何故、「霊」なのか? 柄谷行人「霊と反復」
何故、「霊」なのか?
柄谷行人「霊と反復」
■柄谷行人「霊と反復」/『群像』2021年10月号・講談社。
■エッセイ(哲学・社会思想)。
■2段組、6ページ。
■2022年9月18日読了。
■採点 不能。
🖊ここがPOINTS!
①新著『力と交換様式』の「力」とは「霊的な力」である。この問題はかつて柄谷が挑戦したものの、あえなく敗退を遂げた問題でもある。
②柄谷が「霊」と言っていることを誰も真面目に取り合ってないが、極めて重大な問題である。
③この「霊」問題の衣鉢を継ぐ意味で、柄谷は「小林秀雄の弟子」というべきである。
目次
図 1 「基礎的な交換様式」( [柄谷, 「交換様式論入門」, 2017年]による)... 4
はじめに
来る2022年10月7日、柄谷行人の待望の新著『力と交換様式』が岩波書店から刊行される。丁度昨年の今頃、『群像』誌上に発表されて、一部で物議を起こした柄谷のエッセイ「霊と反復」をやっとのことで読んだ。いまさらではあるが、いささか思うとことろがあり、その一端を記すこととする。
1 霊的な力
詳細は『力と交換様式』本体そのものを読まねば、何も言えないが、なにしろ「霊と反復」なので、大抵の真面目な読者はいささか引くだろう。
図 1 「基礎的な交換様式」( [柄谷, 「交換様式論入門」, 2017年]による)
すなわち、柄谷の説くところによれば、4つ存在する「交換様式」はそれぞれ「力」を持つ。例えば、贈与を受けたものは、何らかの形で返済しなければならない、という強迫に襲われる。これが「力」だ、というものである。
問題は、それらの交換によって、何故人間に何らかの行為を強いる力が発生するのか、ということもさることながら、この「力」をして、柄谷が「霊的な力」としたことにある。柄谷は、これは比喩的に言っているのではない、と言う。ということは、大真面目に「霊」的な力だと言っているということなのだ。
私は、さまざまな霊的な力はたんなる比喩ではなく、異なる交換様式に由来する、現実に働く力だと考える。( [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.71)
どういうことなのか。この交換様式によって生じる「力」は、このエッセイでも、例えば「宗教や無意識と見なされる観念的な力」*[1]とか、「〝超感覚的〟なもの」*[2]などと言い換えられている。つまり、交換様式によってもたらされる力とは「無意識の力」、あるいは「観念的な力」、あるいは「超感覚的な力」であると言っていいはずである。何故、あえて、誤解を呼び起こすような「霊的な力」などという言い方をするのか?
あるいは、「霊的な力」という言い方から想像できることは、すなわち、「霊の力」、霊そのものを実体的に捉える表現ではなくて、霊「的」なのだから、人々が、霊は実際には存在しないが、あたかも「霊」を実体的に感覚してしまうような力、というようなことだろうか。
それは、日本銀行券が、実は単なる紙きれであるにも関わらず、多くの人々が目の色を変えて、それを得るために血道を上げているのと同様だと言い得るだろうか。
しかしながら、印象ではあるが、どうも、そういうことではなさそうなのである。
2 「形式化の諸問題」/「言語・数・貨幣」の反復
そもそも、この「霊」の話が柄谷の文章に出現するのは、この「力と交換様式」という書題が明らかにされた、『内省と遡行』の講談社文芸文庫版のあとがきであった。そのことについてはかつて触れたことがある*[3]。その段階では、ちょうどその頃、唐突に、柄谷が「霊」という着想を得たようにわたしは思い込んでいたのだ。しかしながら、そうではなかった。柄谷の霊的志向は、或る意味、年季が入っていたのである。
彼が「形式化の諸問題」で頓挫したことは彼自らの説明で明らかであるが、このエッセイで、柄谷はこう述べている。
先ず、 私の最初の本は『畏怖する人間』 で、 これは群像新人賞(1969)をもらった「漱石試論」 を巻頭においた文芸評論集であった。私は一九六〇年に大学に入学すると同時に、安保闘争に参加した。七〇年代初めに出版したこの本は、 私の六〇年代を総括するものだといえる。 その意味で節目であった。 このあと、 私は『マルクスその可能性の中心』を書いた。以後、私の書くものは理論的・哲学的になった。その頂点が、一九八〇年に群像に連載した『隠喩としての建築』、 そして、「形式化の諸問題」 である。
