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日本鉄道旅行地図帳を使って、少しだけ「札北馬鉄」のこんからがってる糸をいろいろひゅっと引いて見る。~その2・「川端」駅の存在意義考察とフィールドワーク編

看板は京都の画像なんだけど、イメージ的に
札幌の創成川のイメージって柳なんだけどな、
と思ったのでこの画像を選んで見ました。
(看板映像消えてるので自前の画像に差し替えます。
これは札幌中心部に残されてる柳の画像で)

といふことでもう一つの厄介で、かつスレの流れとしては
かつていた人ほどスムースとは感じただろうが、この頃やっと
追いついて読んで来たか程度のやじ馬には何が行われているかの
判断一つすら早すぎて、見えてすらなかったが如実になるのが
ここでもう一つフィールドワークまで行われた「川端」駅の
存在意義考察、になるのかと。

なので、今回も引き続きテクストのメインはこちらです。

9784107900197
日本鉄道旅行地図帳 1号 北海道
2008.05 54p

で、当時の路線図はp20に詳しく、
札北馬鉄(札幌軌道)の駅名と開通・廃線年はp34にある通り。
川端駅も記載されているかと(現在地の突き止めに関してまでは
以降の考察で出てくるかと)

まず前回先に積み込んだところから先に説明をかましておこうか。

札北馬鉄は札幌茨戸間の馬車鉄道で、明治44年に開通した。
起点は北7条東1丁目の「帝国製麻株式会社札幌工場」、現在
(=2004年現在)のテイセンホール。軌道は石狩街道を北上し、
麻生町を脇に見て、最終的には現在の「ガトキン」こと、ガトー
キングダムサッポロの手前、茨戸川沿いに到着するもので、
この駅は「川端」(と)呼ばれた。まさに、そのまんまである。

牛鍋蝸牛「市電前史 馬鉄物語」季刊札幌人2004年秋号p21
(サッポログラフコミュニケーションズ)

で、それ以前に牛鍋蝸牛氏はマイナーな地名スレで、
こうも漏らしている。

108 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/05/17(月) 22:11:09 ID:7lOMP7nQ [ U120036.ppp.dion.ne.jp ]
先を急ぐことに致しましょう。
馬鉄は伏篭川を渡ります。
遠くに「旧テルメ」、現在の「ガトー・キンダム・サッポロ」が
見えますね。
ワシはバブルの末期まで東京におりまして、当地へ帰って来た際に
「テルメうんぬん」と人々が話すのをこう思って聞いておりました。
「なんじゃろ?テルメって」
「カブトデコム」にしろ「テルメ」にしろ、札幌におけるバブルの申し子の最盛期をワシは知らないのです。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

ま、こっちは露払いをするべきか。リライトすれば
使える文章があったかと。

なので今度は別方向でコメントしてた話をこちらに援用します。

ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ II」のエッセイ部分で出現
するのが「札幌テルメ」なんですが、あそこの歴史は「しばし放置」
なターンと「怪しいバブルの根城」のターンを繰り返す様相では
あったと。

北海道中央バスが札幌軌道から「札幌観江バス」に移行してからも
なお長い間保有していたのが、川端駅の近くに存在していた茨戸園。
戦後「しばし放置」のターン後に開発が進み(1970年代から)、
一時は観光地としての遊園的な使われ方をする。
しかし1986年(昭和61年)3月28日付で運営から撤退し閉園となり、
ここの再開発を担ったのがソフィア中村グループと出資元の
北海道拓殖銀行で、そこに作られたのが「札幌テルメ」だったと。

で、いかにもバブルで放漫経営をしていた「札幌テルメ」の仕組み
はクアハウスタイプで屋内型の郊外にある巨大プール施設として
一時流行したが、ソフィア中村グループが破綻し、「カブトデコム」も
抱えたまま「ポケモンピカドン」の頃に拓銀が破綻すると。
(ま、計画時の付属建物で計画されてたのが「ヤオハン」系の商業
施設、って皮算用だと調整地過ぎて破綻は必至なのがすぐに理解出来る)

