“世の中にたえて桜のなかりせば”~惜しまれる対象から潔さの象徴へ~【歴史にみる年中行事の過ごし方】
もともと桜は梅とともに春を代表する自然美の風物で、ただただ純粋に賞美する対象だった。
やがて咲き散る花の姿に、自らを重ね合わせて一喜一憂するようになったものの、散りゆく桜に「潔さ」を見るようになったのは江戸時代中期以降のことで、それ以前はどちらかといえば「惜しむ」といった感情の方が強かった。
令和6年(2024)の桜が散る前に、桜と花見の歴史を振り返りたい。
『万葉集』の桜は「ヤマザクラ」か?
桜の起源は、ネパールの丘陵地帯で生まれた秋冬咲きの「ヒマラヤザクラ」ではないか、といわれている。
日本の文献に初めて桜がみえるのは『日本書紀』の「履中紀」で、履中天皇3年(402)11月、磐余市磯池で舟遊びをしていた帝の盃に桜の花びらが落ちたため、探させたところ、掖上室山に季節外れの桜を見つけたエピソードが記されている。
このときの桜が秋冬咲きの桜かどうかはともかく、古代日本の人々の目を楽しませたのは野生に自生する「ヤマザクラ」の類だった。
現存最古の和歌集『万葉集』には、桜を詠んだ歌が約40首収められているが、そのほとんどが「ヤマザクラ」と推測されている。
奈良時代の官吏・河辺東人が春の高円山を詠んだ歌もその1つ。
とはいえ、当時、春の花といえば中国からもたらされた梅で、『万葉集』に梅の歌は桜の3倍、約120首ほど収められていた。
「観桜の宴」が宮中行事に
春の花として桜が持て囃されるようになったのは平安時代になってから。
平安初期に編纂された『日本後紀』には、嵯峨天皇(第52代)が弘仁3年(812)2月12日に神泉苑で「花宴の節」を催したとあり、これが文献に残る「観桜(桜の花見)」の初出と考えられている。
やがて「観桜の宴」は宮中行事として取り入れられ、花見といえば桜を指すようになり、承和年間(834~848)には内裏の正殿である紫宸殿の梅が枯死すると、桜に植え替えられた(雛人形の「左近の桜・右近の橘」の由来)。
さらに醍醐天皇(第60代)の勅命により編纂された『古今和歌集』では、桜の歌が約50首、梅の歌が約30首と桜が梅を逆転する。
六歌仙の一・在原業平は「渚の院で桜を見て詠んだ歌」という詞書とともに、人々の心を騒ぎ立たせる桜の魅力を伝えていた。
また、三十六歌仙の一・素性法師は「花盛りに京を見やりてよめる」の詞書とともに、街路樹の柳の緑と家々の庭に植樹された桜が混ざり合った光景を、まるで錦織のようだと称賛している。
そして平安中期、藤原氏が天皇の外戚となり、摂政・関白を独占して政治の実権を握ると、文化の中心も貴族に移った。
煌びやかな王朝文化の担い手にとって、桜は絶好のモチーフとなる。やがて清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など王朝絵巻に代表されるような華麗な文学が花開いた。
「諸行無常」と桜
平安後期から末期にかけて、全国各地で武士勢力が台頭する。
仁安2年(1167)に平家の棟梁・平清盛が武士として初めて太政大臣に任じられ、平家一門は栄華の頂点を極めた。
もっとも頂を極めたあとは、下りるしかない。
平家の隆盛は長く続かず、代わって源頼朝を棟梁とする源氏が勢力を拡大。平家を滅ぼした頼朝は、建久3年(1192)に征夷大将軍となり、鎌倉に初の武家政権を確立する。
動乱の時代は、人々に世の“無常”を感じさせた。
平安末期から鎌倉時代にかけて、平家一門の興亡を描いた『平家物語』のほか、『徒然草』『方丈記』など“無常観”を表した名作が数多く生まれる。
“無常観”とは「一切のものは常に生滅流転して、永遠不変のものはない」という仏教からきた思想で、当時、知識人のあいだで広まり、彼らは “無常観”と咲き散る桜の姿をシンクロさせた。
桜を愛した平安後期の歌人・西行は、自然と人生を見つめながら“無常”の世をどう生きるか、問いかけつづけている。
花見の大規模化
南北朝の動乱から室町時代、そして戦国時代にかけて花見はさらに変化する。
