられた氏族を指します。
「源」の由来は二つほどあり、一つは、中国の古書『魏書』のなかで、太武帝(魏の世祖)が源賀(同族の河西王の王子)に対して次のような言葉をかけたことに因んだものとされています。
つまり「私たちは元々同じ一族で源が同じなのだから「源」を氏としなさい」という意味になります。
嵯峨天皇は書の達人でもあり、中国の書物も読んでいたと考えられ、ここから「源」という性を付けられたという説。
もう一つは、「源」は「水元」であり、我が子を臣籍降下させるにあたって、せめて我が子らには、常に水元となるような豊かな生涯をおくって欲しい、という親心から「源」性がつけられたという説です。
源氏の「氏」は、氏族を表すもので、現代の家族・家名を表す「名字」よりはるかに広い意味で共通の祖先を持つ同族集団という意味です。
現代の名字とはかなり異なった概念ですね。
第一源氏 源信
嵯峨天皇から臣籍降下させられた子供たちが、その後、どうなっていったのかというと…
「第一源氏」と呼ばれた最年長の息子は、「源信 (みなもとのまこと) 」という名前になりました。
そして、都の一等地を与えられて貴族として順調に出世していきました。
さらに、正二位・左大臣にまで上りつめていったのです。
しかし、この源信は後に、「応天門の変」に巻き込まれ、放火容疑をかけられてしまいます。
後に放火容疑は晴れたのですが、そのショックで間もなく亡くなってしまいました。
第ニ源氏 源弘
次に、この「第ニ源氏」と呼ばれた源信の弟は「源弘 (みなもとのひろむ) 」
という人でした。
源弘は、正三位・大納言まで出世することになります。
第三源氏 源常
第三源氏は、さらに弟の「源常 (みなもとのときわ) 」は正二位・左大臣まで出世します。
したがって、嵯峨天皇の息子たちは臣籍降下させられたにもかかわらず、
十分すぎるほど食べていけるだけの身分にあったわけです。
しかし、そこから2、3代後になっていくと、「従五位」(国司レベル )、つまり、地方の長官レベルまで位が落ちてくる人が多くなっていきます。
元天皇家(元皇族)の家系と言えども、その威光は1世代で消えていってしまうのです。
それでも男性はまだマシだったのですが、女性は過酷な運命を辿ることになります。
臣籍降下した中に女性は15人いましたが、なんとこの中で結婚できたのはわずか1人だけだったのです。
源 潔姫
この15人の中で唯一結婚できたのは、「源 潔姫 (みなもとのきよひめ) 」と言います。
この女性は、「人臣初の摂政」藤原良房の妻となった人です。
つまり、この潔姫が、初めて皇族出身で人臣(皇族ではない人)の妻となった女性なのです。
しかし、残りの14人の女性は、ほぼ仕事に就くことはできませんでした。
したがって、生きていくこともできなくなっていくわけです。
源氏二十一流
また、どの天皇を源流として臣籍降下したかによって、「嵯峨源氏」や
「仁明源氏」「文徳源氏」「清和源氏」というように呼び分けされていくことになります。
数ある源氏の中でも子孫が栄えたのはごく一部の流派だけで、その殆どは
数代で途絶えてしまいました。
そのうちのいくつかの流派が存続することになりますが、中でも嵯峨源氏、宇多源氏、清和源氏、村上源氏の4流派が有名です。
そして、この「清和源氏 (せいわげんじ) 」から「源頼朝 (みなもとのよりとも) 」につながる武士の系統が出てくることになります。
ここから「清和源氏」は武士で有名な系統となります。
源 経基(清和源氏流武士の祖)
清和源氏流武士の祖にあたる人物は、清和天皇(在858~876年)の第六皇子「貞純親王 (さだずみしんのう) 」の子の「経基 (つねもと) 」 です。
皇族を離れて臣籍降下した際に源姓を賜った経基は、940年に関東で起こった平将門の乱と翌年の藤原純友の乱(承平・天慶の乱)を平定する活躍を見せました。
源 高明
10世紀、「醍醐天皇」の息子に「高明親王 (たかあきらしんのう) 」という人がいました。
この醍醐天皇の息子(臣籍降下1世)が「源 高明 (みなもとのたかあきら) 」となります。
そして高明は、藤原実頼の娘と、藤原師輔の娘を妻とします。
この実頼は小野宮流、師輔は九条流の祖になった人で、この人たちの孫が
「実資 (さねすけ) 」であり、「道長 (みちなが) 」となります。
この高明は、後に正二位・左大臣となります。
しかし、969年、「安和の変 (あんなのへん) 」が起こり、高明は藤原氏の謀略に嵌って、大宰府に左遷させられてしまうのです。
この藤原氏は、じつは "闇の一族" の家系でもあります。
源 頼朝
「源 頼朝 (みなもとのよりとも) 」 (在位1192~1199) は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
1147年、清和源氏の流れをくむ源義朝の三男として尾張国熱田(名古屋市)に生まれます。
父・義朝が平清盛と対立した平治の乱(1159年)で敗れ、伊豆に流されます。
1180年挙兵、平家追討、義経追放などを経て、1192年、征夷大将軍に任命されました。
源頼朝によって「鎌倉幕府」が開かれたことで、398年続いた平安時代は終わりを告げたのです
そして、ここから「鎌倉時代」が始まりました。
源 頼朝は、江戸時代末まで約700年続く武家政治の根幹を築いたのです。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
このブログの作成にあたり、
セピアゼロからの歴史塾さんの動画「源氏って何?」
田代 隆浩さんのブログ「あなたの先祖は「源氏」かも!?意外と多い源氏の子孫。」
を参照させていただきました。
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