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■大格差、温暖化、新コロナ、トランプ残像で煩悶する世界!が、今こそオミクスと不均衡動学(宇沢弘文/新自由主義の天敵)の『自由の知』、フィデューシャリーヘ果敢に挑戦する時!(5/6)

■大格差、温暖化、新コロナ、トランプ残像で煩悶する世界!が、今こそオミクスと不均衡動学(宇沢弘文/新自由主義の天敵)の『自由の知』、フィデューシャリーヘ果敢に挑戦する時!(5/6)

(冒頭のイメージ画像 は、https://www.pinterest.jp/marekassti/wallpaper-japan/ より転載)

<注>当記事は「ブログ(↓20210110-toxandoria.hatenablog)」の内容を6パーツに分けたものの(1/6)ということです。お数ですが、当記事の画像は、下のURLでご覧下さい。 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/050440 (前編)
https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2021/01/10/070801 (後編)

[当記事の目的]

Fiduciary (Fiduciary Duty)が「オミクス生命論の『自由の知』」へと、ある意味で必然的に深化しつつある欧米の流れ(歴史・現況・展望)の概観が、当記事の主な目的である。 特にフィデュ―シャリー(Fiduciary)に関連する部分については、随時、記事の中で詳述する。なお、「オミクス生命論の『自由の知』」(宇沢弘文の『社会的共通資本と不均衡動学』)については[6-2 宇沢弘文『不均衡動学』と、古澤満「不均衡進化が解明したDNA増幅の基本』の共鳴]で詳述する。

<注>Fiduciary Duty とは?(ひとまずの意味)

・・・米国の法律では非常に頻繁に出てくる用語で、一般的には米国憲法上の概念とされる概念である。しかし、Fiduciaryに は日本語の統一的な訳語が存在しない。そして、そもそもFiduciaryは「Duty of Care」と「Duty of Loyalty」という2つの意味が併存する(法的な概念)である。Duty of Careは「同様のポジションにある場合に、委任された人の職業・専門家としての能力・社会的地位などから考えて、通常期待される善良な義務を負うべき立場の方の人が、より選択すべき可能性がある方法で奉仕すべき義務」ということなので、これは既成の「善管注意義務」(善良な管理者の注意義務)の訳語が対応する(日本では民法644条にある)。「Duty of Loyalty」は、「自分の利益を後回しにしてでも忠実に、当然あるべき義務を果たす」(言い換えれば、大きな自然環境の下で、たまたま希少な生命あるヒトの親という立場に置かれた自分として、当然果すべき役割と考えられる親としての義務を果たす、ということ)である。例えばFamily Lawの世界では、親は未成年の子にFiduciary Dutyを負っているので、自分の身の危険をかえりみず子の安全を守るべきだ、ということになる(参照:山本法律事務所HP)。 https://yamamotolaw.pro/fiduciary-duty/

・・・ここから(5/6)のはじまり・・・

5 触知型崇高美を重視するバーク流「正統保守」が新たな希望への出発点

5-1 バーク流❝正統保守の原点/そもそも触知型崇高美を重視する「正統保守」とは?


・・・「触知型崇高美」(バーク流❝正統保守)への無理解で「擬装右翼の暴政」に凌辱される日本国民の不幸・・・https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20080813/p1

(触知型崇高美と仰視型崇高美の差異について)

・・・ここでは、バーク流❝正統保守の原点としての触知型崇高美の問題を考える。・・・

保守思想の父とも呼ばれるエドマンド・バーク(1729 -1797/イギリスの政治思想家/ダブリン生まれのアイルランド人、英国の下院議員となり、後にホイッグ党の幹部まで上り詰めた人物)が、弱冠28歳のときの著書『崇高と美の観念の起源(1757)』で主張したのは、18世紀にアンシャン・レジーム下のフランスで大きく開花した啓蒙思想の「理知的な明晰さこそが芸術に必須の本質だ」という超観念的、超抽象的な主張に対する反論と考えることができる。

なお、そもそも啓蒙思想は17世紀の英国で芽生えたといえるが(トマス・ホッブズ、ジョン・ロック)、それは17~18世紀の英仏における諸思想の交流史のなかで誕生し、熟成されていったと理解すべきである。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331 ↓

つまり、視点を変えると仏大革命前夜からその勃発の頃に当たるバークが生きた時代は、17世紀後半~18世紀にかけての欧州「啓蒙思想」期の前半(初期啓蒙思想期)とほぼ重なっている。そして、この時代の主な思想家としては英国のホッブス、J.ロック、スコットランドのD.ヒューム、フランスのヴォルテール、ディドロ、モンテスキュー、J.=J.ルソーらが先ず想起される。

それは「聖書・教会、神学、王権」ら諸権威のドグマ(固定観念)から脱出し、理性によって人間の意思(意識)と権利の「普遍性」を定義し、その保全のための政治体制(民主主義社会)を創造する思想活動であった。そして、ほぼ同時にその流れを補強したのが、17世紀の「科学革命の時代」と呼ばれる時代である。

また、その命名の契機となった出来ごとは英国の歴史学者ハーバート・バターフィールド(Herbert Butterfield/1900 - 1979)が、1949年の著書『近代科学の誕生』㋨なかで17世紀を「科学革命の時代」と名付けたことにある。具体的に見れば、それはN.コペルニクス、J.ケプラー、G.ガリレイ、A.ニュートンらによる科学研究上の大きな変革のことを指すが、その影響を受けた哲学上の変化も含め、この時代は「17世紀科学革命の時代」呼ばれることもある(厳密に見れば、それは18世紀前半ごろまで入る)。

また、啓蒙思想の歴史を顧みると、その一部分では宗教とも重なる「感情の問題」に関わる一定の冷静な理解の確保は、カントによる“情念統制理念、論理構成理念”の考え方の登場を待たなければならなかった。そして、最もテンポラリーなテーマとして、それはオミクス生命論とも共鳴しつつfiduciaryの問題に重なることになるのだが、それについては、また後で触れることになる。

なお、ここで言う「感情の問題」とは、善と悪のように両義的な性質が共存するコヒーレントで不分明な混沌たる感情・情念の世界のエルゴンの問題を指しており、その底流に潜むのがかのダス・エスの問題であった!(関連参照/→第3章-("二つのエス"の問題))

因みに、カントによる“情念統制理念、論理構成理念”の考え方とは、下記a、bの意味であるが、委細は下記↓★を参照乞う。

a:情念統制理念:たとえ実現の可能性から離れているとしても、持続的に目指すべき“方向性”(一定の統制された情念に基づく ↞後づけ的に見れば"二つのエス"の問題のバランス統制と言うべきかも? )

b:論理構成理念:論理と実践によって徐々に実現されるべき内容

★カント「情念統制、論理構成」の峻別、それは「普遍」観念を培地とするリベラル共和主義の理解と深化に必須の条件https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180307/p1

かくして、「触知型崇高美と仰視型崇高美」の問題を考える背景が出揃ったことになる。それは、"崇高美に憧れる"という感情の作用としては殆ど同じもののように思われるが、これら両者の何れを重視するかという、当初における其のわずかの角度の違いが後々になり致命的な違いとなって表れる。そこにこそ"触知型崇高美の重要な意義"が隠されているのである。

桑島秀樹著『崇高の美学』(講談社選書メチエ)によると、西欧における崇高という用語の最も古い事例は、3世紀・アテナイの修辞学者ロンギノス(Kassios Longinos)の著書と信じられてきた文体論(修辞学の書/実際は1世紀頃に書かれた作者不明の偽ロンギノス文書)である『崇高論/ Peri Hypsus』に見られるようだ。

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ともかくも、このロンギノスの「崇高」を修辞学から解放し、美的概念として再定義したのが18世紀英国のエドマンド・バーク(Edmund Burke/1729-1797)である。又、そもそも崇高(英sublime)の原義は「山岳の高さ、高み」のことであったとされる。

バークは美学論でデビューした哲学者・文章家・演説家でもあり、名著『フランス革命の省察』(みすず書房)でフランス大革命を批判したため「保守主義の父」として名高い訳だが、上の『崇高の美学』の著者である桑島秀樹氏(広島大学・大学院人間社会科学研究科教授)などもその立場だと思われるが、単純にバークを「保守主義の教祖」に祀り上げるのは誤りのようだ。

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一方、ほぼ同時期に同じく大動乱の時代のドイツ(オーストリア継承戦争・七年戦争・ポーランド分割などの時代の)で生きた哲学者カント(Immanuel Kant/1724−1804)は、ある意味でバークの美学を継承・発展させつつ「美の批判の学」(通称、カント美学)を完成させたとも言える。

初めは啓蒙主義による理性への期待をもたせた大革命後のフランス社会が過激な暴力装置と化すのを目の当たりにしたカントは、おそらくバークと同じく、人間が持つ底知れぬ 悪徳と自己矛盾、理性と軍事・科学技術そして資本主義社会(産業革命)が犯す誤りを観察することになったようだ。

