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『虐げられた人びと」 ドストエフスキー  感想文

今、この長編を読み終えて放心状態だった。テレビの画面からMVPに選ばれた大谷選手ご夫妻が満面の笑みで映し出された。大変なご苦労の上の栄誉であると思われるが、そこには全ての幸福が集約されているように目に飛び込んできた。

この小説の準主役とも思われる孤児ネリーが、母の死を前に祖父を呼びに全力で走るシーン。杖をつきながらおぼつかない祖父と共に懸命に急ぐ。馬車に乗りたくても二人ともお金がないというそのあまりに貧しく切ないシーンに心抉られた。
読み終えてすぐ見た目の前の幸福な映像と小説のそのシーンとのギャップに心が複雑に囚われてしまい何だかぼんやりしてしてしまった。

主人公の小説家(語り手)イワンが奔走すること、絶え間なく経過して行く過程で見えてきたものがある。その中の苦しみ抜いた人達が、一人の極悪な公爵によって人生を狂わされていく全貌がラストで明らかになっていく。小説家としてのイワンの視点とプライペートで感情的なイワンの心情が入り混じる。
その面白さが高まり後半は一気に読んでしまった。

不幸、この幼気(いたいけ)な少女ネリーをここまで追い詰めたものはなんだろう。

ネリーの母が、もし自分の恋愛にのめり込まなければ、もしナターシャのように直感で公爵の裏の悪事を感じ取れる人間であったなら、少女はこのような不幸な道のりを歩むことがなかっただろうと想像した。

若い時の無謀に突き進む正当性は、後々の歪みを生み出してしまうことをつくづく感じた。
ネリーの母の境遇で子を産むことを冷静に思いとどまれない無力さが、一人の子供の生涯を決めてしまう恐ろしさを思う。

そして娘を赦せない二人の父、娘の恋愛で全てを失うネリーの祖父スミス、公爵の理不尽な訴訟で苦しむナターシャの父イメーネフは、公爵の息子を愛しているナターシャも赦せない。
時として別々の二人の娘は、恋愛に突き進んだのだ。

小説の中に「娘を呪う」という言葉が二人の口から語られることに驚きを感じた。呪い、怒り、憎しみ、怨み、それらを時が経過しないうちに少しでも早く捨て去ることが出来たら、このおぞましい貧しさや苦しみを生み出すこともなかったのではないかと思う。
「赦す」ことが出来なかったスミスは、娘の死に立ち会えない不幸を生み出す。

冒頭のスミス老人の目は、「そもそも何ものをも見ていないのだった」(新潮文庫p.7)、というその彼の死の間際の状態は、娘の死後の絶望の姿であったことを後に理解した。その壮絶な老人の死はとても印象的で衝撃的だった。

「娘を失った絶望」、二人の父の愛情表現のもどかしさ、家を飛び出したナターシャの別宅の扉の前に何度も通い娘の声をそっと聞いていた父の姿。
スミス老人が娘への愛情を素直に出せずその怒りをネリーにぶつけるじれったさと心の変化がとても繊細に伝わってきて胸を打った。

そして全ての悪の根源ワルコフスキー公爵は表面的には善人を装い巧みに真しやかな嘘をつく人間の恐ろしさを描いていた。イワンとの酒場のシーンで彼の異端ぶりを暴露するシーンは凄まじくグロテスクで読んでいてその悪漢ぶりに身体が重くなった。
何でも手に入れると、それ以上に別な異常な好奇心と欲求が爆発するというパターン。
ヘアレスドッグを飼う貴族を思い浮かべた。

そんな人間から、嘘のつけない息子が生まれた。

「人間としての根源的な義務を忘れさせるほどの愛」(p.68)をナターシャの内部に生み出してしまったのが、公爵の息子アレクセイ・ペトローヴィチ(アリヨーシャ)であり、優雅な容貌を持ち、鬱陶しいくらい正直でその無邪気さは目を疑うくらい純粋で無邪気であるから始末に負えない。

濁った魂の持ち主が澄んだ魂を生んでしまう皮肉。そしてその息子は父の偽りの美しさしか見ていないという不幸のまま生きていく悲しさがあった。

そして、公爵の愚かさを見抜き、アリョーシャを子供のように愛している二人の早熟な女性。
悲しみのうちにアリョーシャを失うナターシャと彼と結婚する伯爵夫人の継娘カーチャの人としてあるべき姿が美しすぎて、この三角関係に現実感がないと感じた。これは理想なのだと。

そして誰にでも必要とされ、どこへでも行く主人公イワンの善良で的確な人間性と刻々と人の為に動く姿が忙しく伝わって来るのだが、この周りの人物のイワンへの依存度が高すぎて、それに総じて答える彼の姿にやや真実味が薄れていくのを感じた。こんなに身を粉にするのが可能なのかと。イワンの献身的な姿にやや同情してしまうのだ。

また真相を淡々と暴いていくイワンの中学時代の同級生であり探偵のマスロボーエフが良い味を出していて、この小説をテンポよく展開していた。長編ながらラストまでスリルがあり夢中になれた面白い作品だった。

花に囲まれていることを知らずに亡くなったネリーにラストは泣いた。

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