日本史 / 平安時代と藤原家の謎
こんにちは、TOYOです。
9世紀、天皇に変わってこの日本を支配していた「藤原氏 (ふじわらうじ) 」とは一体何者なのでしょうか?
今回は、前回の「日本史 / 源氏のルーツ」に続いて、約400年間続いた
平安時代と「藤原家」の謎について考察していきたいと思います。
奈良時代から平安時代へ
平安時代以前は、「奈良時代」と呼ばれています。
この時代の特徴は、天武系の皇族・貴族や、仏教僧侶たちが力を持っていた時代でした。
したがって、平安時代に入っても政治に口を出してくる鬱陶しい僧侶たちが沢山いました。
彼らがいたのは奈良の「平城京 (へいじょうきょう) 」でした。
桓武天皇は、それならば「都」を奈良から別の地域に移そうと考えました。
最初は長岡京に都を移しました(遷都)が、上手くいかず…
794年、「平安京 (へいあんきょう) 」に遷都となりました。
平安時代の始まり
ここから「平安時代」が始まることになります。
「平安時代」は794年、天皇が実権を持っていた時代から始まり、
約100年間続きます。
この時代は、天皇による「親政の時代」、つまり 「天皇自らが政治を司る」というのが特徴となります。
桓武天皇
平安時代最初の天皇は「桓武天皇 (かんむてんのう) 」(737~806年)です。
桓武天皇は、自らが「天智系 (てんちけい) 」の天皇としての権威を高めるために、天皇を中心とする朝廷の政治権力に従わない勢力、外敵である東北にいる「蝦夷 (えみし) 」と呼ばれる者たちを征伐しようと考えました。
桓武天皇は、ある一人の男を呼び出し、東北の蝦夷たちを征伐するように命じ、「征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん) 」に任命します。
坂上田村麻呂
その男の名は「坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ) 」と言います。
「征夷大将軍」とは、"夷狄 (いてき) を征服する大きな将軍" というのが本来の意味となります。
つまり、「征夷大将軍」とは元々、外国の敵を征伐するリーダーという意味です。
後の時代には、征夷大将軍の意味は変化していきます。
坂上田村麻呂は、「阿弖流為 (あてるい) 」という東北蝦夷の族長を征伐することに成功します。
朝廷は数十年かけて東北を征服し、9世紀中頃に東北全体(今で言う青森県の北まで)を勢力圏に組み込みました。
その桓武天皇が亡くなると、次は桓武天皇の息子たちの世代となります。
嵯峨天皇
桓武天皇には2人の息子がいました。
兄が後の「平城天皇 (へいぜいてんのう) 」、そして弟が「嵯峨天皇 (さがてんのう) 」という2人でした。
しかし、この2人の天皇は争うことになります。
この戦いに勝ったのが「嵯峨天皇」(786~842年)でした。
嵯峨天皇はもうこのような内紛を繰り返さないよう、安定した国家体制にしたいと考え、それには優秀な側近が必要だと考えました。
そして、新たに「蔵人頭 (くろうどのとう) 」という役職を作りました。
蔵人頭とは、日本の朝廷における令外官の役職で、蔵人所の実質的な長になります。
つまり、蔵人頭は天皇の側近のようなポジションです。
藤原冬嗣
ここで、嵯峨天皇は初代蔵人頭に「藤原冬嗣 (ふじわらのふゆつぐ) 」という人物を抜擢します。
この冬嗣という人物を任命したことが、次の時代へと繋がっていくことになります。
ここで初めて「藤原氏 (ふじわらうじ) 」が登場しますが、
そもそも、この「藤原氏」とは一体何者なのでしょうか?
