といふことで、こちらも史料読みが長くなってる
考察の一つですが。まあその1を出してみるかと。
ま、タイトルはちょっとだけ大島弓子「バナナ
ブレッドのプディング」をリスペクトしつつ、
ではあるけど。
ってなわけで、今回もテキストとしてはこれです。
で、当時の路線図はp20に詳しく、
札北馬鉄(札幌軌道)の駅名と開通・廃線年はp34にある。
(但し「日本鉄道旅行地図帳 1号」で「中島」はp34の
方にしか記載されておらず、一番通と改称、とあるだけで
いずれもp20の方に当時の駅の位置が描かれていない形では
あると)
ウィキペの一部記述の元ソースは今回のほぼ引用元である
【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】
ですが、404になっていて、一応下記の引用分で代用
出来るかと。
末期はガソリンカー(内燃機関)で、最後はバス転換された
後に北海道中央バスの路線になっている、とは説明されてる
わけだけど。
(バス転換の直因は札沼線の開業が挙げられていた、と)
「ガトキン」と「札幌テルメ」に関してはその2以降で
もう少し丁寧に説明しようかと。
当時のスレの主な流れとしては、まず札幌軌道の始発点の位置と
「札北馬鉄(札幌軌道)→札幌観江バス」の由緒と顛末、
でしたが、こちらはわりかし早期に纏まったのだっけ。
スレッド的にはまずどのあたりを通って、どの時期まで
使用されていたかの考察に終始してたのだっけ。
「札幌観江バス」は結局昭和17(1942)年に国策で
(北海道)中央バスに合併されていると。
(モエレ沼公園のところが見事に「モエレトー」として三日月湖
の形をしているのも地理好きとしてはなかなかのポイント)
で、マイナー地名スレの絶妙さは「地名」と「地名にまつわるモノ」
をある程度下調べしたら、フィールドワークに入って現地取材を
試みた上で、そのフィールドワークが原則近いところで調べられる
範囲であった時に「行ってみよう」も含めた好奇心を掻き立てる
バランスに絶妙さがあったのですが、フィールドワーク厨と長文
嫌悪厨と、「北海道」と「札幌」のフィールド範囲を無視した
合理原理主義厨がいろいろせめぎ合っているうちに、やがて崩壊
していった、と観るのがこの間4ヶ月ほど参加できなかったが為に
後代において客観視出来る立場が取れた人間の冷静な分析には
なるのだけど。
で、先走りフィールドワーク厨がご執心なさったのは
「中島」と「川端」でしたっけ。うち勘違いの推測してた部分に
ハズレもあって、「中島」の解釈は結局こうなった、と。
今回はこの「中島」の考察までを纏めて紹介、ってところまでに
しようかなと。
で、2004年当時の「中島」フィールドワークの結果は中央バス
の営業所あたりにあった、ベースが結論で「中島」の由来は、
入植者ベースではなく茨戸(ばらと)~札幌市中心部の舟運時代
における中継地としての島(川(運河)内にある中の島)で
閘門(ガトゥーン、というかゲートも存在した)から「中島」に
なった(入植者で中島姓はいたけど、それだと後に「中島」と
「学田」に地名が分かれた理由が証明できない、だっけ)。
当時の私が興味あったのは札幌駅駅弁立売商会と「弁菜亭」で、
「おかはし」時代の札幌駅駅弁立売商会がどこかの写真に載って
ないかが、関心事でもあったのですが、定点の写真では結局
当時も今も見つからなかった、って結論。
まあこのあたりは別件で起こすのが賢明かと。
(ともあれこちらは先に記事に出来たかと)
で、次回はフィールドワーク厨が御執心したもう一つの課題、
「川端駅」の考察がまたややこしいので、次回の宿題。
で、ここで乖離させすぎたが故に地名スレが崩壊していく
形の様と経緯に関して一回まとめを設けることになるかなと。
といふことでまずは日本鉄道旅行地図帳を使って、
少しだけ「札北馬鉄」のこんからがってる糸をいろいろ
ひゅっと引いて見る。~その1・「中島」の考察とフィールド
ワーク編、でした。