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見直される「トゥール・ポワティエ間の戦い」の評価

 歴史教科書に書かれている内容は、しばしば研究の進展によって修正されていきます。しかし、旧説が更新されないまま教科書に載っていることもしばしばあります。

 中世ヨーロッパの重要な戦いである「トゥール・ポワティエ間の戦い」をめぐる記述もその一つでしょう。
 5世紀末に建国され、西ヨーロッパの広範囲を支配したフランク王国に関係する重要な戦いとして扱われています。

トゥール・ポワティエ間の戦いとは何か

 山川出版社の『詳説世界史B』には、次のように記述されています。

 この頃、アラビア半島から急速に広がって地中海世界に侵入したイスラーム勢力が、フランク王国にも迫りつつあった。ウマイヤ朝時代、アラブ人のイスラーム勢力が北アフリカを西進し、イベリア半島にわたって西ゴート王国を滅ぼし(711年)、さらにピレネー山脈をこえてガリアに侵攻しようとしたのである。メロヴィング朝の宮宰カール=マルテルは、732年トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退し、西方キリスト教世界を外部勢力からまもった。その子ピピン(小ピピン)は、751年メロヴィング朝を廃して王位につき、カロリング朝を開いた。

『詳説世界史B 改訂版』(山川出版社)

 世界史教科書でのトゥール・ポワティエ間の戦いの意義は、次のようにまとめられます。

イスラーム勢力の侵攻から、キリスト教世界を守った。
カール=マルテルの権威が高まり、その子ピピンが王位につく要因になった。

 大学受験であれば上記の理解だけで十分です。しかし、「トゥール・ポワティエ間の戦い」の実像については、既に異論が提示されています。

戦いが神話化された背景


 以下は、津田拓郎『トゥール・ポワティエ間の戦いの「神話化」と8世紀フランク王国における対外認識」(『西洋史学』261  2016年)に基づきます。

 伝統的なヨーロッパ中心の歴史観では、トゥール・ポワティエ間の戦いは「イスラーム勢力の侵攻からキリスト教世界を守った決定的な勝利」として顕彰されてきました。

 カール=マルテルの孫カール大帝(シャルルマーニュ)は優れた君主で、その死後は理想的君主として神話化が進みました。その先祖たるマルテルの事績についても、やはり理想化・神話化が進んでいるとみられます。

戦いの実態はどうだったか

 同時代に近い史料を見る限り、トゥール・ポワティエ間の戦いの詳細は不明な点が多いです。
 しかし、8世紀前半にはイスラーム勢力のガリア(現在のフランス)への侵入が相次いでいました。732年以後の動向は以下のようになります。

732年 トゥール・ポワティエ間の戦い
735年 イスラームの総督がピレネー山脈を越えて遠征
737年 ナルボンヌ近郊での戦いでイスラーム側の総督が戦死
740年代~ アンダルスが内乱状態になり、イスラーム勢力のピレネー以北での活動が下火になる

 ここから、以下のことが言えます。

トゥール・ポワティエ間の戦い以後も、イスラーム勢力はガリア侵入を試みていた。
フランク側はいくつか重要な勝利を収めているが、トゥール・ポワティエ間の戦いが唯一決定的な勝利だったわけではない。

 また、イスラーム勢力の伸長が止まった理由として、イスラームの内紛を強調する見方もあります。これについては、上記の山川教科書でも触れられています。

「キリスト教対イスラーム教」?

 また、この時フランク王国もイスラーム勢力と同様に一枚岩ではなかったことも分かっています。カール=マルテルと対立した貴族には、宗教を越えてイスラーム教徒と同盟を結んだ者さえいました。

 この時代の戦いを「キリスト教対イスラーム教」と単純化してとらえることも難しいのです。


 このように、教科書で習ったことが正確な史実とは限らないという事例があります。学び続けることを忘れず、情報を更新していきたいものです。

 



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