【キューバ】ラ・ハバナの忘れられない体験
僕はチェ・ゲバラの人生に憧れていた時があった。自国でない民のために、革命という名の下、アルゼンチンからキューバへ行き命を賭けた人生に。
そして、その革命の勇士ゲバラを引きつけたというキューバへ1998年に僕は旅をした。ハバナへは、メキシコ・カンクンから飛んだ。
90年代のキューバはまだ自由旅行は許されていなく、全行程とホテルが決まっているツアーに参加しなければ入国出来なかった。
しかも、強制両替のおまけ付きだった。
しかし、僕は入国した1泊だけおとなしくした後、全てをキャンセルし街にでた。すると一般のキューバ人から沢山声をかけられ、その内の旧市街の一軒の家に泊まる事にした。全くの普通のキューバ人の家だった。
今はやりの"民泊“ですかね?当時は、モグリで立派な違法行為だったと思われる。みんな貧しいから生活費稼ぎのため、生きていくためだったに違いない。
新しい宿が決まると、早速、ハバナの街角に繰り出し歩き回った。すると、そこら中から痛いほどの視線を浴びまくり、
『チノ!チノ!(中国人)』とうるさく声をかけられた。
通りすがりに唾を吐きかけられる体験もした。屈辱…
20数年日本人として生きてきて、赤いパスポートを掲げて何食わぬ顔をしてこれまで長旅をしてきた。ある意味、日本人である、というだけで守られていた気がする。中身の人格や行いなどは全く関係なくMade in Japanというだけで。でも、そんな幻想はここキューバで全てが崩れ去ってしまった。
キューバへ来て初めての体験。人種差別というやつ。
これはキューバに限らず中南米諸国を旅しているとよく遭遇する事でもあった。実は、完全に勘違いからくる差別意識であったり、そうではなくて、単純にアジア人全体が中国としか見えていなくて珍しがって、ただ単に悪気はなく声を掛けてくるものであったり様々だった。
思えば僕が小さい頃、ど田舎に生息していた時、たまーに現れるモルモン教を布教する為に来た金髪の格好のいい白人お兄さんを見かけた時、遠巻きに''ハロー''と手を振って喜んでいたのと同じ現象なのかも知れない。いや、ちょっと違う気もする…。
僕は、逆にキューバ人をつかまえて、その場で道端に座り込み、中国人と日本人の違いを延々と丁寧に説明をする戦法に変えた。それが面白かった。地図を見せ、アジアの国々の違いについて説明したり、あれやこれやと語り明かした。
ネットもスマホも無い時代、ましてや長年経済制裁を受けて諸外国からの接点も遮断され情報など何もない状態だ。
そこに現れた謎のアジア人?アジア=中国(チノ)としか見てない人たちだ。
こう言うのにゆっくり付き合ってくれるキューバ人たちの懐の深さに感銘を受けた。
日本人としての何かの使命感に駆られていたのかもしれない。アジアは全部チノではないんだぞ、とキューバのアミーゴたちに何とかインプットしたかった。
キューバ人たちは興味深々で話しに付き合ってくれた。最後にお互い笑顔で握手して別れる。これが面白かった。
そして人懐こいキューバ人が大好きになった。みんな同じだと感じた。逆に日本人にとってはあまり知られていなかった国キューバ。僕のイメージも偏っていた。街で人々と話したり、宿の優しい人々と触れ合ってみて、全てが覆った。またゆっくり訪れたい国がカリブ海にできた。
街の名前は、『ラ・ハバナ』『La Habana』
Laはスペイン語で女性名詞に付ける定冠詞だ。
ハバナの街並みは女性的な美しさがあり魅力的で官能的で飽きない。
くしくも、この国はゲバラたちが行った1958年のキューバ革命以降、アメリカの経済制裁によって、物資の不足に苦しみ諸外国との交流も限られていた。
そのためレトロな街並みが残りアメリカのクラシックカーがカリブの風を浴びながら走り抜けている。
旅の醍醐味は、知らなかった事を発見すること。それは自分の足で訪れないと見つけられない。ネットやSNSで情報だけはいともたやすく入手できるようになったが、そこへ訪れ立ってみないと発見できない事はまだまだ五万とある。風一つとってもそうだ。
僕にとっての初めてのキューバの旅は、忘れられない旅になった。もう一度ハバナを旅したい。今のキューバ人たちと話しをしたい。今でもそう思っている。