そしてまた「しばし放置」モード発動。結局債権放棄と競売で
落札したシャトレーゼが買ってプール施設にプラスして宿泊施設
なども付設した一大施設として継続。2010年にはそこのホテルが
本社扱いとなった、分社化された札幌シャトレーゼがあそこを
継続して経営していると。

まあ結局「ポケモンピカドン」の頃に潰れた「札幌テルメ」には
何度か連れて行かれたので思い出は薄くあるけど、山梨本拠の菓子
工業メーカーシャトレーゼの傘下になってからはプールで死亡事故も
起こしたし、トコトン縁がないのでなあ。ここ数年のシャトレーゼ
には全くいい思い出のない「排他性」が強くて、ときめくことが
一切ないので避けているけど。
(弥生会館にあった時はそこそこ行く目的の一つにはしてた。
特にときめかなくなったのは十円まんじゅうが終了した辺りかな。
最近セブンイレブンのお高いだけのアイスにシャトレーゼ紛れ
込んでもいるから、それもチョコバッキーをはじめとして慎重に
避けてる)

231 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/06/28(月) 20:52:28 ID:RWJx3AXQ [ N045065.ppp.dion.ne.jp ]
「札北馬鉄」は「中央バス」の前身と言ってもいい訳です。
その過渡期の「札幌観江バス」が、「札幌―石狩間」で運行する際に新聞に出した広告が「石狩町史」に載っておりました。
住所は見事に、「北七東一」となっております。

路線は違うのですが、同社のバスの写真も。
本日のデザートでございます。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

このデザートにあたる写真は引き継いで残してあったかな。
多分これかなと。

あとは補強用途でこの地図が使えるか。
大正15年の地図に乗ってる馬車鉄道が製麻公社の
前に起点を持ってる。

ではまずその話はこのくらいに納めたとして、御執心に過ぎたのが
ここの川端駅問題か。

111 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/05/19(水) 21:09:53 ID:.8KRMGfc [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
最終地点「川端駅跡」へ向かうことにいたしましょう。

川端駅跡…。
今ここは、「ガトー・キングダム・サッポロ」の敷地内でありました。

ここに一世紀前、「馬車鉄道」の駅があり、
「雑穀野菜等の運搬、石狩川汽船との連絡、日曜日ごとの石狩川遊覧や
石狩浜への海水浴客の運搬など盛況を呈した」(北海タイムス)
ところであるご存知の方が何人いらっしゃることでしょう…。

「茨戸川」の中島ではこの日もパークゴルフ大会が開かれ、
そして釣りに興じる人々の姿が見られました。
100年前の「川端駅」も同じような活況を呈していたのでありましょうか。
なんとなく、しみじみしてしまう牛鍋蝸牛なのでありました。
(「きょうのわんこ」風)

112 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/05/19(水) 21:41:03 ID:.8KRMGfc [ N045248.ppp.dion.ne.jp ]
「川端駅」にはその役割上、当然船着場があったと思われます。
既出の大正5年頃の地図には船のマークが見てとれます。

現在ここには石段がありまして、頑強なフェンスはあるものの、
河畔近くまで下りられるようになっております。

これはその昔の船着場の名残なのでしょうか?
周りを見回してもそのような形状の場所は、ここにしかありません。

以前にも書きましたが、「血筋」ならぬ「地筋」がここにも見受けられるような気がします。
実地調査をしていて、その土地に染み付いた歴史を現すものにそれとなく出会うことが何度かありました。
単なる思い込みかもしれません。
ご都合主義かも自己満足かもしれないのでが、ま、こいつがたまんないんだよねぇ…。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

「地筋」に関しては牛鍋蝸牛「市電前史 馬鉄物語」の
項目で牛鍋蝸牛氏が自身の造語とした上でこう纏めている。

あ、「地筋」とは「土地の血筋」という意味で、私の造語です。
「そんな言葉はない」と言う苦情は受け付けませんので
あしからず。

牛鍋蝸牛「市電前史 馬鉄物語」季刊札幌人2004年秋号p21
(サッポログラフコミュニケーションズ)

