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教科書に書いてあることだけじゃわからない?(日記27)

歌詞の中に「教科書」という単語が出てくる歌を3つ記憶に残している。

教科書に書いてあることだけじゃわからない
大切な物がきっとここにあるはずさ

BEGIN「島人ぬ宝」

真っ白な子供時代 教科書を暗記していれば
正解不正解 どちらかを選べると思っていた

Doughnuts Hole「おとなの掟」

噫、お前さんを征服したい
奥床しき教科書を全部廃棄処分しろ

東京事変「酒と下戸」



教科書。いつの間にか馴染みのない音に遠ざかってしまった気がする。大人になってからは与えられることのない思惑。

〈教科書〉はこの世界の本当の本当に一部だけを教えてくれるけど、私たちは教科書のどこにも書かれていないことを学んで生きてきたことがほとんどかもしれなくて、でも記憶の端にはいつも〈教科書〉が潜んでいるはずだと思う。

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久しぶりに生理痛がキツくてバイトを休んでしまった私の今日とは対照的に、昨日私の友人が妊娠した。(しばらく生理がこなくて発覚したらしい)
一昨日、ちょうど別の友人とこの世に自分の子供を生み出すということについて後ろ向きに語り合っていたばかりだったから度肝を抜かれた。

いよいよ自分たちの周りにもそういう波🌊がくるか───と身構え始めると同時に、やっぱり自分のこととなると、同じようにサーフィンする気持ちにはとうてい(少なくとも今はまだ)なれないなぁ、とぼんやり考える。

生存苦、という言葉をよく考える機会が多いのだけれど、それについて考えていたらもちろん自分がまた新たな生存苦を生み出してしまうのは耐えられない、というより、それを子供に背負わせたくないと思うのは、私がもうすでに誰かの「母親」だからだと思う(これって〈愛〉ですか?)。

母親になることと、母親であることは別なんですね。


私は自分が母親になることが怖い。
低用量ピルの休薬期間の4日目、便座に座った私は、いつも祈るような気持ちでパンツを下ろす。
そして予め貼っていたナプキンに血が着いているのを見ると、心底安堵する。

たとえばもし予期せぬことが起こって子供ができたその場合、“責任”て何だろうとよく思うし、よく言われる「責任を取るべき」ということにはてな❓になる私がいる。
親が取れるのは自分が子供をこの世に生み出した責任であって、子供の人生の責任を取れるわけではないでしょう、と。だからつまり、必ずしも責任を取る=産むという選択肢をとるべき、ということにはならないでしょう、と。(もちろん、だからといって軽率に棄てる勇気が必要という訳ではない)

私は、自分が生み出してしまったことによってそれから先、子供が果てしない生存苦を持って生きていく可能性が1でも発生してしまうことが怖い。
どんなに大切に育てても(たつもりでも)、生存苦が生じないとは限らない。

〜いっそのことはやく、子宮を摘出してしまった方がいいのかもしれない〜
〜えっ、これってそもそも、セックスをしなければいいだけの話じゃないですか⁉️〜


先月、美容室で髪を切ってもらっていたとき、斜め向かいの女子高生の客と美容師との会話が聞こえてきて、「私助産師になりたいんですよ。子どもが生まれてくる瞬間って奇跡だなって思うから」と女子高生が言っていた。
おそらく彼女のいう〈奇跡〉は希望的なニュアンスでの奇跡だろうと思ったし、たしかにキリスト教の宗教画に出てきそうな天使たちを想像すると、〈祝福〉に違いないとそう思った。(その間にも私の毛先が切り落とされていく)

私はそこに希望的なニュアンスではなくて恐怖と疑問を抱いてしまうので、たぶん助産師になることは一生ないのだけれど──〈奇跡〉。〈奇跡〉か。本当に〈奇跡〉㌨❓(⇽かわいい)
手放しに〈奇跡の瞬間〉とは思えないけれど、この世に1つの命が生まれることは、いくら生命の営みのサイクルの1部だとしても、恐ろしいことだとそう感じる。

と同時に、そういう希望だったり、友人や知り合いの練る人生プランを聞いている時に「〇歳で結婚して、〇歳くらいで子供産んで──」という言葉が何の躊躇もなく、当たり前に出てくるのを知ると、どうして何の疑問も出てこないの!?と思ってしまう自分が正直(村の村長さんにタッチ✋)いる。

はーあ、人生。ジンジン人生。
長くなりすぎたし、今日はこれで一旦寝ようと思う。


p.s 私では、力不足かもしれません。

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