そして、カントは先ず何よりも人間社会に“不安と混乱”をもたらす「悪」の存在を著書『宗教論/第1編・根源悪』で凝視することになる。このような視点からすれば、おそらくバークとカントのフランス大革命についての見方には、それほどの大きな違いはなかったのではないかと思われる。つまり、彼らは「過剰に抽象的な合理性に傾斜しすぎた理性主義=デカルトが代表する近代主観主義」が犯す誤りについての危惧を共有していたのではないかということである。

バークによれば“偉大な芸術は世界の無限(≒根源的な自然)を志向するもので、その無限には果てがないのだから芸術は明晰でも明瞭でも(明晰な仰視型の抽象性、いわば仰視型崇高美への憧れだけで実現できるものでは)あり得ないのである。

つまり、これこそが偉大な芸術を小さな範囲に囲い込むことができない理由であり、それは、我われが視覚的あるいは抽象論理的に明快さだけに傾斜した表現よりもより暗示的で暗黙知的な、もっと言えば皮膚感覚的な表現に優れた芸術(いわば触知型崇高美)の方に強い感動を覚える理由なのだ”ということになる。

そして、このバーク流美学のパラダイムこそが英国の正統保守の基礎となってきたと考えられるのである。結局、英国政治の「正統保守的」な伝統は、その悠久の歴史プロセスにおける保守と革新(改革)の絶妙なバランスによって有機的(現代風に言えばオミクス生命論的)に再生・再組織されてきた秩序の伝統だということになる。

因みに、Brexitについても此のような角度から分析を試みれば、また新たな視点が拓けるのではないかとも思われる。その伏線となる[リベラル共和主義とバーク流正統保守の接近の道程としてのfiduciary の問題]については次節および第6章で少し触れることになるが、その意味でのBrexitについての論考は、また別の機会としたい。

◆【BREXIT進展か?】英・EUがFTA締結で合意、関税ゼロ継続へ…土壇場で経済の混乱回避1225読売https://news.yahoo.co.jp/articles/6035539e28669c17408ec93df864de43531fb5c0

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https://twitter.com/YahooNewsTopics/status/1342125971571294208

(ミメーシス(mimesis)の美学と正統保守の問題)

・・・アンドレア・デル・サルト『ミメーシス美学』が暗示する、政治的自己免疫“暴走”への特効薬たる正統保守(偽装極右の天敵)の役割)・・・

◆正統保守が掲げるべき究極の理想(エンテレケイア)はリベラル共和! より厳密に言えば、それは「リベラル共和なる永遠に未達のエンテレケイアの下で、そこへ至る道程"充実"の責務(fiduciaryのリアリズム倫理)を絶えず自覚し、謙虚に、かつ積極的にその推進への取り組みを持続する」ということ。https://note.com/toxandoria2/n/n5f6592ea88e5

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Andrea del Sarto(1486-1531)『アルピーエの聖母』「Madonna of the Harpies」1517 Oil on wood  208 x 178 cm Galleria degli Uffizi 、 Florence

一般にミメーシス(mimesis)は「模倣」と訳されるが、そう単純なことではない。「近代主観主義」の特徴は「自然を制御可能なものと見做す科学還元主義的な考え方」に立つことである。この発想からすれば、人間主観の権化たる大天才の出現によって科学的視点が革新(新しい理論の発見、科学技術の創造、イノベーション)され(あるいは。計測不能な潜性イノヴェーションの契機となり)、レオナルドやミケランジェロのような天才芸術家によって人間のための偉大な芸術が創造されることになる。ところが、古代ギリシアのミメーシスは、このような考え方と正反対の立場であることが分かってきている。

古代ギリシアの概念であるミメーシスが意味するのは、端的に言ってしまえば、それは「自然世界の本質的なものについての部分的な発見や気付きを強化的に再現し、再提示する」ということである(出典:青山昌文著『美と芸術の理論』(日本放送出版協会)、p18-19)。

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つまり、これは「近代主観主義」(近代主義の呪縛)への反証であり、これによって芸術についての実在論が反転することになる。結局、絵画に限らず凡ゆる芸術作品は人間の主観が構成するのではなく、この自然世界に際限なく広がる本質的なるものを「ミメーシスの努力」によってその奥深くからすくい上げ、それを「鑑賞者の目前で強化的に出現させる」ものだということになる。

・・・繰り返しになるが、バーク「崇高と美の観念の起源」(みすず書房)によれば、偉大な芸術は世界(自然)エトノス(委細後述)の無限を絶えず志向するものであり、無限には果てがないから芸術は“矮小な人間の尺度に過ぎない明晰さでも明瞭さでも”あり得ない。だから逆説になるが、それこそが「偉大な芸術を小さな範囲に囲い込むこと」ができない理由なのだ。

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また、それこそ我われが明快に表現されたものより暗示的・暗黙知的な芸術(触知型崇高美を感じさせる芸術作品/例えば、アンドレア・デル・サルト、レンブラント、フェルメールなど)の方により一層大きく強い感動や魅力をおぼえる理由なのだ。なお、この論点は計測不能な「潜性イノヴェーションの問題」にも関連することになる(関連参照↓◆)。
◆新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/0

このバーク流の美学こそが「英国の正統保守政治」を基礎づけたと考えられる。保守を騙りつつ「内向的で傲慢極まりない元安倍政権と菅政権、そして日本会議ら」との何たる違いか!このような観点からすれば、渦中の安倍晋三・菅義偉ら異常なウソ憑き(吐きw)政治権力者どもの悪しき行状の山が非常に深刻な政治的自己免疫の“暴走”以外の何物でもないことが分かり愕然とする。

◆永遠にアベの堂々巡りパラドクスに呪われる美しい日本!オレは安倍と同じ嘘吐き穴クロ仲間ダ!それが何だヨ!と菅も堂々宣った!こ奴らは完璧に国民を舐めている! →開き直る菅首相:桜は「他の政治家の活動だ」事態には一切説明せず名簿再調査も否定!1224朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1342200347717033986

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・・・

結局、英国保守政治の伝統は、その悠久の歴史における保守と革新(改革)の絶妙なバランスによって、エトノス環境である大自然との交流・交感のプロセスで有機的に組織されてきた、着実に未来へつながる秩序であるということになる。


バークが言う「悠久の歴史における保守と革新の絶妙なバランスにより有機的に組織された秩序」とは、古代ギリシア・ローマ〜古代末期〜中世〜ルネサンス〜初期近代〜近代〜現代という悠久の時間の流れのプロセスで「営々と積み上げられてきたミメーシスの努力の繰り返し」と見做すこともできるだろう。


このように真摯な努力の積み重ねによる漸進的な改革を重視するという古典主義(バーク流の保守主義)のコアとなっているのは、無限の世界(広大無限の自然)への「怖れ」の感情と、その恐るべき世界に対する「不安」であると考えられる。また、このような「不安」があればこそ、人間は自然と世界に対し謙虚になるべきだという「英知を伴う心性」(限定合理主義を尊重する、真の科学主義の精神)が生まれる訳だ。(関連参照↓◆)

◆AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができる https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

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・・・所有者からの寄託を受け、2015年3月から『聖プラクセディス』を展示している国立西洋美術館は、研究者の間で意見が一致していないことを理由に、作者名に関して「フェルメールに帰属」と表記して展示している(画像・文ともウイキより転載)。

5-2 原因の空間、理由の空間、エトノス環境、オミクス生命論について

(fiduciary duty深化のためのベースとなる考察)

・・・ここでは心の哲学のフィールドで重視される「原因の空間、理由の空間」の切り口から、人間社会のエンテレケイア(究極の理想)と見るべきフィデューシャリー(fiducuary)の充足へ至る道程で特に重要なキーワードを取り上げておく。・・・

(原因の空間と理由の空間)

先ず、「原因の空間(エトノス環境1/厳然たる客観としての環境(自己を含む諸個体の集合とも言える)=おもに自然科学の対象となる分野/論理性」と「理由の空間(エトノス環境2/因果的な関係性)=おもに人文科学の対象となる分野」という、異相の二つのエトノス環境(時間の流れに沿った両者の交点がリアル日常)についての気付きが非常に重要となる。なお、後で直ぐに、その委細を取り上げるオミクスとエトノスについては、とりあえず「オミクス=ヒトの内外に拡がる生命環境」、「エトノス=ヒトの内外に拡がる自然・文化両環境」としておく。

<注>エトノスとの関連で、当記事の冒頭に記した[当記事の目的]も併せて参照乞う。

原因(因果性)の空間

・・・量子ワールドらを含む自然、外形的な生命個体など、いわば偶然の組み合わせによって無限に創成される多様な物理的・物象的世界の集合的な射影またはそれを補足するイメージ。(パースのトークンにほぼ対応する)

理由(関係性)の空間

・・・無限の多様性に満ちたリアル生命の個体内環境、言語、文化、科学知、司法・行政、公共選択(社会制度)、社会的共通資本、企業、その他の社会構造など、いわば関係性と論理が無限に創成する多様性の世界の集合的な射影または其れに関わるイメージ。(パースのタイプにほぼ対応する)

