「井筒俊彦 叡智の哲学」 を読んで
どのような本か?
「井筒俊彦 叡智の哲学」とは以下の本である。
この本は、東洋思想の研究者である井筒俊彦の解説本である。一年前、井筒の著書「意識と本質」を読んだが、難しすぎて挫折した。(全くもって歯が立たなかった。)そこで、井筒俊彦の解説書が欲しいと思っていて調べていたのだが、その時に、この書籍を見つけたのである。
内容は、井筒の生涯を通して研究したきた内容を追体験するようなものになっているのだが、その研究対象は非常に膨大である。(ギリシャ哲学から始まり、イスラーム、ロシア文学、シャーマニズム、原始仏教、華厳宗、真言宗、禅、キリスト教神秘主義、老荘思想、儒教、ユング心理学、和歌、詩など)
井筒俊彦の著書は、とても難しいものなのであるが、この本の著者:若松英輔氏の解説はかなり分かりやすいものであった。面白い箇所は沢山あったのであるが、内容を全て書いてしまうと、このブログには到底収まり切らない為、ここでは軽い内容説明と自分の感想を書くのに留めたいと思う。
自分の問題意識 「超宗教」について
本の内容について語る前に、自分が何故この本を読もうと思ったかのきっかけについて少し語りたい。(興味ない人は読み飛ばしてOK👌)
自分は、統一教会の二世である。
自分は、高校生の頃までは、全く本を読んだことのない人間だったのだが、大学生になってから本を読むようになった。そして、本格的に哲学や宗教に興味を持ち始めたのは、「統一原理」に疑問を抱くようになってからだ。統一教会では、その経典である「原理講論」が正しいと言う前提で話が進む。しかし、「そもそも原理が正しい根拠は何なのか」それを示してくれる人はいなかった。「教祖である文鮮明がメシヤであり、彼が語った事だから、それは全て正しい。」これが原理が正しい理由であり、それに納得する以外の選択肢は、二世の自分には与えられていなかったのだ。
しかし、それでは自分は納得しない。
インターネットで調べ、youtubeで調べ、簡単な本から読み始め、自分が理解できる最低限の範囲から、少しづつ宗教や哲学について学習していった。そして、原理に納得している所と、そうでない所を自分の中で明確化していったのである。
(まだ読めてないのもあるけど💦)
結果的に、原理において信じられない部分は沢山出てきたのだが、これは真理だなと思う部分もいくつかあった。自分が統一教会において、特に共感した価値観、それは「超宗教」という概念だった。
以下の文章は、「超宗教」という概念についての説明である。
他宗教同士で争いをすることなく、一つになること。それが、文鮮明の本懐だった。
人間が相互に深い次元で理解し合う為には、他者の宗教観(世界観)を理解することが必須である。しかし、その為には宗教という次元を一歩俯瞰した(もしくは、一歩深めた)視点が必要だろう。それには「超宗教」という概念が鍵である。と。そう思っている中、いつものように宗教や哲学について調べていた時、とある人のブログで井筒俊彦という人物を知った。「彼は、諸宗教を統合するメタ宗教を構築しようとした。」この文章が、自分が問題意識としていた、「超宗教を実現するにはどうすればいいのか?」という疑問に答えてくれるような気がした。
このようにして、井筒俊彦の著作を読もうと思うようになったのである。
井筒俊彦とは誰か
概要
まずは、wikipediaでの紹介文を見てみよう。
彼は語学の天才である。
30以上の言語を流暢に操りって所で「マジッ?!」って感じだが、これは、どうやら本当らしい(笑)。ただ、彼は、単なる言語学者ではない。彼の研究対象を見ると、明らかに宗教的な内容を対象としていることが分かると思う。
彼はどのような研究をしていたかというと、所謂、宗教の経典や哲学書(聖書、コーラン、仏典、老子、論語、ロシア文学、その他哲学書など)を原語で読み解いて、それを東洋の視点から実存的に照射していったのである。(詳細は後ほど)
彼の実績は目を見張るものがある。慶應大学の名誉教授であり、初めてコーランを日本語に翻訳した人だ。そして、心理学者のユングが開いたエラノス会議の日本人としての代表的メンバーであり、東洋思想についての講演を何度も行った。
しかし、その功績の割には、彼は日本ではあまり知られていない。その理由としては、恐らく、「ほとんどの著作が英文であること」と、「内容が難解かつ独創的すぎて、後に研究を引き継ぐ人が少なかった。」ことなどが挙げられれるだろう。