( [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.68)
と、こう述べた上で、柄谷は驚くべきことを書きつける。
しかし、 それはまもなく破綻に終った。そのきっかけは、その時期、霊界(あの世)は数学的な位相空間として示しうる、 というようなことを考えはじめたことにある。そして、それはたんに理論上の間題ではすまなかった。私はそのあと、我ながら頭がおかしくなったのである。 いわば霊界が現実に存在するかのように見えてきたからだ。しまいには、何も仕事ができず、タイガーマスクの面をかぶって、近所を徘徊したりした。その後、そのような状態を脱し、群像に『探究』 の連載をはじめたのである。
( [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.68・下線部引用者)
すなわち、哲学的な問題を考え過ぎる余りに気が狂いかけた(?)、ということが問題ではない。そうではなくて、「霊界(あの世)は数学的な位相空間として示しうる、 というようなことを」真面目に「考えはじめた」というところだ。普通に読めば、「霊界」の存在は疑うべくもないが、それを数学化する、数値化するというように理論的に考え得るのだ、と柄谷が、もう一度書くが真面目に、考えた、ということにある。
そこで、もう一度、『内省と遡行』の文芸文庫版「あとがき」を読み返せば、確かに同様のことが触れられているではないか。まったくもって、人間は自らの関心に従ってしか、物ごとを認知できないものなのである。
私が気づいたのは、 このような企て*[4]が、「言語・数・貨幣」における企てと類似するということです。かつて私が躓いたのは、代数的構造・順序構造を論じたあと、位相構造を論じようとしたときです。簡単にいうと、それは、「この世」が存在するためには「あの世」が存在しなければならない、というような考えです。その場合、「あの世」がたんに数学的な位相空間としてある間はよいのですが、次第にそれが本当に存在し始めた。そのとき、私は精神的な混乱を来して、仕事を放棄してしまったのです。( [柄谷, 「文芸文庫版へのあとがき」, 2018年]p.332・下線引用者)
要は、「この世」は、「この世」として単独では措定できない。「この世」ではない「あの世」を仮想した上で、「あの世」ではない世界としてしか「この世」を確定できない、というようなことかと思う。これはこれで極めて重要な問題であって、別に論じなければならないが、極めて簡単に言ってしまうと、現実の世界とは異なる世界ということだから、これを「ヴァーチャルな世界」、「仮想世界」、「脳内世界」、と言い得ると思うが、何故それを、あえて、「あの世」とか「霊」とかいう言葉でもって示さねばならぬのであろうか?
つまり、「霊的な力」が存在する、と言えば、やはり、柄谷が斥けているように、比喩的な表現に聞こえてしまう。そうではなくて「霊の力」が存在すると言えば、これは、霊を、霊の存在を実体化することになる。だが、そのようなものとして、それは人間という存在に働きかける、と言いたいのであろうか。
とすれば、人間は霊の世界によって支えられていることになる。
しかし、そう言い切るのは早急過ぎる気もする。
いずれにしても、問題は、「観念的な力」とか「無意識の力」、あるいはカント的に「統制的理念による力」とでも言っておけば、無難にことが済みそうなのに、何故、あえて、「霊的な力」などと言わねばならないのか。
穿った見方をすれば、あえて物議を醸すようなことを柄谷は言っているのか。
3 誰も「霊」を真正面から論じようとしない
例えば、つい最近のことだが、柄谷を囲んで、國分功一郎と斎藤幸平が同席する講演会が行われた*[5]が、そこでも柄谷は「霊」の話をするが、二人とも何故かその問題には触れないのだ。触れられないのか、あるいは意図的に触れようとしないのだろうか。印象論で言えば、今後も、この「霊」の下りについては、かく、このように読み流されていくのではないだろうか? どうして誰も「霊」を、あるいは「霊」という言葉を問題にしないのだろうか?
