告解
キリスト教において
懺悔・告解なるものがある
自分の犯した罪を聖職者に告白するというものだ
それにより神からの赦しと和解を得るという
最初のうちはその本来の意味で行われていたと思うのだが
(ここからは私の完全なる憶測、妄想でございます)
そのうちにそれを悪用するものが現れたのではないか
その告解した本人を強請るなどと言うことはまずないだろうが
様々な方々からの告解を聞いているうちに
色々な様々な表にはでてこない人間模様がみえてくる
そして誰かがある特定の人物に抱いている表に出さない感情なども
聖職者はそれらを全て知っているわけである
彼らはある時こう考えたのではないだろうか
それらをデータベース化して分析して利用する
誰かの特定の誰かに対する悪い感情をどのようにすれば効率的に利用できるのかそれを試み
更にそのデータを蓄積して分析する
現在それこそが彼らの強みとなっている
植民地支配に先立って宣教師が布教活動をしていたのもそのためなんだろう
そう言った情報をできるだけ集めておく
そして、支配するにあたり今までのそのデータと自分たちが培ってきたマニュアルとテクニックを思う存分駆使して
その国の内部に蠢く悪い感情にコッソリと火をつけて遠巻きにして大火事になるのを乾杯しながら眺めている
わが国で言えば明治維新なんだろうか?
だとしたら本当にふざけた連中である
現状ではビッグ・テックが労せずして
この役割を担っているんだろうか
でもやっぱり違いますかね?
どうなんでしょう