彼の目的は何だったのか? それは、「「共時的構造化」を通して、諸思想を統合する東洋哲学を構築すること。」だった。
原点
井筒の原点は、「禅」と「ギリシャ哲学」にある。
まず、「禅」であるが、これは、父の教育の影響が大きい。彼の父はビジネスマンだったのだが、修道である禅を重んじていた。彼は父から独自の内観法と経典の素読を学んだ。その、独自の内観法を表したのが以下の文章である。
これは、禅宗の修行においてのものではなく、完全に父が独自でやっていた修行法であった。このようにして、自分の内面を見つめ続ける訓練を井筒はしていったのである。
そして、この修道経験が、後の研究において、彼が一つの宗教に縛られることなく他宗教を相手に研究し尽くすことができた所以だ。
しかし、井筒には禁じられていたことがある。それは、「思惟」だった。思惟とは、自分の「頭」で考えることだ。「悟りとは、自分の内に沈潜していった後に、直感を通して感じ取るものだ。」そのように父に厳しく教えられた。
そして、そんな精神的暗夜の中、井筒はギリシア哲学の出会う。哲学とは、議論を通して、対立する意見同士を乗り越えていく営みであって、東洋的な直感によって悟りに至るものとは、違うように思われる。しかし、ギリシアの哲人達を通して、「思惟」の行為自体が、禅が求めてきた脱自的体験と同様のものと知った時、彼が覚えた衝撃は大変なものであった。
その時の衝撃が以下の文章から伺える。
思惟とは単に考えることではない。「思惟とは、人間を超える何者かが、叡智を通して自己を世界に向かって表すことである」と、ギリシアの哲人は言ったのである。ここにおいて、井筒は父から禁じられていた「思惟」から解放され、「読書」を通して真理を探究する道が開かれたのである。
「禅」において、自己の内面を深く見つめる術を学び、「ギリシャ哲学」において、根源的一者(神)を思惟する術を学んだ。これが、井筒俊彦の原点である。
生涯貫いた姿勢
これは、井筒が生涯貫いた探究の姿勢である。
形而上学的な理論は、頭で考えて作り出すものではなく、形而上的な体験を基にして構築していくものである。それは、井筒の生涯を通して貫かれた姿勢だった。
また、井筒はこうも言っている。
内に沈潜して、それが自分の最奥まで辿り着いた時、人は、「悟り」の境地を見る。しかし、それでは道半ばであって、そこで見た光景を地上に降りて伝えなければならない。仏教では、悟りの境地に向かう道を「向上道」と言い、見た光景を現実世界において実践することを「向下道」と言う。プラトンは「洞窟へ入り込み真理を見たら、戻ってそれを皆に伝えよ。」と言ったが、それと同じことだろう。
彼は、この営みのことを、神秘主義ではなく、神秘道と名づけた。道とは、考え方ではなく、生き方そのもののことである。井筒が神秘家と言う背後には、思索家としての顔と、実践家としての顔、両方の意味が含有されているのである。
主著
数々の書籍を書いた井筒だが、彼の主著は主に2作だ。
「神秘哲学」は、彼が最初に書いた本。そして、「意識と本質」は彼が晩年に書いた主著である。特に、「意識と本質」は、数多くの読み手に影響を与え、日本の思想史に大きな影響をもたらした。
「意識と本質」の読者として有名なのは、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎。クリスチャンの小説「沈黙」で有名な遠藤周作。歴史小説「竜馬は行く」で有名な司馬遼太郎。日本人のユング心理学第一人者である河合隼雄。など。彼は、哲学の枠組みというよりも、文学者や宗教者、心理学者、詩人などに幅広く読まれたのだ。哲学としての枠組みとしてではなく、分野の垣根を超えて多様な人を感化させたことは、注目に値する出来事だろう。
井筒俊彦の思想を理解する為のキーワード
彼の思想を説明するには、以下のキーワードが特に重要だ。
「言語相対論」
「共示的構造化」
「コトバ」
順番に見ていこう。
言語相対論
「言語は思考を規定する。」と聞いたことはないだろうか?この言葉は、言語相対論を端的に表す言葉である。
この現象を理解するにおいて、最も理解しやすい事例は、ピダハンだろう。皆さんは、ピダハンという民族を知っているだろうか?