<補足>「原因(因果性)の空間」における量子ワールドらに関わる解釈の問題

・・・実は、それは「波動(空間分布パターンなる一定の抽象性が伝播する物理現象)」と「粒子(これは”抽象性と物性”との狭間ともいえる。その一応の基準点は、コペンハーゲン解釈だが、「その観測による波束の崩壊を認める立場」において量子ワールドが<原因>と<理由>の両空間で、その何れに属するのか?ということは中々悩ましい問題と言える。

・・・しかし、マルキシズムの原理と見るべき唯物論(生命をもその一部の属性と見なす?)とは異なる立場を採る当記事では、一応「エドマンド・バーク流”正統保守”の立場(第3章で詳述)から浮上する、”認識論的解釈はヒトの特性であると見立てる生命の論理”を「第三の空間(展相/Potenz)」と見立てつつ、それを<原因>と<理由>の両空間と同等に重視する「第三の相(展相)=生命論に因るリアリズム空間」という立場(マクダウエル"リアリズム倫理"に近い!)を採ることとする。


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<注>パースのタイプとトークン

・・・パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズムの創始者)が提唱したタイプ(脳内で自由に変容する可能性がある概念そのもの)とトークン(その概念と対応関係にある、確固たる実在としての因果の連鎖に縛られる特定・個別の対象)の区別(Type-token distinction)という考え方がある。


<参考>「選言説Vs概念説」の緊張関係がヒントとなる「AI時代の民主主義の新たな可能性」についてhttps://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125305

(ドナルド・デイヴィドソンがマクダウエルの選言論(説)を支持する背景)

・・・結局、デイヴィドソンもマクダウエルと同じく「選言論(説)」を採っていることになる。・・・

・・・以下は、下記の【参考情報】に倣いつつ、所見を纏めたものである。・・・<注>[第3章 -(ポストトゥルース Vs ファクトチェックの問題)]も併せて参照乞う。

◆D.ディヴィドソン「"心的&物的"両トークン同一(対等)説」に照らして見ると・・・この「鬼滅の刃」が驚くべき社会現象であるとしても、もし「市場原理主義が喜ぶガス抜き効果という只それだけのこと!」で終わるならば、三匹のリアル鬼(Covid‐19、安倍晋三&菅義偉)は絶対に死滅しない! →映画「鬼滅の刃」興行収入歴代1位に 「千と千尋」抜く | 1228NHK https://twitter.com/tadanoossan2/status/1343645435362086913

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(D.デイヴィドソン『非法則的一元論』が意味するのは、唯一『リアリズム倫理(fiduciary)』だけが『生来のウソ吐き人間』の天敵になり得る!という恐るべき現実)

・・・下記【参考情報】の解釈的な紹介による・・・

【参考情報】行為とその合理化――共感・共同行為への問いの根底にあるもの―川瀬和也(宮崎公立大学・准教授)https://actiontheories.files.wordpress.com/2014/05/studies_on_action_theory_3_kawase.pdf 

・・・

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ドナルド・デイヴィドソン(Donald Herbert Davidson/1917- 2003/米国の哲学者/最も著名な論文は『行為、理由、原因(1963)』)によれば、現実的には、個々人の心理面におけるこの両者の対応関係は一筋縄では行かない(デイヴィドソンの画像は、https://www.s9.com/Biography/davidson-donald-herbert/ より。

そこで、例えばある固有名詞(特定タイプの言語表象)ら多様な言語表象の組み合わせに因る一定の言語表現(厳密に言えば、それによる或る人の心的理由の説明)は、必ずしも因果論的ないしは論理的に首尾一貫性を確保するとは限らないことになる。いわば、個々人の内心それ自身は常に多様性に満ちていることになる。)。

別に言えば、如何に客観合理性を謳うとしても、安定的に、それが中立性・公平性を担保するのは非常に困難であることが理解できるはずだ。ましてや、何か絶対的に梃子でも動かぬソリッドな固定観念か何かが自己の中核的で、個性的な生命力の正体だと理解することはできないといえる。逆に言えば、個々の個性的な一回性は個々の関係性にこそあることになる。

実は、このような点にこそ、マクダウエルが「選言説」(intentionalism/必然的に脳内外の諸環境の干渉の影響下にある感情こそがヒトの日常言語における固有名の一義的な意義と概念の形成に先行すると見る立場/その極致が、いわば“恰も感情と表象が一体化”しているが如き純粋経験としてのアプリオリで居丈高なプラトニズム)と「概念説」(表象説、概念相対主義/relativism/その極致が、いわば露骨な自然主義)に関わり、これら二つの視座の融和・和解に因る真のリアリズムの自覚を取り戻すこと(それによって真のリアリズムを復権させること)が、愈々、必須である!と警鐘を鳴らす根本的な理由がある。しかも、この論点は現実的に現下の国際政治の局面(言い換えれば、世界の民主主義と世界経済の行き方を占う!?)にも絡んでいることが理解できるはずだ。

・・・宇沢弘文「fiduciary」(委細後述)と通底する「選言論」(およびマクダウエル『リアリズム倫理』)の重要な意義 ・・・

つまり、今まで有意であった筈の民主主義そのものが今後も存続ために必須と見るべき第一条件は何か?ということ、言い換えれば、このパース、ディヴィドソンらに由来する<根本的な人間理解(人間社会・人間文化などをより深く理解するため)のベースとして選言説を採るか、概念説(表象説、概念相対主義)を採るかこそが非常に重要であることが、益々、悪化するばかりの格差拡大や地球温暖化、あまりにも悲惨な移民問題などを目の当たりとして、漸く、世界の人々によって理解されつつあると思われるからだ。

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・・・ジョン・マクダウエルの『リアリズム倫理』について/マクダウエルのイメージはウイキより・・・

John McDowell(1942‐ )は、ピッツバーグ大学教授. オックスフォード大学講師を経て 1986年より現職/研究分野は多岐にわたりプラトン・アリストテレスに代表される古代ギリシア哲学, 倫理学, 言語哲学, 認識論, 心の哲学,ヴィトゲンシュタイン研究などで大きな影響力のある論考を発表している。.

カント, ヘーゲル研究でも知られるが、日米および欧州などで跋扈するマイファースト・自己責任論・多様性否定主義あるいは表層的なAI万能論が囃される昨今(関連参照↓ブログ記事★)であるからこそ、そのユニークな「リアリズム倫理」(道徳的実在論/自然と対比的に、それを第二の本性(自然)と位置付ける)が注目されている。

つまり、ジョン・マクダウエルは、かつてヒト(人類)が理解していた筈の【根源的かつコンシリエンス的な“想像力”(人文・科学知の融和・和解的統合)に因るリアリズム/コンシリエンス・リアリズムとでも呼ぶべきか?】の自覚(復権)こそが、愈々、必須になると警鐘を鳴らしていることになる)。

・・・D.デイヴィドソン『非法則的一元論』について・・・

ところで、心の哲学は、ある意味で<行為の「因果説」対「反因果説」>という対立軸のもとで理解され、発展してきたとも言えるが、デイヴィドソンの著書「行為・理由・原因」(1963)が刊行された頃は、丁度、ウィトゲンシュタインに代表される「行為の反因果説」(理由の空間からの抽象論理的な説明を優先させる考え方、言い換えれば科学・論理的決定論の立場からの抽象的な一般法則と化した暴力的とも言える水平化・法則化の力)が広く受け入れられていた。

しかし、デイヴィドソンはこのような考え方に因る「行為の反因果説」そのものに対して、そのように行為の理由を先ず与えること(先ず、何らかの「ヒトの意志を大前提」とする抽象的な合理化の理論)は、<結局、それも単純な因果的説明の一種であるに過ぎない>と反論した。因みに、行為の因果説とは"我われわれの精神的な働き、つまり何らかの意志が原因で、身体的な運動が結果としてひきおこされるという考え"である。

さて、デイヴィドソンによれば、ある行為の「主たる理由」とは、その行為に関する広い意味での欲求(賛成的態度)と関連する信念である。「雨の日に傘を持って外へ出かける」というある人の行為の「主たる理由」は、例えば、その人が濡れずにいたいと考えること(賛成的態度)、そして傘を持っていけば今日雨で濡れることはないだろうと考えること(信念)である。

常識的な素朴心理学と広く一致しているこのデイヴィドソンの見解は、

「因果の法則は厳密(ある意味、物理的)で決定論的に見えるが、

実は、それと正反対の"ヒトの理由による説明は必ずしもそうであるとは限らない(つまり、それは可成り曖昧なものだ!)"という主張を基盤としている。

言い換えれば、それ(一応、決定論的に見える、そのように表面的な意味での因果の法則)には個人的な嗜好や偏向した倫理観などの入り込む余地があるので、

"より広い意味での良否、善悪"の判断とはそもそも無関係なものであり、必ずしも両者が一致するとは限らないということになる。

つまり、デイヴィドソンによれば、理由の表明が厳密な意味で"より普遍的なものであり得るという現実がある"一方で、

特定のヒトが何らかの特別な異なる理由を持つことも、当然あり得るので、ウィトゲンシュタインに代表される「行為の反因果説」が、一般的な意味での「因果説」を否定することにはならない、ということになる。

ところで、デイヴィドソンは、何故にこのように複雑な議論の方法を採ったのだろうか?

