LOVEファッション 私を着がえる時
LOVEファッション 私を着がえる時
1.概要
京都国立近代美術館で9/13〜11/24まで開催している展示
「LOVE ファッション 私を着がえるとき」
公共財団法人京都服飾文化研究財団が主催する展覧会だ。
ファッションをテーマにした展覧会は2022ー2023に開かれた「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展、2023年国立新美術館「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」展といったブランドをテーマにした回顧展に近い形態の展示が多いが、今回京都国立近代美術館で開かれた今展は着る人のさまざまな情熱や願望を受け止める存在としてのファッションというテーマで、ファッションと私の間にある、社会、感情を服を着ることの意味を考えるという展覧会になっている。
わたしと服(ファッション)の間にあるものを4つのチャプターに分けて展示されている。
全てのチャプターにおいて、「〇〇になりたい」と言ったWant系で統一されている点が興味深かった。
ただ、私は思う。
「〇〇になりたい」と願うことができることはある種特権的な事象だと。
特に私にとってこの展覧会のようなファッションの展覧会を心穏やかに見れるようになったのはここ最近なのである。
2.わたしと「ファッション」の間
①「ありのままでいたい」と思うまで
シャーロット・パーキンズ・ギルマンの「女性のための衣装哲学」によると人間の衣服の動機は5つに分かれるという.
その中で象徴は社会的権力として隅々まで行き渡っている。別に王侯貴族といった身分制度を占めすための明文化された露骨な権力制度ではなく社会がある場所全てに行き渡っており、その権力はファッションに現れる。
その権力は、小学生の小さな教室にも存在した。
たまたま家にあったピンク色の少し派手なウィンドブレーカーを着て言ったら、一つ上の学年に「変な色」だと笑われた。それは愉快で笑ったのではなく純粋な嘲笑だった。
(1)そんな変な服を着るなんてやっぱりあいつ変、きもい
(2)あいつに似合わない(ふさわしくない)「ピンク」色の服を着ていることがきもい
当時の私は
(1)「きもい」と言われることのないような服を選択するという行動と
ピンク色のような派手な色を着るなんて私には相応しくないという(2)の呪いを受け取った。
この呪いは結局大学生まで続き、地元を出てようやく黒と白以外の服を選ぶことができるようになった。
私にとってはおしゃれをするということは教室の中で「陽キャ」と呼ばれる一部の中心カーストにいる人々にしか許されていない権利だった。「きれいになりたい」という欲望、ありのままでいたいという欲望を持つことは、そんな権力を持った人のみが行使できることだったのだ。
こういった学校内のカースト内における抑圧が、「〇〇したい」という欲望を持っていながらもしかし「許されていない」と認識し、欲望自体を抑圧することはある。
②「きれいになりたい」という欲望
三宅香帆の著書「娘が母を殺すには」で「母殺し」という概念が出てくる。
母殺しとは、母の規範から外れる行動をすること、幼少期から与えられている母の規範を手放すことである。
この概念が、今回の展覧会と何が関係があるのかと疑問に思われるかもしれないが母は化粧や、きれいな服を買いたいと思うことに対してかなり冷淡な態度を取っておりその規範が内面化され長らくファッションが好きである、着飾ることが好きであるという欲望に対して蓋をしてきたからだ。
こう書くと母と私の間に確執があるかと思われるかと思うがそうではない。
今でも良き相談者であり、物理的、経済的には現状独立を果たしているが心地の良い母のコンフォートゾーンから、精神的には独立を果たしていない自分に対して「焦り」を感じてこの本を手に取ったぐらいだからだ。
ただ、母が人間である以上母には母の規範がある。その1つが「着飾ることへの」厳しい視線だった。母は長い髪、染めた髪、化粧(若い時に行う)をあまり良いと思っていなかった節がある(すくなくとも私はそう受け取った)
私は比較的コンサバティブな女性らしい服装が好きだったが、私の母はいわゆるクロワッサンや天然生活といった自然的なラフな服装が好きだった。
なので服が好きだったり、モデルさんが好きだったり、ブランドものに惹かれてしまう欲望を「悪」と捉えて抑制していた時がある。
(この「きれいになりたい」という欲望自体は、至極社会的で女性のきれいは母の規範とはまた別の社会的規範が内包されておりまた、この規範に受動的に受け取りたくないという意思があるため複雑に絡み合っているのも事実である。)
三宅香帆は本書で「母殺し」の方法を以下のように提言している。
自分のパターンに置き換えてみると、
①大学の時に一人暮らしを始め、母があまり快く思っていない「髪を長くする」を意識的に敢行する
②「百貨店巡りをする」等、ファッションに関することを欲望を持って積極的に接するようになる。
Ex)この時見つけたAgnes.bやCOLEHAANを好きになり、また雑誌FUDGEを集め出す。
→この時、すごく楽しく今でも良い思い出であり、自分の知識になっている。
③今でもこの行為は続いており、少し先の古着屋に足を伸ばしたり、女性誌を読んで素敵な服を見てときめいたり、心斎橋のブランド通り(笑)に足を伸ばして鑑賞した李る。
また、ファッション関連の展覧会に足を伸ばす。
→今回の「LOVEファッション 私を着がえる時」のような展覧会に足を運び「楽しい」と思い帰ってくる。
④母の規範を手放す
②③を繰り返し、自分で古着屋さんに通い服を選んだり購入したりする。
3.まとめ
「LOVEファッション 私を着がえる時」が投げかけるメッセージに対して展覧会の門戸まで立つことができるために私の中にあった幼少期のトラウマの傷からの回復、そして母の規範からの逸脱=「母殺し」という過程を経てこの展覧会までたどり着いた。
着ることは「衣食住」の「衣」の一部であり、人間の生活に密接に関わっている。一方「こんなことをして周りにどう思われるのだろうか」という他者の視線を受けやすいより社会的な産物でもある。
ただ、この展覧会のテーマで〇〇になりたいと思うことは一種の特権的であり、ここに辿り着くまで世の中の呪いを解く必要がある。ファッションには往々にして社会の抑圧を受けやすく、呪いにもなりやすいものという、その視点があって欲しかった。展示のベースになっている「〇〇になりたい」という欲望を持てるという基礎すら抑圧されずに持てずにいる人は、少なくないと思う。
そんな要望も持ちつつ展覧会を後にした。