身体性とゆらぎと。 「マトリックス レザレクションズ」考察
前三部作をきっちり予習し「マトリックス レザレクションズ」を観た。
なるほど、これは賛否両論わかれるだろうなと(笑)
ということで、ここから下はネタバレを含む内容ですので、観賞後の方向けです。
ちなみに私は予告編すら見ないで行ったのですが、それで正解だったと思ってます。あと「サッド・キアヌ」が好きな人はみどころいっぱい(笑)
さて、私も途中まで「いったい何を見させられてるんだ」というざわつきや苛立ちを感じたのも事実。
でもその感覚こそが、マトリックスに囚われている人たちの茶番じみた人生に対するもやもやと直結しているようにも感じられた。(そして、もやもやした鬱憤や葛藤がネオから大きなエネルギーを引き出すからこそ、そのような状況を設定されていた。)
最終的には非常に「ソマティック」な心や精神と身体のつながりが、生々しくかつマトリックス的に描かれていて「これは、自分的にはアリ!」のほうに転んでいきました。
ラナ・ウォシャウスキー監督が、「マトリックス」三部作後の作品が一人歩きしていくもどかしさの鬱憤をこれでもか!と晴らしているように思うし、熱狂的なマトリックス信者はその聖なる教典をことごとく冒涜されたように感じることもあるかもしれない。
監督も、ネオも生身の身体性がある人間。
例えば、イエスやブッダもある1人の人間で、その原初的な思考に、あらゆる解釈やしがらみ、思惑がまぶされた形で今に伝わってきている。
ほとんどの人はいつでも、見たいようにしか世界を見ようとしない。
だから、創始者はいつだっておいてけぼりを喰らう。
監督とネオが感じる、生身の人間が「神格化」していくことへの戸惑い。
でも、スミスが言うように「誰でもお前になれる。」
本当は、誰もが自らの中に「神」が内在している。
神性と「肉体+心(精神)」のゆらぎが同居しているのが人間。
そして、その「ゆらぎ」の中にこそ、機械社会だけでは実現し得ない秘密が隠れている。
「自我」を持った機械は、前三部作を通じて「感情」「感性」の必要性に目覚めた。
中でも「愛情」というエッセンスが、マトリックスに均衡をもたらす萌芽がそこに見られたように思う。新しく生まれた小さな「サティ」というプログラムは、人間であるネオのために虹色の朝焼けを創る。
今回の「レザレクション」で、機械は「関係性」「つながり」という要素を知る。
ネオとトリニティの間にある、特別な関係性が生むエネルギー。
それは個人の「ゆらぎ」を超えて、さらに揺らぐこともあれば、おそろしく強固でもある。破壊的にも創造的にも転ぶものである。
いろいろ調整した結果、お互いを安心して感じられる距離感に置くことで、安定が得られていたわけだけど、これはポリヴェーガル理論的な要素を感じさせておもしろかった。
哺乳類以降の生物に備わる「関係性」や「社会交流」に関わる自律神経系のシステムでは、神経系の「共同調整」ができるのが特徴で、誰かの神経系で自分の神経系をなだめることができるのだ。
この要素は、前作までは機械の思惑の外だったけど、今回の「アナリスト」は徹底的にこの最大の弱みでも強みでもあるところをコントロールしにかかってくる。
一旦「死んで」いるネオには、もはや余計なしがらみはまったくなく、純粋にただ「トリニティ」というリソースだけを求めており、トリニティが全ての動機となる。
「トリニティ」が「そこに在る」ことが大事で、自分が単なる「電池」として扱われようと、もはや問題ではなかった。
でも「トリニティ」が、本当の自分を生きようとするならば、それを全力でサポートする、ネオの無私の愛。そして信頼。
「トリニティ=体(ボディ)精神(マインド)霊性(スピリット)」という名前は、今振り返ってもなかなか象徴的だと思う。
おそらく、トリニティの「能力」を拓いたのは他ならぬトリニティ自身。
ネオはそのトリガーでしかない。「マトリックス」の一作目で、「救世主ではない」と言われたネオが「救世主になった」のと同じ。
やはりスミスが言うように「誰でもお前になれる」のだ。
トリニティは「なんて美しいの」と朝焼けの空をみて呟く。
「レボリューションズ」の最後に本物の空を見た時と同じように。
そして、悟る。リアルでも、内的な感覚でも同様に美しいものは美しいと。
思考を奪われて、電池のように生きる人たちを否定しない。その人たちの中にも美しさのリアリティ、生きる意味は存在している。
なんなら、肉体がある現実を生きるほうが圧倒的に過酷だ。
そういう人たちのために、真の共存のために、ネオとトリニティは新しい世界の「創造主」となる。マトリックス(無意識)の世界でも、ちゃんと世界の美しさを意識的に感じられるように。
機械と共存しているいまなら、「ゆらぎ」の要素を取り入れた完全なマトリックスが作れるかもしれない。
それでも、もっと身体性や感性を豊かに「生きる」ことを選び「目覚める」人もいる。「夢のよう」ではなくても、生きる醍醐味がつまった人生。
どちらが良いか悪いか、ではなく一人ひとりの「選択」なのだ。
と、こんなに書き連ねてしまうこと自体が、すでに作品から一人歩きし始めている暴走、言わば「スミス」のカケラようなもので(笑)
私たちは、「ネオ」になり得ると同時に「スミス」にもなり得る。
いまだに「あれ?スミス結局どこいった?」が謎なんだけど。
「俺は誰にでもなれる。」(byスミス)
スミス化しないように気をつけましょう!ということなんじゃないかな(笑)
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