「札北馬鉄」の史料読みが終わらないからまず別口で~「柳もち」と、おかはし(おかばし)と、弁菜亭と。
ともかく「札北馬鉄」の史料読みでいい切りどころが
見つからない。さりとて、な部分も多いので、その頃
私は何に興味があったも含めて、そちらから思い切って
纏めてみようかと。
で、札幌のマイナー地名スレで「札北馬鉄」の話題が
上った頃に興味関心があったのは「札北馬鉄」の札幌駅
側の起点と、その近くにあったらしき札幌駅で駅弁を
売っているところの所在と変遷、が主体でした。
それでもうその頃には入手が難しくなっていた札幌市電
本などにおかはし付近にあった頃の札幌駅立売商会が映った
写真はないのかと牛鍋蝸牛さんあたりに投げかけたものの、
初期史料にあった大阪の方の出版社で刊行された札幌市電本
などを観ても(後年ブックバードに行った時にあったので
購入した。トンボ出版が1999年に刊行した本)同時代を良く
知りねまた名絵師でもあった浦田久さんの本を見ても、結局
札幌駅立売商会がおかばし付近にあった、とされる写真を
判別することが出来なかった。
といふことでそこは空振りに終わったものの、その前後は
大体判明しているので、そのあたりから紐解くと。
あと例の先達さんは「駅生」の詳細だいぶ書いてたから、
そちらも事前に参照しておくと、こちらとので、より状況が
立体的に見えるかと。
で、札幌駅で出されていたのはやはりまず挙がる「柳もち」。
ルーツは札幌駅立売商会のルーツの一つで、6人出されて
いたうちの洲崎庄次郎の流れを汲む「北間屋(きたまや)」の
看板商品。
洲崎町は現在須崎町に表記変更されてて北鉄浅野川線の
沿いにあり、ちゃんと北間町も隣接してるのか。ってか、
須崎町も北間町も番地区分がイロハ区分なのね。
個人的にはまだJRも札幌駅周辺から戻るときの移動手段として
選択肢にあった頃札幌駅立売商会の売店で久々に意識して観た
「柳もち」を帰りの土産にして帰った頃からきっちり観察する
日々が暫く続いたものなんですが。
特徴はやはり道産もち米で「赤福」などにも使われる代表的な
「はくちょうもち」で作られたあんころ餅であること。所謂
こしあんもちの代表格ではあるのですが、意外に知名度は低い。
(まあそれは根本的に札幌自体が他方からの人口流入都市であり、
生粋の札幌っ子自体が生き残ってかつ発信し続けている例が少ない
ことの証左なのかと)
下はスクラップだけ見つかったところから引用しましたが、
珍しく日付が入ってない(入れ忘れ)。でもここの類例で
有名な駅生の一つウロコダンゴ(深川駅)は「椿餅」(新潟県の
旧水原町)がルーツと共に、飛騨高山の「三嶋豆」をヒントにして
旭川の「旭豆」が作られたことも記されている。
(「旭豆」も「ウロコダンゴ」(高橋商事)も当然なんですが
「ほっかいどうお菓子グラフィティー」に記述があります)
でまあ「柳もち」の話はこのくらいにして、次はおかばし。
いわゆる国鉄の線路の上にかかっていた陸橋だから「おかばし」
(おかはし記述が多いかな、とも思ったけど、近くにある史料は
ほぼ「おかばし」表記なので双方表記、とします)なんですが。
一応昭和のヒトケタ時代には完成していたのか。浦田さんの文章を
引きます。
おかばし(おかはし)の撤去と転機は札幌駅の高架化がきっかけで
それはまた島本和彦「炎の転校生」に描かれた旧札幌駅駅舎や
駅前にあったチキン屋との離別を意味するものだったのだけれど。
(ま、後者はまだ厚別区方面にあるおにぎりあたためますか御用達の
「チキンペッカー」として生き残ってたハズですけど)
まあ定鉄が乗り入れてた名残の0番線ホームもなくなり、使ってた
JRの地上駅が高架化されます、が当時の印象ではあったけど、その頃の
札幌駅立売商会を目撃してないから、どの建物に札幌駅立売商会が
入っていたのか写真を観るだけだと判別できない、なのですがね。
ともかく「おかばし」付近にあった札幌駅立売商会が現在の「弁菜亭」
のある箇所に移って(「弁菜亭」になってからはチャリで昼飯を食べる
為に行ったことは経験上ある)、「おかばし」撤去後はそこに初めは
高架下にあったヨドバシカメラが移って現在もそこに札幌店はあるのですが、
やっぱりそれでも「札北馬鉄」のエピソードからは少しズレるところの
話になってたようで。
ただ、やはり現在の札幌駅よりは少しズレたところに「札北馬鉄」の
都会側の起点、札幌駅はあったようなんですけど。
といふあたりでまずは別口的に「札北馬鉄」の史料読みが終わらない
からまず別口で~「柳もち」と、おかはし(おかばし)と、弁菜亭と、
をつらつらと並べてみました。