この本の著者ダニエル・L・ヴェレットは、クリスチャンであり、伝道するためにこの村に赴いたのであるが、ピダハンと共に生活するにあたって、これまでの常識がボロボロと崩れていき、遂には信仰を失ってしまう。この本は、これまでの言語学の歴史において、一石を投じた名著である。
ピダハンには、時間の概念が存在しない。また、数や色の概念が無い。そう言った民族は、自分たちが普段当たり前に生きている感覚とは全く別の感覚を持って生活している。こう言った出来事がなぜ起こるのか、分かりやすく解説してあるのが以下の動画だ。(この動画はかなり面白いからおすすめです。)
ピダハン以外に身近な所でも言語相対論は確認できる。
例えば、英語と日本語。
「そこにリンゴがある。」とい文章を英語で書いた時、一通りでは表せない。これを英語で表すと以下のようになる。
詰まる所、物を英語で表す時は、必ず、一つか複数か、確認しなければならないのだ。見えている現象は同じである。しかし、言語によって、その現象の切り取り方が違うのである。(専門用語では、このことを「文節化」と言う。)
自分達は、自分が世界を認識するのと同じように、他者も世界を認識していると思い込んでいる。しかし、実際はそうではない。世界の切り取り方は、その土地の言語によって規定され、その言語によって文化や思考が作り上げられるのである。民族の精神や考え方、性格がそれぞれ違うように見えるのも、これが理由だろうと思われる。
共時的構造化
井筒は、共時的構造化を通して、「諸思想を統合する東洋哲学の構築」を試みた。「共時的」とは、過去の思想家たちが語った内容を、現在に持ってきて、実存的な態度を持って「読む」ことである。平たく言えば、語り手が語った内容を、追体験しながら「読む」ということだ。これは、学問においての実証的な姿勢と矛盾しない。彼は、一方では、思想の歴史的発展を実証的に論じるという業績を積み上げてきた人である。
彼において、「読む」とは、単なる知的理解に留まることではなく、実存的な理解を試みる営みであったのだ。
彼は30以上の言語を用いていたというが、その理由が、ここで理解できるのではないだろうか?言語相対論によれば、人間の思考は言語に規定される。故に、ここで言う「言語以前のリアリティ」を感じ取るためには、語られた言語で直接読むことが必須なのだ。聖書ならヘブライ語、コーランならアラビア語、原始仏教ならサンスクリット語、老荘思想や論語は中国語、など、その言語を通して直接読まなければ感じ取れない「言語以前のリアリティ」が、そこにはあるのである。
コトバ
この、言語以前のリアリティ、それを井筒は「コトバ」と表現した。
「コトバ」とは言わば、意識が深層までたどり着いた先に、根源的一者(神)から発せられる言語になる前のイメージ(直感)である。この「コトバ」は一者そのものではなく、与えられる人物に規定された形で現れる。その「コトバ」の表現方法は、言語によるものだけではない。
また、井筒は、言語学に精通していたが、同時に、「神」を表すにおいて、言語の限界を感じていた。「必ずしも言語は実体を表現できない。」とした上で、以下のように書かれてある。
このことを井筒は、「言語的ニヒリズム」と言った。
※ニヒリズム=虚無主義
つまり、私達は、どのように「神」を言語によって巧みに表現したとしても、それ自体は「神」ではなく、「神」を言語によって表現することは、絶対に不可能なのである。
井筒は、表層意識において「神」を表現することに限界を感じていた。井筒は、深層意識によって直感する「コトバ」についての思索を深め、全く新しい深層意識による哲学を構築しようとしたのである。
創造的誤読
「意識と本質」を始め、井筒の思索はとても独創的であった。彼は、単なる歴史家として以上に、その背後にある「語り手」の「コトバ」を観取しようとした人物だった。このことについて、彼は「主体的、実存的な関わりのない、他人の思想の客観的な研究には初めから全然興味がない。」と語っている。
彼にとって「読み」とは、客観的な理解に留まらない。言わば、「死者との実存的な会話」なのである。故に、故人が語った言語の背後にある「意味」の方をより重視したのである。
井筒俊彦が「意識と本質」を日本語で書いた意味
井筒は、日本より海外での評価が高い人物である。井筒の著作のほとんどは英語で書かれているからだ。それは、主には、アジアに受け継がれてきた東洋思想を西洋に理解してもらうという趣旨があってのことだと思う。
しかし、主著「意識と本質」は日本語で書かれた本である。これは、井筒が自分達日本人に向けて、実存的な営為として「読め」と言っているのではないか。そして、「創造的に「誤読」し、私自身さえも見出していない「意味」を見つけ出せ!」と言っているのではないか。そのように受け取れるのである。
参考動画
以下の動画は、井筒の主著「意識と本質」の解説である。
この動画の概要欄で、「誤読」に関して共感することを書いてあったので引用したい。
終わりに 〜感想〜
ん〜。むずい。😇
そして、長い。
ザ、意・味・不・明!!!
ただ、その一端でも、雰囲気だけでも、伝わっただろうか?
ちょっとだけでも言いたいことが伝わっていたら幸いである。
簡単にまとめようと思っていたのだが、それにしても内容が濃く、簡単に伝えるのにも最低限これだけの文章量が必要だった。
(長くなってごめんなさい💦笑。)
この本を読んで、学んだことは、
・根源的一者は、一人の人間が全て認識できるものではないという事。
・根源的一者は、言語を持って表現できるものではないという事。
これが理解できただけでも幸いである。
(※ここで「神」を「根源的一者」と表現するのは、「神」それ自体も、その土地の文化・人間に合わせて現れた「根源的一者」の一つのペルソナ(顔)だからである。)
また、井筒からは「読む」姿勢も教わった。
・「読む」とは、「死者との実存的な会話」である。
・創造的「誤読」と言う読み方。
確かに、正確さは大事である。これは決して、「誤って解釈してもOK」と推奨している訳ではない。それは、「これまでの「正当な解釈」という枠組みに囚われることなく、死者が表現したかったことを実存的に解釈せよ。」と言う意味である。
はい。
本当はもっと深掘りしたかった。
言語アラヤ織とか、M領域とか、「意識と本質」の肝心の内容は全くと言ってノータッチ笑。まぁ、それは上記の動画に任せよう。
井筒俊彦の思想を理解してるかと言われると、多分理解度は20%くらいじゃないかなぁと思う。今度は、原著「意識と本質」を最後まで読んでみたい。書いてあることを表面上で理解できたとしても、それが腹落ちするかって、またそれには時間がかかるし。一生ものの付き合いとして、深く読み込んでいきたいと思う。