そこで、デイヴィドソンの「心的出来事」の理解が重要になる。デイヴィッドソンは論文「心的出来事」(1970)で、心的出来事のトークン(厳密な意味でパースに従えば、これは心的印象のタイプということになる)は物理的出来事のトークンと同一であるという「トークン同一説」を主張している。


例えば、"あるヒトが、これはターコイズブルーの青い空だ"と思ったような感覚の質的な判断に関わる心的状態と、脳におけるニューロンの一般的な活動パターンという物理的あるいは生理的状態との間で、「何らかの普遍的な法則性」を発見するようなことは殆どあり得ないと思われる(当然、感性・感覚には生命個体としての個別性があり得るから!)。

従って、一見では、この種の説(そこで『何らかの普遍的な法則性』を発見するようなこと)はおかしいように思われる。

しかし、ディヴィドソンによれば、「個々人の心的状態とニューロンの一般的な活動パターンとの間において、何らかの法則的な還元を発見すること(何らかの普遍的で完璧な法則性を発見すること)の不可能性」と「トークン同一説」とは全く無関係なことなのである。

それは、確かに心的出来事の「タイプ」(形象イメージ)を物理的出来事の「タイプ」に対応させる法則は存在しないかもしれないが(誰でもが全く同じターコイズブルーの青を感じるという法則は存在しないかもしれないが)、

個々の心的出来事の「トークン」(厳密な意味でパースに従えば、これは心的印象のタイプになる)がそれと対応する物理的出来事の「トークン」と同一であること(両者が、心的イメージの世界の中において完全に対等・平等であること)は可能だからだ。

これは、夢の世界の場面を想像すれば理解が容易いのではないか?見方によっては、殆どのヒトの意識は覚醒しているときでも夢の中と大差はないものだと言えることになり

これが覚醒時の意識(心的イメージ世界での約束事を最重視するという倫理観に拘束される意識)からすれば"特定のヒトの"虚言又は妄想"ということになり得る。つまり、基本的には"ヒトがどんなに有害な嘘を吐こうが、基本的には自由・平等"なのである。悔しいことだが!


例えば、甚だ残念なことであるが"非常に有害"な権力者と化した「両トークン混同型(自らの心のなかで、これら両トークンは全く対等だと思い込んでいる!?)の根っからの嘘吐き人間」(Ex.↓◆)がヒトの社会にはごまんと存在し、しかも、それが現実社会や国民の生活に大きなマイナスの被害をもたらすこともあるという、現代日本における恐るべき現実を想起してみればよい!

◆【人類の未来のためにもアベは絶対に許せぬ!】いつ日本は安倍・菅らが好む詐欺師&強盗国家へ相転換したのか?又、歴然たる政治的な猟奇犯罪者たる此奴らの如き小物権力者達の面前で異様に怯え小便をチビる検察は如何なるエンテレケイア下で日々を生きているのか?https://twitter.com/tadanoossan2/status/1342592817898536960

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1342592817898536960

リアル・虚構、両トークン混同なる重篤な異常オミクス&幼少期ラカン鏡像型の政治的<猟奇犯罪>の病理! →「桜・前夜祭問題」一層巧妙化する安倍前首相のウソ/説明の通りであれば「森友学園問題と共通する『虚構の構図』」1226郷原信郎 Y!N
https://twitter.com/tadanoossan2/status/1342933899496673281

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1342933899496673281

・・・

つまり、デイヴィドソンの見解では、存在するのは「出来事」のみであり、その出来事が「物理的に」記述されたり(a物理的出来事)、「心的に」記述されたり(b心的出来事)するだけなのだ。従って、ある一つの出来事トークンが同時に「物理的出来事」でもあり「心的出来事」であることも可能なのである。


しかし、決してこれは(a物理的出来事)が(b心的出来事)に優越するとか、あるいは唯物論(物的還元論)を主張している訳わけではない。それどころか、このような見解は「マクダウエルのリアリズム倫学」を想起させる(Cf.↓★記事)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

・・・

別に言えば、心のなかで、両者の区別はつけ難いともいえる。例えば、旅先で体験(見分)した自然景観等とテレビで見たほぼ同じような光景が混然一体化してしまうようなことは時々起こるのではないだろか?そして、このような経験が一種の心的な根深い習性となり身に付いたのが生来の病的な、又は幼少期ラカン鏡像型のナルシズムに耽溺する根っからの噓吐き!(Ex.安倍晋三)ということではないのか?


ここでデイヴィドソンは「非法則的一元論」を提唱する。「一元論」 というのは、心的出来事と物理的出来事は同一の出来事であると主張するからであり、「非法則的」というのは<心的出来事と物理的出来事の「タイプ」は、厳密な法則によって結合しているのではない>と主張するからである。

従って、デイヴィドソンによれば、

「心的なものと物的なものの因果関係は出来事のトークンの間に存在するだけであり、心的出来事はタイプとしてみれば非法則的である(純粋な意識の世界では心的と物的の間に区別はない!)」という見解が帰結する。


そして、このデイヴィドソンの「非法則的一元論」は心の領域の自立性を一応は尊重しているが、同時に基本的には「トークン物理主義」でもある。しかし、他方では<心的なものと物的なものとの間に「選言論」的なスーパーヴィーニエンス(supervenience)関係>を確保していることになる


<注>スーパーヴィーニエンス(supervenience)は「付随性」と訳されているが、哲学のなかで特に心の哲学で使われる用語であり、異次元の特性の間で定義される強力な相互依存関係を指すhttps://plato.stanford.edu/entries/supervenience/


そして、驚くべきは「↑◆/安倍晋三の如き生来の噓吐き人間」が日本の『偉大なレガシー付き?の総理大臣』となっているという現実が、この難解なデイヴィドソンの「非法則的一元論」の証の典型となっていることである(苦w)。


結局、デイヴィドソンもマクダウエルと同じく「選言論(説)」を採っていることになる。


そして、このことは近年における「a知覚に基づく判断、b予めの意志の決定に因る行動、cその他の要因(環境?)」の三者で何れがヒトの内心において最も先行するか?という脳科学の実験で検証されている(↓♨その実験の結果では、cが最先行していた!)

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♨[BSプレミアム] ヒューマニエンス 〜40億年のたくらみ〜「“自由な意志” それは幻想なのか?」20201126NHK https://www.facebook.com/NHKonline/videos/1118801535239829/

・・・人間という不確かで不思議な存在とは何か? 科学と未知の領域を行き来しながら、その真の姿に迫っていくシリーズ! 私たちは「意志を持って自由に決断をしている」と信じて疑わない。その「自由な意志」が今回のテーマ。最新の脳科学は、「自由な意志」は脳がつくっている錯覚、幻想かもしれないという。無数の電気信号が飛び交う脳の神経細胞の活動は、意志が関与する前に勝手に動き出し、それによって後付けのように生まれるのが意志だというのだ。では、いったい脳は誰のものなのか。驚きの実験で明らかになる、私という存在の根源を妄想する。
https://www.nhk.jp/p/ts/X4VK5R2LR1/https://www.facebook.com/NHKonline/videos/1118801535239829/

・・・

【参考情報/再録】行為とその合理化――共感・共同行為への問いの根底にあるもの―川瀬和也(宮崎公立大学・准教授)https://actiontheories.files.wordpress.com/2014/05/studies_on_action_theory_3_kawase.pdf  

ところで、↑の【参考情報】については、ほぼ同感ながら、だからこそ<脱「完全合理主義=例えば市場原理主義」>の視点からヒトとリアル環境の双方のための"限定合理主義(行為の合理化)"の条件を問いつつ、そのため有意な「共感・共同行為に必須の条件(逆に聞こえるかもしれぬが、一応の判断を超えた全面的判断(限定合理を前提とする)のための条件)」に関わる気付きを一人でも多くの人々(世界中の)と共有する途をリアルに探り続けるべきではないか?と思われるのだ。

そして、やはりその問題を解くカギは「理由の空間」の<一回性(選言論に因るリアル関係性)=心的・物理的両トークンのスーパーヴィーニエンスの強化についての、絶えざるより高度な倫理観(fiduciary ≒ リアリズム倫理)の探求による、多くの人々(それは確固たる物的な生命個体環境でもある)の間での信頼性の係留を如何にして持続させるべきか>の問題ではないか?と考えられる。 


<注>「共感・共同行為に必須の条件((完全合理を前提とする)一応の判断を超えた全面的判断のための条件)」とは?・・・特に、当「川瀬和也・論文」中の【 ↓★の視座】から見れば、あきらかに「fiduciaryの二つの条件」(Cf. 当記事の冒頭、<注>:米国憲法上の概念でFiduciary には「Duty of Care」と「Duty of Loyalty」と2つの意味がある)に、ほぼ重なることが理解できる。


【★「純粋意図」(それが善意に因るか?悪意に因るか?こそが問題?)と実践的推論(何れにとって利益となるか?こそが問題?)の関係が重要となる。・・・本稿では、実践的推論の本性への問いが、行為論の全体を貫く、因果説と反因果説の対立と独立に考慮されるべき問いであることを示した。共感を含む感情の問題や、ブラットマンの計画理論の問題(Ex.https://staff.aist.go.jp/y-ichisugi/brain-archi/20140701Nide.pdf)、合理性と不合理性にまつわる諸問題も、この実践的推論の本性への問いという視座の中にあってこそ意味を持つものであるように思われる。このことを強調して論を終えることにする。】


(エトノス環境)

(1)そもそもエトノス(ethnos)とは何か?