全くの余談になるが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のことである。原題は「Die protestantische Ethik und der 》Geist《 des Kapitalismus」である。文脈的には、ヴェーバーとは直接関係ないが、このエッセイで柄谷も述べているように元来、ドイツ語では「精神」を意味する「Geist」は「ghost」、すなわち「霊」をも意味する*[6]。
ヴェーバーは恐らく、そのことを十分意識した上で「Geist」にカッコ( 》……《 )を付けたものと考えられるが、従って、少なくとも『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』と《 》を付けるか、傍点を振るかして強調するべきであろう。あるいは、「der 》Geist《 des Kapitalismus》とは「資本主義の《霊》/《亡霊》/《幽霊》」とも読むことができると註を付けるべきだが、わたしの不勉強故に正確には分らぬが、このことに触れた訳書や解説書は皆無に等しい気がする。ほとんどの人は「Geist」に「亡霊」という意味があることを認識していながら、いや、ここは当然のことながら「精神」と解すべきなのだと思って、取り立てて問題さえしない、ということなのだろうか。
4 小林秀雄の影
さて、何故、わたしがこの「霊」問題にこだわるのか、というと、小林秀雄、柳田國男という日本の、広い意味での文学、批評の世界を代表するこれらの思想家たちが、いずれも、「霊の世界」あるいは「霊的な世界」を実体視するような経験を語っているからである*[7]。小林について言えば、中断したベルクソン論「感想」の冒頭に登場する、小林自身の亡母が巨大な螢になって現れたなどが記憶に蘇る。あるいは、小林の晩年と言ってもよいと思うが、柳田國男の『山の人生』などを論じた講演「信じることと知ること」なども柳田の霊的な「素養」に、小林の同様な精神性が反応したものと言える。
恐らく、この流れで論じられることを、あるいは柄谷は嫌がる、拒否するかも知れない。柄谷には2冊の柳田論が存在する。『柳田国男論』と『遊動論――柳田国男と山人』である。以前、この二著に関する感想のようなものを書いた。その一部を自己引用する。
恐らく柳田については前者で尽きている。
筆者は後者を書き上げた段階で長らく封印していた前者はそのままで刊行してもよいと考えたらしいが、むしろ後者は不要とも言える。せいぜい前者に一章を付すことによって論旨は一貫できるはずだ。
前者を卒読して思うことは、圧倒的な小林秀雄の影響、あるいはそれへの対抗意識である。一つは再三にわたる本居宣長への言及、そして柳田『山の人生』冒頭の鉞で二人の子供の首を切り落とす父親のエピソードへの言及である。
恐らく筆者は通来の文芸批評を避ける/脱するためにマルクスや柳田を論ずると述べているが、小林の批評活動こそが狭い意味での文学の枠を拡張していっていたことを考えれば、同じ道を辿っているとしか言いようがない。
(「小林秀雄の影――柄谷行人『柳田国男論』・『遊動論――柳田国男と山人』」/webサイト『鳥――批評と創造の試み』2017年3月18日更新)
これをして無意識のなせる業(わざ)、と言ってもよいのだが、この文脈では、まさに「霊」の力、というべきであろうか。
5 無意識の力
柄谷はこのエッセイの末尾で、ソクラテスのダイモン(精霊)について論じたヘーゲルの『哲学史講義』を引用している。
精霊というのは、やはり、無意識の、外的な、決断主体で、にもかかわらず主観的なものです。精霊はソクラテス自身ではなく、ソクラテスの思いや信念でもなく、無意識の存在で、ソクラテスはそれにかりたてられています。同時に、神託は外的なものではなく、かれの神託です。それは無意識とむすびついた知という形態をとるもので、――とりわけ催眠状態によくあらわれる知です。
( [ヘーゲル, 1833年-1836年/1992年]p.411/ [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.72より援引)
柄谷は以前、日本人は強固な無意識に制限されて『日本国憲法』第9条を「改正」することはできない*[8]、と述べたが、ヘーゲルの言葉を引くまでもなく、人間を縛る交換による力とは無意識の力、無意識に淵源を持つ、あるいはそこに由来する力に他ならない。
だが、それをして「霊」の力と柄谷が言うことこそ、ソクラテスがダイモンによって駆り立てられたような、まさに、無意識の力と言わざるを得ない。
結語――小林秀雄の弟子?
柄谷は「「ヘーゲルの弟子」としてのマルクスは、『資本論』で「無意識」をもちこんだ、というより、ダイモン(精霊)をもちこんだ、といってよい。」*[9]と言うが、単に「マルクスは『資本論』で「無意識」をもちこんだ」で止めておけばいいところを、「ダイモン(精霊)をもちこんだ」と言わせてしまうことこそ、柄谷の無意識であろう。その意味では、柄谷自身の表層的な意識は否定するであろうが、柄谷行人は紛うことなき「小林秀雄の弟子」なのだ、それも、その本質をそのまま受け継いだ、正嫡の弟子であると言える。そして、これこそが、「霊」の「反復」に他ならないのではないのか?