宮中行事や貴族の嗜みだった花見が武士のあいだにも広がり、この頃から花見は大がかりなものになっていく。
南北朝時代の軍記物語『太平記』は、婆沙羅大名・佐々木高氏(導誉)が貞治5年(正平21年=1366年)に大原野・勝持寺で前代未聞の豪華な花見の宴を催したと伝えている。
ほかに記録に残る大規模な花見としては、室町幕府8代将軍・足利義政が催した応仁2年(1468)の花頂山大原野の花見、そして豊臣秀吉が催した文禄3年(1594)の吉野の花見、慶長3年(1598)の醍醐の花見などがよく知られる。
また、慶長8年に征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康は、大御所として駿府に居城を移した頃に、大名・旗本等を引き連れて盛大な花見を挙行し、世を賑わせたという(現在の「静岡まつり」の由来)。
「花は桜木、人は武士」
江戸・上野の山の桜は、江戸幕府3代将軍・徳川家光が徳川家の菩提寺である寛永寺の境内に、吉野を模して桜を植樹させたのが始まり。やがて上野の山は江戸随一の桜の名所となり、多くの人々が花見に訪れた。
ただし、江戸の庶民が広く花見を楽しむようになったのは、8代将軍・徳川吉宗の治世、享保年間(1716~1736)以降といわれている。
江戸後期、吉宗が飛鳥山や隅田堤に植えた桜が老木となり、桜の名所として人々が殺到した。
飛鳥山の芝山には数千株の桜が植えられていたといい、木々の間に設けられた仮設の茶屋は行楽客で溢れ、その山頂から望む荒川の流れは白布を引くような佳景であったという。
そしてこの間に、赤穂浪士の仇討ち事件を題材とした歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』のなかで「花は桜木、人は武士」という台詞とともに「桜は散り際が美しいもの、武士もまた死に際が潔いのが美しい」とする“死生観”が生まれた。
惜しまれる対象から潔さの象徴へ
幕末から明治時代にかけて、江戸の染井村の植木職人たちによって「ソメイヨシノ」が生みだされる。
「ソメイヨシノ」は「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の長所を併せ持った品種で、花咲く期間が短い分、散りゆく花弁が美しい、散り際の印象が強い桜だった。
幕末の志士や明治時代の軍人たちに、美しい散り際が「潔い」と解釈され、「ソメイヨシノ」は全国各地に植樹される。
近年、3月初めに気象庁から発表される桜の開花予想日は、気象台や測候所が定めた「ソメイヨシノ」の標本木の開花を予想するもので、同じ日に開花予想された地域を結んだ線を桜前線という。
日本列島は南北に長いとはいえ、桜の開花は多くの地域で年度末や年度初めにあたるため、送別会や歓迎会を兼ねた花見が全国各地で行われていた。
元来、桜は梅とともに春を代表する自然美の風物で、ただただ純粋に賞美する対象だった。
やがて咲き散る花の姿に、自らを重ね合わせて一喜一憂するようになったものの、散りゆく桜に「潔さ」を見るようになったのは「花は桜木、人は武士」という言葉が生まれた江戸中期以降のこと。
それ以前はどちらかといえば「惜しむ」、あるいは「慈しむ」といった感情の方が強かった。
令和6年(2024)の東京の桜は3月29日に開花した。
「ソメイヨシノ」は開花から約1週間~10日ほどで満開を迎えるという。
今年は惜しみながら、散りゆく桜を見送りたい。(了)
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国立国会図書館デジタルコレクション
【主な参考文献】
・有岡利幸著『花と樹木と日本人』(八坂書房)
・吉海直人著『古典歳時記』(KADOKAWA)
・湯浅浩史著『植物でしたしむ、日本の年中行事』(朝日新聞出版)
・福田アジオ・山崎祐子・常光徹・福原敏男・菊池健策著『知っておきたい日本の年中行事事典』(吉川弘文館)
・河合敦監修『図解・江戸の四季と暮らし』(学習研究社)
・現代用語の基礎知識編集部編『桜 春を告げる日本の象徴』(自由国民社)