「第2章-『クーラ寓話』」で触れた「ハイデガーの大きな自然に包まれている人間存在の奇跡/ハイデガーのゾルゲ(Sorge=世界への配慮、気遣い)の問題)という含意は、<AIは意識を持てるのか?/Cf.↓★>という悩ましい問題とも絡みつつ、近年において再び注目されるようになった。

★ AIの正体を知れば哲学が分かる!/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができる https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003

また、それは「エトノス環境」の観念にも近いのではないかと思われる。なお、エトノスの定義は既定のものがないので仮にtoxandoriaが纏めた内容を自身のブログ記事から以下に一部分を修正し転載する。

・・・エトノスとは『半永久的に絶対的・持続的な生の持続の流れの中で受肉した個人の身体(有限な個々人の“生”)を含む内外の自然・人工環境に加え、ヒトの生命とその社会生活の維持に必須のローカルな一定地域の自然・歴史・文化・記憶環境と深く共鳴しつつ<いま現在のリアルな生命>と人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”とし得る開放系の間(相互)主観性・共有観念、または過去〜現在〜未来におよぶ生存環境の拡張または微小馴化を受け入れつつ絶対的「生」の“持続性”との間の往還的な歴史的関係性、および多元的で寛容な個人・集合・社会・共同体を重視しつつ、それらの関係性をを気遣う意識の総体』である。・・・

(2)歴史的に見たエトノス

古代ギリシア語で、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団を指したエトノスは、相対的に立場が変われば志向アフェクト(意識)のベクトルが反転するので、自ずと真逆の意味になる(善・悪の立場の入れ替わりがあり得る)のも当然である。従って、そもそもエトノスは胡桃の殻の如く固陋な評価を伴う概念ではない。

それ故、これは歴史・政治・科学・倫理などの諸条件しだいで、その意味が変容する非常に柔軟な用語である。だからこそ、歴史・政治・科学・倫理の背骨となる「絶対的な“生”」の意味を探求する倫理・哲学あるいは宗教の役割が益々重要になるとも言える。

加えて、<生命・意識・文化の持続に必須であるローカルな自然、歴史、風土、文化との対話、そしてそれに因るエトノス自身の射程の一定の変容も必須!>の条件が付くので、エトノスは固定観念化したイデオローグではあり得ない。

(3)AI型『人間の壁』解消のヒントとなるエトノス環境の視点

AI型『人間の壁』(AI時代の人間の壁)と呼ばれるものには『人間の壁』1と『人間の壁』2の二種類がある。そして、『人間の壁』1とは、分配構造を抜本的に変革するマクロ経済政策(例えば、fiduciaryを十分に見据えた宇沢弘文の"不均衡動学"理論による"社会的共通資本"の整備や、その整備の一環としてのベーシックインカムなどの)が先行的に確実に実行されぬ限り、準汎用AI機械とヒトの間では必ずや生産性の大きな格差が発生し、それが持続的に拡大し続けることを意味する。

他方、『人間の壁』2とは、従来型のヒトが中心の「"暗黙知"活用型の多様性と敗者復活型の"潜性イノヴェーション"」というポテンツを秘めた「リアル経済」の可能性が地球の自然エトノスに対し開かれている(開放系である)ことに比べ、準汎用AI機械がヒトとは異次元の「ビッグデータ&ディープラーニングなる"形式知"活用型の画一的な生産・経済活動である、あるいはカルマン・フィルターなどの殆ど予期不能なリスクを内包する高度技術でもある/https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003」ため、ヒトと準汎用AI機械のあいだに立ちはだかる宿命的な断絶のことである。

そのため、地球の全エトノス環境とエコーし続けるべき生身のヒトである全顧客が必然的に不満と不安を募らせることとなり、更にそれが社会全体で助長するため悪循環の形で新たな社会不安を呼び込み続ける可能性がある。

このような状況を予感していたのかどうか?は定かでないが、かつて"非エトノス論"とも言える“非選言論(説)”の立場を採っていたケンブリッジ分析学派の代表ウィトゲンシュタイン(1939年からケンブリッジの教授となっている)も、主著『論理哲学論考』(初版は1921)の改編のプロセスで<言語間「普遍論理」想定(抽象的な記号論理学中心)>という哲学の基本姿勢を変えようとし、コミュニケーション行為(いわば"エトノス論"的な方向への軌道修正)に向け自らの哲学の再構築を図ったが、これは完成せず病死している(関連参照⇒第5章ー2 [見えないことの発見2] AIを活かした「ヒトがやるべき仕事」の発見)。

ともかくも、具体的に見れば『人間の壁』(1と2)は、<準汎用AI機械経済がもたらす高度生産性が、上で述べたようなfiduciaryの方向付けの下で、分配構造を抜本的に変革するマクロ経済の展相が国の政策として断行されない限り、準汎用AI機械の高度生産性は宝の持ち腐れになるだけだということになる。

だから、リアル社会で生きる労働者と一般国民の幸せを保証するために、彼らのリアルな血となり肉となる(彼らの生活と未来への希望ともなり得る)真に有益な生産性へ、その準汎用AI機械の高度生産性を適切に換算し直し(fiduciaryに沿った福祉政策などで十分に保証しつつ)、かつ地球エトノス環境に見合う人間らしい経済社会でのリアル・マネーとして有効に活かすことができるよう真剣に取り組むのが、愈々、これからの国家指導層の重要なfiduciaryの責務であることになる。

(オミクス生命論)

◆「オミクス生命論」的なfiduciaryの視座、即ちエトノス環境の一環たる公益(社会的共通資本やBI(ベーシックインカム)等)との先行「理解」が不在の儘の消費喚起ねらいBI論(代わりに生活保護等は廃止?)は竹中平蔵らの"水漏れバケツ市場経済論(只の市場原理主義)"と同轍! ➾BI、必要論争に火 最低限の生活資金配布 究極の安全網1230朝日 https://www.asahi.com/articles/DA3S14749109.html

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https://www.asahi.com/articles/DA3S14749109.html

(1)エピジェネティクスとは?

エピジェネティクスとは、下記の出典(★)によれば、<DNAの配列変化によらない遺伝子発現を制御・伝達するシステムおよびその学術分野のことである。すなわち、細胞分裂を通して娘細胞に受け継がれるという遺伝的な特徴を持ちながらも、DNA塩基配列の変化(突然変異)とは独立した機構である。このような制御は、化学的に安定した修飾である一方、食事、大気汚染、喫煙、酸化ストレスへの暴露などの環境要因によって動的に変化する。言い換えると、エピジェネティクスは、遺伝子と環境要因の架け橋となる機構であると言える。主なメカニズムとして、DNAメチル化とヒストン修飾などがある。>ということになる。・・・★出典:脳科学辞典、https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9 

<注>ヒストンはDNA を核内に収納する役割を担う塩基性蛋白質。ヒストン修飾は様々な蛋白質の結びつき方の翻訳修飾で環境等の影響を受けることを意味するが、例えばヒストンメチル化(これによりクロマチンの構造が変化することで遺伝子の発現が促進する)も多様な翻訳の一つのタイプである。なお、化学的な修飾とは「たんぱく質、DNAなど生体高分子に含まれる特定の官能基、つまり一分の分子が化学的に置換する(又は、させた場合に)、活性度・反応性等の機能が変化すること」である。

・・・

上の<注>でも少しふれたが、要は「DNAの配列の変化ではなく、DNAのメチル化によるクロマチン構造の変化(いわばクロマチンの記憶の変化)、あるいはアセチル化などで遺伝子に対する制御の変化が次世代の発現(次世代DNAに因る次世代細胞の発現)へ伝わってゆくDNAワールドでの現象」をエピジェネティクス(epigenetics)と呼ぶ訳である。

そして、これを一般的に表現すれば「DNA塩基配列の変化を伴わないで細胞分裂後も継承される遺伝子発現、又は細胞表現型の変化、およびそのことを研究する学問領域」ということになるが、特に注目すべきは、その後半部分の「DNA塩基配列の変化を伴わない細胞表現型(厳密に言えば、その次世代DNAに因る細胞表現型の)の変化のこと(および、その研究)」ということになるだろう。https://epigeneticsandchromatin.biomedcentral.com/articles/10.1186/s13072-019-0319-0

ここで想起されるのが、地球上の多くの生物において遺伝情報の継承と発現を担う高分子生体物質であるDNA(デオキシリボ核酸)の「二本の鎖」のことである。「第6章ー2/宇沢弘文『不均衡動学』と、古澤満「不均衡進化(Disparity Evolution)」』が解明した『DNA増幅の仕組み(論理&実証)』の共鳴」でも再びふれるが、一本のヒストンに巻きついた二本のDNAがほつれて複製されるとき、「二本の鎖」のうち一方は連続して複製される「連続鎖」(いわば保守的な鎖)となるが、もう一方は複製酵素の特異性で連続鎖と同じ方向へ鎖を伸ばすことができないので、敢えて断片状に複製されたものが結合され一本になり複製が完成する。そして、後者は「不連続鎖」と呼ばれる(@古沢 満『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説)。