【主要参考文献】
ヴェーバー マックス. (1920年/1989年). 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』. (大塚久雄, 訳) 岩波文庫.
ヘーゲル. (1833年-1836年/1992年). 『哲学史講義』上巻. (長谷川宏, 訳) 河出書房新社.
三浦雅士. (2010年-2011年). 「孤独の発明」. 『群像』2010年1月号~2011年6月号.
小林秀雄. (1958年-63年/2002年). 「感想」. 著: 小林秀雄, 『小林秀雄全集』別巻1. 新潮社.
小林秀雄. (1974年-75年/2001年). 「信じることと知ること」. 著: 小林秀雄, 『小林秀雄全集』第十三巻. 新潮社.
柄谷行人. (2013年). 『柳田國男論』. インスクリプト.
柄谷行人. (2014年). 『遊動論――柳田国男と山人』. 文春新書.
柄谷行人. (2016年). 『憲法の無意識』. 岩波新書.
柄谷行人. (2017年). 「交換様式論入門」. 参照先: 柄谷行人公式ウェブサイト: http://www.kojinkaratani.com/jp/
柄谷行人. (2018年). 「文芸文庫版へのあとがき」. 著: 柄谷行人, 『内省と遡行』. 講談社文芸文庫.
柄谷行人. (2021年). 「霊と反復」. 『群像』2021年10月号.
柄谷行人, 國分功一郎, 斎藤幸平. (2022年). 「『力と交換様式』をめぐって」. 『文學界』2022年10月号.
柳田国男. (1976年). 『遠野物語・山の人生』. 岩波文庫.
《追記》
本稿には関連稿が4本あります。ご参考までに。
(1)「いよいよ「Dの研究」完成間近か? ――柄谷行人『内省と遡行』文芸文庫版刊行」
https://torinojimusho.blogspot.com/2018/04/d.html
(2)「「Dの研究」いよいよ推敲段階へ ――柄谷行人「社会運動組織の可能性――「NAM」を検証し再考する」」
https://torinojimusho.blogspot.com/2021/04/d.html
(3)「ついに「力と交換様式」(「Dの研究」)脱稿か?――柄谷行人「社会科学から社会化学(ばけがく)へ」」https://torinojimusho.blogspot.com/2022/06/d.html
(4)「ついに『力と交換様式』(「Dの研究」)刊行日決定!――柄谷行人『力と交換様式』」https://torinojimusho.blogspot.com/2022/09/d.html
《summary》
Why "Spirit"?
KARATANI,Koujin, "Spirit and Repetition" (in Japanese)
■KARATANI,Koujin, "Spirit and Repetition"/Gunzo, October 2021, Kodansha.
■Essays (philosophy and social thought).
■Two columns, 6 pages.
■Read on September 18, 2022.
■Score: Incomplete.
🖊Here are the POINTS!
(1) The "power" in the new book "Power and Modes of Exchange" is "spiritual power." This is also the problem that Karatani once tried to solve but lost the battle.
(2) No one takes seriously what Karatani says about "spirit," but it is an extremely serious issue.
(3) In the sense that he is a disciple of KOBAYASHI,Hideo, he should be called "a disciple of KOBAYASHI Hideo" in the sense that he is the successor to the "spirit" issue.
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20220925 2226
7060字(18枚)
*[1] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年] p.69。
*[2] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.70。
*[3] 「いよいよ「Dの研究」完成間近か? ――柄谷行人『内省と遡行』文芸文庫版刊行」(
https://torinojimusho.blogspot.com/2018/04/d.html)。
*[4] 【引用者註】 「力と交換様式」のことを指す。
*[5] [柄谷, 國分, 斎藤, 「『力と交換様式』をめぐって」, 2022年]
*[6] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.71。
*[7] これらの問題の詳細は、三浦雅士の未刊行のままになっている、長期連載評論「孤独の発明」(『群像』2010年1月号~2011年6月号・講談社)に明らかである。
*[8] [柄谷, 『憲法の無意識』, 2016年]
*[9] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.73。
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