で、フィールドワークの写真と絵地図がいくつか残っているけど、
このキャプションにあたる文章はどこだっけ。

125 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/05/23(日) 20:51:00 ID:jiDsoNCc [ L066024.ppp.dion.ne.jp ]
で、一昨日、「川端駅」の実地調査へ再度行って来ました。
そんなに大きな成果はなかったのですが、旧神社の跡辺りも
撮影してきました。

136 名前: 新川番地 投稿日: 2004/05/26(水) 01:05:34 ID:1KN/vHaQ [ YahooBB219041108005.bbtec.net ]
他の資料を見てもやっぱり川端駅は出て来ないんです。
牛さんのおっしゃるように「駅」ではなかったかも知れないのですが、
では茨戸駅が川端にあっても良かったはずです。

うーん 誰かスッキリする回答持っていらっしゃいませんか?
脳内サプられへんわー モヤモヤ・・・

137 名前: めっちゃ名無し 改め 藻南公園 投稿日: 2004/05/26(水) 06:32:12 ID:XP04XpgI [ YahooBB219042180083.bbtec.net ]
札幌軌道の終点ですが、茨戸まで延長されたのが大正元年9月
川端(川岸?)まで延長されたのが大正6年9月なので、
「殖民公報」第97号「北海道旅行案内増補大十二版」が、
その間のものである場合は、茨戸止まりで問題ないということになります。
ただし残念ながら、手元の資料だと開業年月日はわかるのですが、
免許申請や工事開始の日付が載ってません。
だから、実際に川端への延長がいつ計画されたのかははっきりしません。
ついでに言えば、本文がやや曖昧な所があって、明らかに川端まで延長
された後の記述なのに列車の運行区間が札幌~茨戸と言う記述が
出てきたりするのでちょっと紛らわしいです。
(川端に停留所があったことはちゃんと触れられています)

新川番地さんが載せた元ネタらしき図には「拓殖広報」第57号(明治43年)の
記事を参考にと書かれてるので、おそらく設立時の資料なのでしょう。
従って、「札北馬鉄軌道地図」は参照した資料が川端延長前だった、
と言う可能性があります。

140 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/05/26(水) 23:10:09 ID:5A3eA02U [ U125079.ppp.dion.ne.jp ]
詳しく検証しなければいけない「茨戸~川端間問題」。
ここでまた混乱の種を…。

>>137
>札幌軌道の終点ですが、茨戸まで延長されたのが大正元年9月…
ということなのですが、「新札幌市史 第三巻通史三」には、当時の「北海タイムス」の記事からの引用で次のようなことが書かれています。

「十月二十六日には軌道工事も竣工し(北タイ 明43.10.28)、その後茨戸停車場の建設、同停車場附近への一の橋架設、積雪中の馬橇の準備などを行って、明年一月一日開業予定となった(北タイ 明43.12.25)。正式な開業日については確認できなかったが、融雪期となった翌年三月十日『積雪の為暫く車両運転を休止し居たる札幌茨戸間の馬鉄』が、全線除雪終了して開通する予定を伝える新聞記事(北タイ 明44.3.9)があるので、一月初旬一時的に営業を行ったと思われる」

143 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/05/28(金) 10:25:38 ID:vAFDuNpo [ N047247.ppp.dion.ne.jp ]
え~、遅くなりました。
「新札幌市史」にあります「札北馬鉄と沿線住民」によりますと、

「春の営業開始直後、沿線住民である鉄道以北有志が、軌道を敷設した道路の整備上の問題など札北馬鉄の経営の仕方について七項目を決議した。
(北タイ 明治44.4.6)。
さらに篠路村、当別村、石狩町字花畔、同字樽川、札幌村字中道、同字烈々布と連合して、次の要求六項目を決議した」