委細は第6章で後述するが、この「不連続鎖」が「連続鎖」合成に比べてDNA複製プロセスがかなり複雑になるため作用する酵素の種類数も多くなり、変異の発生可能性が大きく(内外ワールドからの、言い換えれミクロ・マクロ両環境から±の影響を受け易く、それだけ革新的・学習的な要素になり得るということだ。しかし、同時にそれは此の「不連続鎖」が大きく「環境面でのマイナスの影響」を受ければ(強力な放射線や電磁波、あるいは何らかの生活習慣、又は職場・住・生活環境などの)、それらに因る何らかの病変(広義ではDNAらに起因する遺伝性のエピゲノム疾患も含むが、狭義では後者の新世代ゲノム発現性のエピゲノム疾患)を発症する可能性もあり得ることになる。

(エピゲノム疾患について)

◆サイトカインストーム抑制!の対関節リウマチ薬が効いたらしい?のでエピゲノム疾患(↓★)系の先端研究が新コロナ対応の一つの活路となるかも? →コロナ重篤患者に日本で開発の薬投与で死亡率減 英で研究成果 111 NHK 
https://twitter.com/tadanoossan2/status/1348382507289378817

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【参考資料】実験医学 2020年8月号 Vol.38 No.13:RAN翻訳と相分離で紐解く リピート病 (3塩基の)くり返し配列の“長さ”が発症の原因となる謎に挑む 永井義隆(企画) https://twitter.com/tadanoossan2/status/1287852750684827648

「エピジェネティクス」という言葉自体は1950年代からあったが、エピジェネティクスの異常と疾患の関係が意識されるようになったのは、ここ約20年来のことである。例えば、突然変異や染色体の欠損・欠失で癌抑制遺伝子が機能しなくなり癌が発症する訳だが、癌抑制遺伝子(遺伝情報)自体に変化がなくてもDNAの異常メチル化で癌抑制遺伝子が不活化すると癌になることが分かってきた。

エピジェネティックな調節は主にゲノムの化学的な修飾(化学修飾)や構造変換によって行われる。DNAのメチル化は同じゲノム情報をもとにしつつ使う遺伝子または使わない遺伝子を制御することで、皮膚、肝臓・・・と、それぞれの個性化する細胞に固有のエピゲノム環境を確立することになる。

そのようなことから一部のエピゲノム疾患は投薬や生活習慣の調整などで正常化できる可能性もあり、ある種の白血病や癌に対してはDNAの脱メチル化剤など(酵素を阻害もしくは活性化する薬)で効果が実証されつつある。

ただ、治療標的となる酵素が作用する遺伝子は1つ(又は1環境)と限らず、同時に何十、何百の他の遺伝子( or 全DNAの98%を占める非コードDNAも含む遺伝子・ゲノム環境全体)に影響を及ぼすことも考えられるので副作用のリスクも十分に考慮すべきである。冒頭に掲げた「リピート病」の他にも、エピゲノム疾患には「先天性の免疫不全症候群(ICF)、各種の精神・神経疾患、多様なアレルギー疾患、自己免疫疾患、ある種の白血病ほかの血液系疾患」など様々なものがある。

(2)オミクス生命論とは?

(エピジェネティクスとオミクスの関連性)

・・・エピジェネティクスとオミクスの関連性について考察する目的で、以下に、◆1の一部を引用・転載する。・・・

◆1[エピジェネティクスと細胞記憶と疾患、(佐々木 裕之/九州大学生体防御医学研究所エピゲノム制御学分野)https://hama-med.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2939&item_no=1&attribute_id=31&file_no=1

・・・エピジェネティクスは細胞核内の染色質の化学修飾(メチル化、アセチル化など)により遺伝子発現や表現型の多様性を生み出し、それを安定に維持・継承する機構をいう。また、生体を構成する個々の細胞のもつエピジェネティック修飾の総体をエピゲノムとよぶ。
受精卵から個体が発生する過程でエピゲノムはダイナミックに変化するが、一旦確立された各細胞系譜のもつエピゲノムは、遺伝子発現を安定に維持する記憶として継承される。
よって、エピゲノムの制御は細胞の分化制御と恒常性維持の両方に重要である。一方、エピゲノムの後天的な破綻が生活習慣病などの原因となることが分かってきた。
また、エピゲノムの変異(epimutation)が、生殖細胞や初期胚におけるリプログラミング過程をすり抜け、あたかもゲノム配列の変異のように次世代へ伝達される例も報告されている。我々はマウスをモデルとして、生殖細胞で確立されるDNAメチル化状態が子に伝達されるゲノムインプリンティング現象について研究してきた。ここではその成果の一端を紹介し、エピゲノム変異伝達についても考察を試みる。
さらに、様々な疾患におけるエピゲノム制御の役割を明らかにするため、まずヒトの千種類の細胞の標準エピゲノムマップを作成しようという国際プロジェクトが国際ヒトエピゲノムコンソーシアムにより進行中である。標準エピゲノムデータを疾患サンプルのエピゲノムと比較することにより、様々な病気の原因の解明や治療法の開発が可能になるのではないかと期待される。最終的には、エピゲノムを含む多階層のオミクス情報を横断的に活用する統合オミクス研究あるいはトランスオミクス研究が、生命科学を変えるであろう。・・・ここで転載おわり・・・・・・

(オミクス生命論の核心)

上で見たとおり、エピジェネティクスとの関連で新たにオミクスと呼ぶべき医学研究の領域が新登場したことになる。つまり、オミクス(omics)とは生体中に存在する分子・原子オーダーの全体を網羅的・階層的に取り込みつつ、量子物理学や統計力学・数理解析などの科学&数理論的知見、又は"エトノス環境"論などコンシリエンスな人文・社会系の視座までを総動員し研究する学問である、ということになるだろう。

エピジェネティクスは「DNAワールド(全DNAオーダーで"2%を占有するDNAと同98%占有の非DNA"」なる生体分子環境内の生命・生理・病理現象についての研究分野である。ここへ「生の連続性」という更に広角な視点(既出のジルベール・シモンドン的なマクロ・ミクロの次元も取り込む視点)を加え、オミクス環境という先端的な生命科学研究の分野が意識されるようになってきた。それがオミクス生命論である。当然、そのような方向が必須となることはエピゲノム疾患が発見された時点で疾うに気づかれていたことではあろうが。

ところで、エピジェネティクス(エピジェネティクス環境)は、端的に言えば、DNAオーダーの研究領域であったが、一方のオミクスはマクロ・ミクロの両面で、それを遥かに越えた広大な環境での生体分子世界における<「情報分子トランスオミクス(多階層オミクス情報)研究」である>ということになる。

更に興味深いのは、このオミクス生命論という新たな視座が、ヒトの経済社会(資本主義社会、特に新自由主義・市場原理主義)における<『人間の壁1』を超えた『人間の壁2』という新たな(というか、むしろ"致命的な!"と言うべき)格差リスクの拡大>の解決のためにアナロジカルなヒントを与える可能性が高いということだ。

なお、既に見てきたとおりであるが『人間の壁1』とは旧来型の「汎用AI機械高度生産性 Vs ヒト(労働生産性)」で発生するリアル経済格差のことであり、『人間の壁2』は、<「リアル経済」(生活に直接役立つリアル・マネー)の可能性(これは伝統経済が素朴に定義する生産性)が地球の自然・文化エトノス環境に対し開かれている(開放系である)のに対し、ビッグデータ型「AIディープラーニングの予測値」が閉じているため必然的に両者の間には非常に大きな断絶が生ずる>ことになるということであった。

別に言うと、それは「ヒト(労働)による生産性」と「非人間的なAI超高度生産性(閉鎖的な抽象体系アウトプット)」の間において、何らかの従来とは全く異なる斬新な公共(社会経済)選択に因る政策を介在させる新たな政治的な決断、つまり<オミクス生命論的な視座(又はそれをも取り込んだfiduciaryの視座)に因る全く新しい"翻訳または修飾"的な政策の介在による、人々の生の持続のための調整が必須であるということになる。

その意味で、今や市場原理主義(新自由主義/小さな政府)への丸投げ政治なるもの(現在の日本で言えば、あの強欲な竹中平蔵が指南する?菅内閣の穴クロ経済政策)、あるいはトランピズム方式とかいうポピュリズムを煽るだけの只の大きな政府への回帰政策ら、が如何に無責任であるかは明らかとなっている。

<注>「ヒト(労働生産性)Vs 非人間的な高度生産性(閉鎖的な抽象体系アウトプット)」は、「AI形式知ワールド/その終着駅がシンギュラリティ妄想?!」Vs「ヒト暗黙知ワールド」の“絶対的な断絶”とも表現できる(関連参照/Cf.↓◆)

◆『想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか?』https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514、htps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449

