映画『下妻物語』 感想
映画『下妻物語』(04)の桃子が、「周りの目を気にしない、孤高のロリータ」の代表として語られてる投稿を、Xで見かけた。(元ポスト見つけられなかったので、見つけた方いたら教えてください。)
本当にそうなのか?と思いながら、夢中でスマホの画面をタップして、延々とポストをつなげて文章を書いていたらバズった。
私は、ロリータは、写真撮影の為だけにとかはレンタルで着たことがあるけど、自分のファッションとして選択したことはまだない。ティーンの頃から、原宿のラフォーレの地下を徘徊して、ショーウィンドウに釘付けになっていたのに。そろそろ着ようかって言ってる間に死んじゃうかもな。
引用やリプライで、ロリータを着ることを選択してきた女の子たちとか、V系のバンドを長年やってる男性とかに反応してもらえて、嬉しかったな。皆、それぞれが自分の世界を保つための戦いをしていた。自分の魂をどこに置くかを自分で選んだ。いいなぁ、と思う。『下妻物語』は、桃子の誇りと陶酔の物語であり、同時に、他者の存在によってその”絶対”が壊され、桃子が外界に生まれ出て自らの意志を獲得する物語でもある。魂の美しさが、内面性と関係性双方によって描かれるから、私はこの映画が好きなのだと思った。
この記事は、一連のポストに加筆修正し、再編集したものである。
ロリータファッションに身を包む桃子(深田恭子)は、ヤンキー帝国尼崎で生まれ、夜逃げで下妻までやってきた。 もちろん、現実世界においてはロココ時代のおフランスには住んでいない。身勝手な両親、生涯ジャージを着たまま死んでいく人たち、ヴェルサーチの偽物に喜ぶ人たち、服を買う店なんてジャスコしかない街の中で、桃子は生きている。自己を外界から隔絶して、ロココの魂を保つためにロリータを着ている。
そんな桃子が熱を上げているのは、「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」ロリータカルチャーを代表する、崇高なブランドだ。
桃子は1人で「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」というロリータブランドの宗教の中にいる。桃子がロリータを纏うのは、外の世界を「感じる」こと、「参加する」ことを拒絶していることも意味する。
キャベツだらけの下妻の街で、母が不倫をして出て行ったあと、テキ屋の父の隣で、フリルを着てロココの夢の中にいる。
『下妻物語』(04)(監督:中島哲也)はロリータの桃子(深田恭子)と、正反対のヤンキー少女イチコ(土屋アンナ)の女子バディ映画である。原作小説は、嶽本野ばら。
空想のロココという閉鎖された空間に、自分1人しかいなかった桃子の世界は、イチコの存在によって、風穴が開いていく。フリルまみれの夢心地な服を纏いながらも、どこか醒めたところのある桃子は、イチコの直情的な姿に、戸惑いながらも、2人の間には不思議な友情が生まれる。
物語の後半、桃子は「BABY」の神様(社長)の磯部に刺繍のデザインの仕事を託される。夜通し刺繍をし、締切に間に合わせた桃子であったが、その約束の日に、イチコがレディースのグループからリンチにあっていることを知る。
桃子は、自分の宗教「BABY」とその神様である社長の磯部を振り切って──友人がピンチであることを伝え──バイクにまたがり、イチコの元へ向かう。
物語の前半で、「ロリータらしくないから自転車は乗らない」と、わざわざ徒歩を選択していた桃子が、バイクに乗る。自分の中の当たり前や、絶対に守りたかった宗教が、壊れていく。それは過去の否定ではなくて、おそらく、これまでも完璧だったけど、それを上塗りしてもいいほど、大切でもっと完璧なものができたということだ。
自分の外側に大事なものを見つけた桃子は、慣れないバイクで下妻の道路を爆走する。その途中、キャベツを積んだトラックに撥ねられて、走馬灯を見る。走馬灯の中で、桃子は母親の胎内にいる。桃子の母親は、桃子出産時の産婦人科医と不倫をするのだが、桃子は「今産んでもこの子は幸せになれない」という母の声を聞き、「出せー!産めー!この不倫妻ー!!」と叫ぶ。それは、反抗であり、自分の意思で幸せになるという、覚悟でもある。桃子は、イチコのところに、行かなくてはいけないから。ロココの夢の中に守られているだけではなくて、桃子は、自分の意志で、幸せになることを決めたのだ。
その瞬間、桃子は現実世界で意識を取り戻す。もう一度ちゃんと、世界に生まれてくることを決断する。それが、たまらなくいい。
『下妻物語』を初めて見た時にはわからなかったことが、最近になってようやく、わかるようになって来た。桃子は単なるロリータがたくさん買える、甘やかされた憧れの女の子なんかではない。彼女が、本当はジャージとヤクザの世界で夜逃げ先で生活していること。そのために内面の世界と「BABY」の魔法が、なぜ、どれほどまでに必要だったのか。すました顔でロココの夢の中にいることは、戦いだったんだと、気がつく。心の砦と、鎧としてのロリータ。
どこか上の空で、外界に対して「我関せず」といった感じの桃子が、他者(=友人)であるイチコと出会うことで、初めて自らの意思で主体性を得る。愛おしい瞬間だと思う。
単にイチコと桃子の間に世界が生まれるのではなく、走馬灯のシーンは、あくまで桃子のイニシエーションとして描く。
桃子は、イチコのもとに駆けつけて、レディースたちとの戦闘に加わる。自分の"宗教"だった、BABYの真っ白なロリータをドロドロにして。
作品の冒頭で、忌避していた、体育の授業で雄叫びをあげる女子のように、大声をあげてバットを振り回す。そうやって、自分がかつて、思ってもみなかった姿になっていく。「イチコという他者によって「BABY」の宗教の外側の自分になっていく。
物語のラストにおいても、桃子とイチコは完全に混じるわけではない。BABYの夢の中でもなく、桃子が桃子のための生き方を探り、イチコはレディースを抜け、一人で走ることを決めて、幕を閉じる。『下妻物語』、美しい映画です。