📕死んだら何を書いてもいいわ
「朔美へ(葉子の希い)葬式なし、戒名不要、花、香典不要」母から手渡された一枚のメモには、こんな文字が記されていた。萩原朔太郎の長女である母の生と死を「親不孝な息子」が綴る静かで切ない鎮魂のうた。
コンサート開催というアウトプットの次は
インプットの時。
本が無性読みたくなりました。
そんな時、
この背表紙が私を呼びました。
詩人 萩原朔太郎の長女である葉子と暮らした日々を
一人息子の萩原朔美が綴った随筆です。
母である前に作家として生き、
還暦を過ぎて、
ダンスを始め、62歳にして
ダンススタジオ付きの家を建てた
エネルギッシュな葉子さんに
すっかり魅せられてしまいました。
作家という職業につく方々は、
所謂、「普通」の人生を送れないようです。
普通の感覚でないから
小説を書くことができるのでしょうか。
葉子さんも過酷な少女時代を送りました。
祖父 萩原朔太郎
まとめると長くなるので、
すみません。wikiを引用します。
祖母 上田稲子
さて、葉子さんのお母様である
上田稲子さん、
この女性がまた個性的。
旧加賀藩士の娘として出生。
19歳で朔太郎と結婚、長女の葉子を出産しますが、
10年で離婚し、北海道で資産家の息子と再婚。
老後は娘の葉子に面倒を見てもらってました。
1981年、逝去。
呑んだくれて深夜に帰宅する
詩人朔太郎との夫婦生活は
ほとんど破綻していたのか、
当時、流行し始めたダンスに熱中し、
二人の娘を家に残し、
毎日のようにダンスホールに出かけて行き、
仲良しの宇野千代さんの影響を受け、
流行の先端の断髪して、
夫と娘を捨て、
家を出て行きました。
前橋にある朔太郎の実家は
厳格な医者の名家でしたから、
そんな不埒な嫁が産んだ
孫娘など居候以下と扱われ、
冷たい環境の中、
葉子さんと妹の明子さんは
不遇な幼少時代を過ごしました。
葉子さんは後年、
自分を捨てた母親を探し出し、
一緒に住みました。
奔放な作家の娘たちは、
なぜか離婚率が高いようです。
葉子さんは朔美さんを連れて離婚し、
その上、中学生の一人息子の朔美さんを
母親の稲子さん、妹の明子さんに預け、
自分は一人暮らしをして文筆業をしたツワモノです。
母親を圧倒的な存在として捉える息子たちは
おそらく、みんなマザコンで、
年をとって 力が落ちてきた母親に怒りを覚えて、
些細なことで強い口調になってしまうらしいと
読み進めるうちに
我が身と照らし合わせてしまいます。
萩原朔美
「後悔」
朔美さんはこの時すでに
60歳を超えていて、
立派な紳士として
社会でも活躍されていました。
それでも母親には甘えていたのです。
母の希い
私自身は母親を思春期に亡くし、
母の死後、すぐに再婚した父を疎み、
双極性障害の弟の面倒を
みなければいけなかったので、
「甘える」ということを
知らずに生きてしまいました。
家族の温かさを望んだ結婚でしたが、
嫁ぎ先では商家の嫁として、
家業と子育てに孤軍奮闘してきました。
息子たちにはとにかく
自立、自律してほしいと
心して育ててきました。
65歳をすぎ、
やっと自分らしい生き方ができるようになり、
今後20年の自分の生き方を考え始めました。
思えば、還暦を迎えたころ
この本に出会いました。
いつ、手に入れたのか記憶にない一冊の本。
この本が今の私に進むべき道を示してくれました。
大倉山記念館コンサート会場に
息子二人の姿は
ありませんでした。
母の晴れ舞台の朝
車で会場に送ってくれたやさしさ。
終わった後に
コンサート成功おめでとうのカードを
娘に託して渡してくれる温かさ。
息子たちはきっと私を
理解してくれているのでしょう。
母はこの日
人生で一番幸せを感じているのだと。
今、どんなに元気でも、
ある日、ある時、
気力がなくなり、
記憶力が低下し、
筋力も落ち、
自分が年老いたと
感じる日が来るでしょう。
そして
息子に大きな声で叱られることもあるでしょう。
そんな日が来たら、
私は子どもになって、
子どもたちに甘えてみようと、
ふと、大倉山公園に咲く
梅を見て思いました。