[参考」・・・以下はオミクス(オミクス生命論)の理解を更に深めるために・・・/↓◆2より部分転載・・・

◆2[オミクス(オミックス、オーミックス)について/バイオコラム:オミックス https://www.gene-lab.com/column/17omics.html ]

オミックス(Omics)は、オーミクスと呼ばれることもありますが、その語源を調べると、「ギリシャ語の「すべて・完全」などを意味する接尾辞(ome)に「学問」を意味する接尾辞(ics)を合成した言葉」とあります。

医療分野では、「研究対象+omics」という名称は、その生物学の研究分野を扱う学問を意味する呼称として使用されており、これは、最初に遺伝子(gene)の研究分野において、ゲノミクス(遺伝子を扱う学問:genomics=gene+omics)という言葉が提唱された事に始まります。その後これに倣うように、トランスクリプトミクス(トランスクリプトーム(全mRNA)を扱う学問:transcriptomics=transcript+omics)、 プロテオミクス (タンパク質を扱う学問:proteomics=protein+omics)、メタボロミクス (代謝物質を扱う学問:metabolomics=metabolite+omics) など様々なオミックスが提唱され、盛んに使用されるようになりました。それぞれ、遺伝子の発現(トランスクリプトーム)、タンパク質の解析(プロテオーム)、代謝物質の解析(メタボローム)等、異なる分野の網羅的な測定や解析における研究から得られる知見をそれぞれの学問として総合的に体系化し、医療などに役立てようとしています。さらに分析手法の技術革新が進み、個人一人ひとりがどのような遺伝子を有しているか、その発現に強弱があるか、変異はないか、また、どのようなタンパク質が発現していて、どのようなシグナルが働いているかなどのオミックス(Omics)情報が得られるようになってきており、これらの情報は近い将来、がんの早期診断、効果的な薬剤の選択、術後の再発予測など、患者一人ひとりに対して行う「個別化医療(Personalized medicine)」(or プレシジョン・メディシン(Precision Medicine;精密医療),https://www.medience.co.jp/forum/pdf/2018_05.pdf ↞補記、toxandoria))の実現に活用されるようになると予想されます。 これは、言い換えれば「オミックス医療」の可能性を示しており、日本ではすでに学会も立ち上げられています( http://omics.jp/ )。

一方で、IT(Information Technology)技術の進歩が、網羅的な分析・解析から得られる膨大なオミックス情報を、個々の病気の発症との関連性や予後の予測などに結びつけることを可能とし、オミックス情報を活用するブレークスルーとなったことは間違いありません。さらに将来を考えると、ネットワークを含めたIoT(Internet of Things)の活用が進むことが予想されます。具体的には、スマホデバイスなどの個人端末の急速な普及拡大がもたらす効果として、従来得られた個人の検査結果を端末で確認できるようになり、その情報を用いて医療機関や医師との連携が進むことで、健康状態をより正確に把握することが可能となり、疾病の発症や予後の予測に役立つことが大いに期待されるのです。

このような世界が現実になろうとしている中、製薬企業や診断薬企業もこの流れに同調せざるを得なくなっています。今までよりも個々の患者の実態を知ることが求められ、個人のオミックス情報の利用が将来の事業の鍵になることは間違いありません。すでにサービスとして世間に登場していますが、病気のなりやすさ等を判定する遺伝子DTC(Direct-to-Consumer)検査やウェアラブルデバイスの発展は、自らヘルスケアに関わる情報を積極的に求め、健康を維持・管理し、疾病の発症予防にも努めたいという、消費者個人の潜在的な意思のあらわれでもあります。このような時代の到来を感じながら、当社は、各種のサービスを通じて診断に役立つ情報を提供してまいります。

(オミクス生命論の更なる展望)

【参考資料】研究領域名 代謝アダプテーションのトランスオミクス解析
東京大学・大学院理学系研究科・教授 黒田真也
https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/30_front/data/h29/h29_j11.pdf

・・・オミクス生命論の更なる展望のため。表記の資料より[オミクス生命論(表記の前半)]と[代謝アダプテーション(表記の前半)]の内容を以下に転載しておく。・・・

(オミクス生命論の新たな方向性)

生命は環境に応じてダイナミックに代謝を調整し、恒常性を維持している。糖尿病を含むメタボリックシンドローム、がん、炎症性疾患などの疾患や薬剤耐性などの病理的現象で見られる特有の代謝状態は、それぞれの環境変化に対して、生体が代謝を調整してアダプテーションした結果(代謝アダプテーション)である(図 1)。例えば、ヒトなどでは空腹時の血糖値は一定に維持されているが、糖尿病では血糖の恒常性が失われ持続的に高血糖となる。がん細胞では糖をエネルギーに変換する異化反応よりも、増殖に必要な材料を作り出す同化反応が亢進して高速増殖を可能にしている。これらの代謝アダプテーションは、1000 種類以上の代謝物が織りなす複雑なネットワーク構造の適応であり、正常な基底状態から時間に伴って細胞の置かれた環境に対してアダプテーションして適応状態へと遷移する動的な現象であ

(有限から"物理的"無限への架け橋?/代謝アダプテーションについて)

代謝アダプテーションは、直接的な代謝物(メタボローム)の変化だけで制御されるわけではない。メタボロームの上位に位置するゲノム・エピゲノム・トランスクリプトーム・プロテオームなど、複数のオミクス階層が密接に連動したトランスオミクスネットワークにより制御されている。つまり、
状況に応じてトランスオミクスネットワークを動的に切り替えることにより代謝アダプテーションを実現している(図 1)。代謝アダプテーションは複数のオミクス階層が密接に動的に連動して機能するため、従来の個別の代謝物や分子をターゲットとした解析をパッチワークのようにつなげるのではなく、各オミクスデータを同時に計測して、多階層のオミクスデータを階層をまたいで統合する技術(=トランスオミクス解析)が必要である。本領域では、これまで別々の分野の個別研究として扱われてきた現象を、トランスオミクスの観点から代謝アダプテーションとして統一して理解し、現象横断的な新領域を創生することを目指す。

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5-3 「科学知("人文・自然"両科学)および科学技術」の中庸性の問題

「第5章-1(ミメーシスの問題)」で触れたが、<真摯な努力の積み重ねによる漸進的な改革を重視するというバーク流の保守主義のコアとなっているのは、無限の世界(広大無限の自然)への「怖れ」の感情と、その恐るべき世界に対する「不安」であると考えられる。また、このような「不安」があればこそ、人間は自然と世界に対し謙虚になるべきだという「英知を伴う心性」(限定合理主義を尊重する、真の科学主義の精神)が生まれる。>ということが言える。

そして、このような考え方は建国以来の歴史プロセスにおいてリベラル共和主義なるエンテレケイアへの道程を歩む米国(学界および最高裁等の司法関係者ら)、あるいはその他先進諸国(スウェーデンらEU加盟諸国等)においても、多くの国民あるいは学界・司法・行政関係者らによって次第により重要視されつつある。ただ、米国においては肝心の共和党がトランピズムに毒されて只の反知性主義的なポピュリズム選挙の道具化したか?に見えることが懸念材料であるが・・・

(今は当然視されている『科学&科学技術の中庸性』について/その歴史と現代的な課題)

・・・ここでは<「宗教’&イデオロギーの頸木」Vs「科学の中立性」>という、決定的な対決の歴史的エポックの観察から『科学&科学技術の中庸性』の現代的な意味を再確認する。併せて「米国最高裁におけるフィデュ―シャリー(fiduciary)の中立的な観念(ケルゼン純粋法学に関わる)」の意義も再認識すべきである(関連参照/冒頭<注>Fiduciary Dutyとは?、第6章- 宇沢弘文『不均衡動学』の鍵となる言葉)

<注>ここで言う「科学技術の中庸性(中立性)」は、ミクロ経済学における各生産要素(労働力・資本・技術)の限界生産性の「定義」の前提となる「技術(力)の中立性」とは無関係である。ここでは、あくまでも「科学の中立性のジャンル」の延長としての中立性(中庸性)のことである。但し、「技術・科学技術」は、生産性の質(その生産性を発揮する、その技術特有の場所と空間を含めた能力)という意味では、明らかに生物のジャンルであるヒトを凌駕しており、そもそもオミクス生命論的にみればヒトと技術が対等な関係ではあり得ない。例えば、当記事で取り上げてきた汎用AI機械生産の時代における『人間の壁1』の問題がその典型事例に当たるだろう。だから、ここで発生する大格差の問題については、科学者・科学技術者あるいは政治家・経済学者らが、それとは全く異なる自らの「リアリズム倫理観とイデオロギー」(fiduciary)の問題として、より広範なオミクス生命論的な視座から考えるべき問題である。

・・・

(1)17世紀(初期啓蒙思想期)は「科学革命の時代」であると同時に「仏モラリスト」の時代に重なる

https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

<注>モラリスト(moraliste)は、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けたモンテーニュ、ブレーズ・パスカル、ラ・ロシュフコーなどの人々。別に言えば、彼らは「ひたすら感情と論理の泥試合的な綱引きの場と化した、当時の宗教支配の空気への言論による、中立的で人間的な批判者たち」の嚆矢であった。