中臣鎌足
これは「中臣鎌足 (なかとみのかまたり) 」という人物の時代(614~669年)に戻ります。
中臣鎌足が亡くなる前日に、中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) 、後の
「天智天皇 (てんちてんのう) 」(626~672年)は、長い間自分に仕えてくれた中臣鎌足に対し、感謝の意を込めて「お前は、藤原と名乗れ」と申し付けました。
「藤原家」の始まり
中臣鎌足は亡くなる前日に、天皇から「藤原」という性を授かったのです。
この中臣鎌足、改め、藤原鎌足の息子が「藤原不比等 (ふじわらのふひと) 」という人物です。
ここから「藤原氏 (ふじわらうじ) 」の性が始まったのです。
藤原不比等
この藤原不比等 (ふじわらのふひと) (659~720年)は、奈良時代の初期にとても権限を持っていた人物でした。
藤原不比等は「大宝律令」や「日本書紀」の成立に関わったとされる有名な人物です。
また、この藤原不比等には4人の息子がいました。
武智麻呂 (むちまろ)、房前 (ふささき)、宇合 (うまかい)、麻呂 (まろ) という名の4人でした。
藤原四家
この4人は、後に4つの家系を持つことになります。
奈良時代から平安時代の序盤は、武智麻呂家 (むちまろけ) と宇合家 (うまかいけ) がとても優勢でした。
なぜなら、平安時代最初の天皇である桓武天皇の妻は、武智麻呂家の女性と宇合家の女性だったからです。
藤原北家
じつは、桓武天皇の2人の息子、「平城天皇」と「嵯峨天皇」は宇合家の女性が生んだ息子だったのです。
しかし、嵯峨天皇が初代蔵人頭に任命した「藤原冬嗣」は「房前家 (ふささきけ) 」の息子でした。
この「藤原冬嗣」が嵯峨天皇の蔵人頭に任命されたことで、房前家は「藤原北家 (ふじわらほっけ) 」と呼ばれ、力を持ち台頭してくるようになります。
天皇が実権を持っていた約100年間が終わった後、9世紀からは貴族、つまり、藤原家が実権を持っていた時代が約200年間続きます。
貴族による摂関政治の時代
この貴族というのが「藤原氏」であり、藤原氏による「摂関政治 (せっかんせいじ) 」が特徴です。
「摂関政治」とは、天皇が幼少期や病弱などの理由で政治を行うことができない場合に、「摂政と関白が天皇に代わって政治を行う体制」のことです。
藤原冬嗣の子である「藤原良房 (ふじわらのよしふさ) 」が、清和天皇の即位とともに実質的に皇族以外で最初の「摂政 (せっしょう) 」となりました。
藤原家と天皇家は常にせめぎあいがあり、どちらが力関係が上かという争いの中にいました。
また、藤原家内部での抗争などもありました。
この藤原北家は、自分の娘や妹を天皇の妃 (きさき) にして、生まれた息子を次の天皇にしていきます。これを「外戚政策 (がいせきせいさく) 」と言います。
※外戚政策とは、天皇の母方の親族である外戚(がいせき)を介して天皇に近づき、大きな権力を握る政治手法です。
これにより、藤原北家の当主はどうなったでしょうか?
天皇の母方の祖父として実権を握ることで、天皇を補佐する「摂政」「関白 」の地位を独占し、政治を主導することができるようになります。
つまり、「私は天皇の祖父です。」「私は天皇の伯父です。」と言うことができ、権力を維持することができるようになるわけです。
この「関白」という役職が登場し始めたのが、887年~888年頃です。
この藤原北家はこうして、権力をふるっていくようになりました。
また、藤原北家は冤罪、濡れ衣、言いがかりなど、ありとあらゆる謀略を用いて、伴氏、橘氏、源氏など他の有力な貴族の勢力を次々と排除していったのです。
さらには、天皇に対してさえも高圧的な態度を示すようになっていきます。
藤原道真
この藤原北家によって排除された者の中には、学問の神様と呼ばれた、あの「藤原道真 (ふじわらのみちざね) 」もいました。
この藤原家が実権を握っていた約200年間が終わった後、11世紀中期から12世紀末頃まで、再び、天皇の時代が約100年間続きます。
(次回に続きます。)
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
このブログを作成するにあたり、セピアのゼロから歴史塾さんの動画
「【藤原氏】って何? すべての始まり~」を参照させていただきました。
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