一、石狩街道札幌茨戸間馬鉄の両側鉄軌面と道路面とに平坦に幅三間以上の砂利を敷き完全に修復する事
二、軌道内外馬鉄敷地内は監督官庁の命令書中第三条第三項に基き充分の監督を官庁へ請願する事
三、雪中軌道内の降雪は堀り上ぐると同時に運搬放棄する事
四、製麻会社前の狭隘なる堤防地に停留所を設けたるため馬鉄会社の車体の置場なく自然車両を線路に放置し通行の妨害となり危険砂利を以って〔ママ〕製麻会社前の停留所を北十五条以北に移転を要求する事
五、馬鉄の営業時間以外は一定の場所を定め客車貨車を牽き入れしめ通行の妨害を為さしめざる事
六、馬鉄の馬丁及工夫は通行の人馬車に対し粗暴の行動あるを以って之を厳重に取り締まりを要求する事

(略)この不満を示す行動に対し、北海タイムスでは会社側の言い分も伝え、一方的に会社側の責任とは捉えていない。この問題は札北馬鉄側が、道庁の検査で一部通過しなかった部分を残したまま営業を開始したことも一端となっていたようだ(北タイ 明44.4.11)」

とまぁ、こう言うことです。

154 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2004/06/01(火) 22:42:38 ID:TbuSsBgU [ y065088.ppp.dion.ne.jp ]
そうそう、すっかり忘れていた。

「川端駅」の写真。
サイト上の画像は小さいので図書館から「紙版」の「続・北区エピソード史」を借りてきていたのですが、取り上げる暇もなく、しかもそのことをすっかり忘れていて期限が来てしまい、返却しちゃいました。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

確かその「川端駅」の写真ならこれだったかなと。

223 名前: 牛鍋蝸牛 ◆1lr/tj5942 投稿日: 2004/06/25(金) 13:37:58 ID:.DOYexHg [ y064143.ppp.dion.ne.jp ]
「石狩町誌」からの「札北馬鉄茨戸駅」の興味深い画像ですが、
創成川に接していて貨物の積み下ろしをしているようです。
水運との連絡は「川端駅」からだとばかり思っていましたが、
川端駅まで延長される前は茨戸駅が基点だったのですから当然ですね。
船はハシケ程度です。
おそらくは輸送力のアップを図って、大きな船が入れる川端駅まで
延長になったのでしょう。
しかし、思ったよりも駅舎が大きくて立派でした。
今で言う停留所程度ではないかと思っておりましたが、
認識を新たにしました。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十四】

一時期終点ではあった「札北馬鉄茨戸駅」の興味深い画像も、
そういや・・・これかな。

で、大体その茨戸駅の位置はこのあたりにあった、といふ
比定までは出来ていたんだっけ。それがこっちの写真か。

この三角地帯に茨戸駅があったと思われる。

具体的な成果って結局この辺りを睥睨する程度だったような。
3枚は出せたけど、該当するフィールドワークの特定作業で
得られた文章見つからなかったので、ここで軽く纏めるまでか。
 あとは絵図と茨戸街図が残っていたけど、大体このあたりで
決着させてもいい感じですね。

まあそんな感じでグダグダに語り尽くしてから話をズラして
違う札幌市内の違う地名に関してごにょごにょ進めるフィールド
ワーク派がこの時期専横したのと、牛鍋蝸牛氏が「札幌人」の
記事をメインに活動するようになってから、四散していく良からぬ
流れになっていったのはその「決着の付け方」に後から追いついて
来た読者をまるまる置いてけ堀にする要素があったからかもな、
とは後年だから言える話でもありますが。

大体これで「札北馬鉄」を基軸にした話は一通り廻れたかなと。
次はあまり多くは語られなかった方ですが、「札幌人」にも記事は
ありますし、やれれば「軽石軌道」に関してやろうかと。

日本鉄道旅行地図帳を使って、少しだけ「札北馬鉄」のこんから
がってる糸をいろいろひゅっと引いて見る。~その2・「川端」編、
でした。

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