・・・

17世紀(初期啓蒙思想期)は「モラリスト、“脱ドグマ”啓蒙市民社会、“オランダの光”(レンブラントの時代(@ホイジンガ)とも呼ばれる史上初の近代市民社会の出現)が象徴する“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)と“機械”生産デュナミス潜在性の発見」が鼎立する、いわば今のAI時代のコンシリエンス(人文&科学両知の融合)の先取りともいえる時代であった。

<注>デュナミス(潜性態・潜在性/dynamis))は現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレエネルゲイアの謂いで)するアリストテレスの用語。エルゴン(ergon/死静態)が、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことを意味するのに対し、それがリアル活性化すると両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。つまり、ヒトの『日常』(日々のリアル生命活動)は「エルゴン⇒デュナミス⇒プレ・エネルゲイア⇒エネルゲイア(現勢態)⇒エンテレケイア(entelecheia)」のプロセスに支えられていることになる。

・・・

従って(+)のデュナミスが何らかの機械処理ないしは消費活動等で言語(経済活動)的に表現され、それが形式化され(例えば契約などの形で)「現実」化するとそれが新たに創造される経済価値(付加価値)のデュナミス(潜在性・潜性態)というリアル可能性の創造物となり、その貨幣化による分配と蓄積がヒト・企業・国家に必須の富の形成力(エネルゲイア/現勢態)となる。

従って、オミクス生命論などとは全く無縁であった17世紀(初期啓蒙思想期)においても、ルネサンス期を経た欧州諸国のアカデミズム関係者やモラリストらの知識人たちの多くは、人間社会の発展にとり「一定の偏向したイデオローグや宗教観によって過剰に修飾(影響)されることの弊害」については十分に気付いていたことになる。このため、啓蒙思想の発展に大きく貢献したと見るべきモラリストの活躍(16~18世紀)を理解することが、科学のそもそもの意義を深く理解するためにも先ず重要なことだ。

(2)17~18世紀「科学革命の時代」とい苦悶の時を経て、漸く『科学と技術の中庸性』は必須!の観念が人々に広く共有されることになった


英国の歴史学者ハーバート・バターフィールド(Herbert Butterfield/1900 - 1979)は、1949年の著書『近代科学の誕生』の中で近代の画期として、17世紀を「科学革命の時代」と名付けている。具体的に見ると、それはN.コペルニクス、J.ケプラー、G.ガリレイ、A.ニュートンらによる科学研究上の大きな変革のことを指すが、その影響を受けた哲学上の変化も含め、この時代は「17世紀科学革命の時代」呼ばれることもある。

しかし、この時期の科学者が宗教の頸木から完全に解き放たれていたと見るのは大きな誤解を生むことになる。例えば、フランスの思想家で「宗教的自由主義」を主張したピエール、ベール(Pierre Bayle/1647 - 1706/フランスの哲学者、思想家/神学的な歴史観を懐疑的に分析し啓蒙思想の先駆けとなった人物)は、デカルトの物理学に関する執筆の内容には“神によって保証された法則”との注釈が付いていたことを明かしている(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/132869/1/eca0892_081.pdf)。

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この時期の科学者が宗教の頸木、または羅針盤から完全に解き放たれていたと見るのは大きな誤解を生むことになる。例えば、フランスの思想家で「宗教的自由主義」を主張したピエール・ベールは、デカルト(René Descartes/1956 - 1650/数学者、合理主義哲学と、近世哲学の祖)の物理学に従って、処女作『1680年の彗星に関する随想』を書いたが、そのデカルトの物理学には“神によって保証された法則”との注釈が付いていたとされる(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/132869/1/eca0892_081.pdf)。

それは17世紀後半~18世紀にかけての欧州「啓蒙思想」期の前半(初期啓蒙思想期)にほぼ重なり、この時代の主な思想家では英国のホッブス、J.ロック、スコットランドのD.ヒューム、フランスのヴォルテール、ディドロ、モンテスキュー、J.=J.ルソーらが先ず想起される。しかし、同時にそれは又「聖書・教会、神学、王権」ら諸権威のドグマ(固定観念イデオローグ)から脱し、理性により人間の意思(意識)と権利の「普遍性」を定義し、その保全のための政治体制(我われの現在にも繋がる民主主義社会)を創造する思想活動でもあったのである。

我われは、「歴史も含めた人文知と科学知の両側面について、リアルな事実に基づき評価できる人間としての最低限の統合意識」を敢えて捨てぬ限り、かくも過酷な啓蒙思想初期の時代における<「宗教&イデオローグ権威の暴走」 Vs 「客観知・科学知」>なる過酷な闘争史の一コマを垣間見るだけでも、今の我々が当然視する「中庸な客観知・科学知」という権利を捨てることが(例えば、現代日本の前・安倍晋三政権や現・菅義偉政権、あるい米トランプ大統領の如く)民主主義そのものにとって如何に危険な蛮行であるか!ということが簡単に理解できる。


◆【他山の石!】ほぼ同感!日本も「菅政権・安倍元政権らの超アナ黒ニズム」&そのカルト原発性マジックの正体を再認識すべき時!新コロナ対策の非合理マネジメントの淵源でもある鴨神社? →選挙不正を言い募るトランプ支持の「カルト性」に警戒を108江川紹子 - Y!N https://twitter.com/tadanoossan2/status/1347657561630076929

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1347657561630076929

・・・

なぜなら、それこそ「ホッブス"リバイアサン"の時代へ向かって歴史を逆行させようとする恐るべき悪魔的事態の出現」への警告であるからだ。

だからこそ、これら科学「知」や客観「知」は必ず「オミクス生命論の世界で一回性の生ある人間」として生きる我われ普通の人々の健全な<謙虚さ>をベースとして成り立っており(アナクロ・イデオローグ信者やAIシンギュラリティ信者、又はマッド・サイエンティスト、あるいはトランピズム信者らは別物!w)、異次元の現実解たるリアル・オルタナティブ正解が必ず存在すると確信する(or 偏向した特定のイデオロギーが仕掛けるフェイク、すなわちオルタナティブ・ファクトを安易に受け入れてしまう)ような精神のあり方(精神環境)とは一線を画する必要があることになる。


・・・以下は、関連情報アラカルト・・・


【これは、「202101106トランプ支持派の連邦議会への乱入」事件で、見事に失敗してしまったが!苦w】トランピズムトなるオルタナティブファクトのカルト病理に罹患!の共和党が自らリカバリ能力を試される異常事態?情けないことではある!w →米下院共和党、140人が1月6日の選挙人投票の集計に反対へ 同党の2議員明かす0101CNN https://news.yahoo.co.jp/articles/e2701ed51e5b5bffecc8b163b937f99bd8bf0172

海外も懸念”の通り科学の中庸性の意義、真の"理念の役割=fiduciary"が理解不能な菅の社会的知能の低さが問題!アベに倣うムダ金バラマキしか能がない!新コロナ対策でも然り!Ex.↓♨  →目玉政策、高いハードル 脱炭素化・デジタル化 21年度当初予算案 閣議決定1222朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/134187939789722828

【科学「客観知」と闇サイト「詐欺」(『日本会議』麾下、アナ黒カルト政治(アベ・スガ)orトランプ現象)の根本的な違い!】一定の母集団におけるランダム分布データで客観的な推測値を求めるのが統計、それらデータ(処理)を個々の人間的「洞察」の補助に活用するのがデータサイエンス、一定仮想空間におけるビッグデータ等であく迄も限定的な「推測"参考"値」を求めるのがAIディープラーニング。https://note.com/toxandoria2/n/ndc24a525744c

【科学「客観知」と闇サイト「詐欺」(『日本会議』麾下、アナ黒カルト政治(アベ・スガ)orトランプ現象)の根本的な違い!】一定の母集団におけるランダム分布データで客観的な推測値を求めるのが統計、それらデータ(処理)を個々の人間的「洞察」の補助に活用するのがデータサイエンス、一定仮想空間におけるビッグデータ等であく迄も限定的な「推測"参考"値」を求めるのがAIディープラーニンhttps://note.com/toxandoria2/n/ndc24a525744c

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https://note.com/toxandoria2/n/ndc24a525744c

◆【いわゆる拡張現実(AR)の1ジャンル、ゲーミフィケーョンと思われるが、それは潜性イノヴェーションの刺激として有意であるが"技術としての中庸性"を失わぬ工夫が肝心!】興味深いが「エトノス&オミクスの生命の論理、科学、および技術」の中庸性、つまりリアリティは必ずしも正しい意味での実在(一回生の!)とは限らぬ!の視点こそが肝心!?Cf.↓♨  →「他人と体をシェア」36歳早大准教授の凄い研究 沖縄でスキー、シベリアでビーチを楽しむ未来1130東洋経済オンライン https://twitter.com/tadanoossan2/status/1333861931338194949

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【ゲーミフィケーションと拡張現実(AR)の問題】新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449

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科学の価値中立性について/菅野礼司 http://jsa.gr.jp/04pub/jjs-opinions/value_neutrality/No08_5007_sugano.pdf

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・・・ここで(5/6)はおわり・・・
(4/6)はコチラ↓にあります。https://note.com/toxandoria2/n/n6d0b2a29af2c


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