「異端者の悲しみ」 谷崎潤一郎 感想文
夢の中で「白い鳥が繻子のような光る翼を広げる」その姿が映り、羽毛の浄(きよ)く軟かいのを感じ、シャボン玉のような泡の中に映し出す「美姫(びき)の痴態」を見る。章三郎は、眠りと目覚めとの間を彷徨っている。そしてその夢の中のみに貴さを見出している。そして目覚めた己の住んでいる世は穢いと、幻の正体と思われる五月の空を仰ぎ見た。
引用はじめ
「駄菓子を貪るいたずらっ子のように垢でよごれて、天井の低い、生き苦しい室内に一年中鬱積している湿気っぽい悪臭は、其処に起居する人間の骨の髄まで腐らせそうに蒸し暑く匂っている。若しこの部屋にたったひとつしかないあの窓から、僅かにもせよ蒼穹の一部が見えなかったなら、章三郎はとうに気が狂って死にはしなかったかと危ぶまれる」p.130.131 新潮文庫
引用おわり
全てが思うように行かない、優れた資質を持っていると自負しエリート意識の強い章三郎は、汚くて貧しい現実から無謀に逃避していた。
谷崎先生の自伝的小説であるとしたら、この異常な内的生活をよくここまで正直に描いたものだと驚くばかりであった。
両親の没落、その後の父の態度や母のしょうもなさも、その一部の原因は自分にあると自覚していても不埒な生活を改められない正三郎である。
そんな不埒な生活を毎日罵倒する父の姿が貧しさと相俟って、更に病床ある一階と逃げ込む二階の情景がますます悲しく惨めであった。
何より章三郎の、自分だけが優れた素質をもっていて能力のある人間であるとの自覚から、目の前にある惨めさとのギャップが想像され、ことさら精神的な支障を来していく姿には神経質な臆病さを感じた。そこから逃避し夢の中に快楽を求めるようになっていく卑怯な姿は故意であると思った。
26,7歳であるにも関わらず、子供の資質とその心、大人の肉体とその心とを行き来しているような内面を持っているように見える。そしてかけ離れた芸術を生み出そうという執着と。
「もともと十五、六の小娘にしては恐ろしい程にませた怜悧な子」p.142
そんな妹お富が肺病の床の中で鋭く兄の動向を見て感じ取っている。一番恐れていたのが章三郎であったと思われた。
「この病人はなぜか叱った者が却って良心の呵責に悩まされる」p.143そんなお富に見抜かれているようで、章三郎は視線を避けている、己の悪徳を知っているかのような妹が尚恐ろしい。そんな妹を疎ましくも無意識に愛していたのではないかと感じた。
「どうぞそんなに睨まないで、もう好い加減に免してくれ。己はお前の兄じゃないか」p.218
お富の臨終の時の章三郎の言葉に、章三郎のもろさとわずかな優しさが滲み出ていた。
本を売ったり、友人から借りたお金を返さずに遊廓に使ったりして家を飛び出しても、結局実家に戻ったり、軽蔑されているとわかっていても、また友と話したくなる。異常な行動や態度の中にも幼子のような淋しさがある。「幇間」のように人を楽しませる心もある。
引用はじめ
「善に対して真剣になれず、美しき悪行に対してのみ真剣になれるような奇態な性癖」p.207
「神がうちおろす懲らしめの笞を甘んじて耐え忍ぶ事は出来なかった。
ー中略ー たとえ彼の境遇は哀れであっても、彼の生まれた世の中には、悪魔が教える歓楽の数々が、満ち溢れているように見えた。その歓楽の毒酒の海に浸らせたかった。上戸が杯中の一滴をも吝(お)しむように、美酒のしたたりを少しでも多く吝しみ味わいつつ生きたかった」p.208
引用終わり
谷崎作品に流れる奇怪さと怪しい美しさ、その芸術はこの奇異な内面から溢れ出ているのだと大いに納得した。
反面、「お父つぁん、おっ母さん、どうぞ私を勘忍してください」と手を合わせる己の悪事に対しての背徳感を自覚しているのもこの作家であったのだ。どうにも自分が思うようにならない焦りと心の落ち着きのなさがこの20代を揺さぶっていた。
晩年作家はどのように変化して行ったのだろうか。
赤裸々な異常さに、少し躊躇(ためら)いながら読み終えたが、白い鳥の羽毛を夢見て、蒼穹を求めたという悲しみの深淵が確かにあったのだと感じた。