僧侶もまた孤独か
感じたことを日記風にメモしています。
まとまりがなくお許しください。
①生老病死
生きていてパーフェクトはない。
誰もがパーフェクトを目指しているように見えても。
ストレスのない人生なんてない。
自分はストレスを感じていないように振る舞おう。
どんな人にも抱えている問題がある。
老若男女に関わらず、
地位名誉のあるなしに関わらず、
お金のあるなしに関わらず。
いろいろな経験をして、
時間が経過して歳をとる。
いつのまにか歳上の世代は消えていき、
後から新しい世代は誕生する。
少しずつ大人になっていき、
今度は順番が来てそのうちに去っていく。
母や義父母の死を経験し、そう感じる。
②パニック障害
先日起こした胸の痛みの発作が、パニック障害らしいとわかったとき、「あなたにストレスなんかあるの? 気楽に暮らしているから、全くないと思ってた」と近所の友だちから言われ、内心ひどく傷ついた。人を軽々しく評価したり、口に出してはいけないと自省。
なぜパニック障害で首を絞められているように息が苦しくなったのか、いまだに理由がよくわからない。暑さのせいか。身内の逝去とか。
③ストレスへの対処
人によって問題への対処の仕方は異なる。
また一見同じに見える状況でも、ひどく辛く感じる人もいるし、大したことない!と楽観的に捉えることができる人もいる。
楽観的に捉える人を羨ましく感じることもある。
令和の時代は、「繊細さんも決して悪いもんじゃない」という考え方も出てきた。個性と受け取ってもらえるようになってきたのかな。
十把一絡げのブルドーザーのような理論で少数派が押し潰されていった昭和の時代よりは良くなっているかもしれない。あれは太平洋戦争の後だったから。繊細な感情よりもまず生きていくことが先だった。
④生きづらさ
しかし令和の時代もたいへん生きづらくみえる。
若い人は横並びを教えられているようだ。
ボランティアしていた大学で学生たちを見ていた。
少しでも人と違うことをすると、過度に緊張するみたいだ。一番先に手を挙げることを躊躇している。
自分の意見を小さな声でしか言えないので、何を言っているのかわからない。そんな人が多い。
日本の地域社会?職場?独特の無言の圧力は
存在しているし、いまだに日本の男性優位社会の根本は根強いものがあると私は思う。
若い人が萎縮して元気がない理由の一つは圧力だろうか。
③人に寄り添う職業
医師や医療関係者、弁護士、法律事務所のかた、
人の痛み苦しみを聴いて対処してあげる職業は、ほんとうに大変だなと思う。傾聴して寄り添い、クライアントの問題を解決するお手伝いをする仕事。
また教育に携わるかた。
生身の人間に日々接する。成長を見守る。
きっとやりがいがあると思うが、心から尊敬する。
個人的感想になります。
④お寺へいく経験
私はお寺へ行ってお経を誦えるのが好きだ。
特定の檀家ではないが、定期的に参拝して、機会があれば護摩供養などに参加する。
本堂で経を唱えていると、目に目えない大きなものと一体になれる気がしてくる。
そして気持ちがとても落ち着く。
この四国には空海が開いたと伝わる八十八札所霊場以外にもお寺がたくさんある。
宗派でいえば、真言宗が多いかな。
仏教の真理の追求は奥が深い。
御仏に帰依し、修行を積まれた僧侶の方々に敬意を表します。
⑤これからの仏教はどうなる
その一方で日本に仏教が伝わってからの寺院の歴史を繙いてみれば、時の権力者と繋がり経済的にも力を持って、政治にも関わった僧もいたことは事実であり、ここにも綺麗事で済まない人の心の闇がある。
現在も大きな問題になっている宗教と政治の闇は今に始まった事ではない。
たくさんの参詣者を集める寺、建築物、山門や経堂や塔などを含め、観光地として人気があり有名なお寺は沢山ある。
こういった寺院は、美しく整備され、経済的にも潤っているように見える。まるで繁栄している会社のようだ。
そうでない寺もいっぱいあり、実際ほとんどの寺が流行っているわけではない。
檀家が減り、お寺へお参りする信者の数が減っていく。かつては地域の中で学校や人が集まる重要な場所であった寺。僧侶も冠婚葬祭だけでなく、人の話を聴き地域をまとめる尊敬される存在だった。
檀家があっても経済的に費用がかかりすぎて本堂を修理することができなくなった寺。
住職が亡くなり、誰も住まなくなり、朽ちていく寺。
かつて寺があったところに残された墓地、数えきれない。ますます寺は減っていくと思われる。
その一方で新興宗教は隆盛であるようだ。
いつのまにか日本の政治にも深く関わっているらしい。
先祖崇拝を基にしてきた日本人の心はこれからどこへいくのだろう。
何を信じても個人の自由という時代だが、リスペクトの気持ちをどうか失わないでほしい。
⑥目に見えない何かとは
お坊さんの友人に話を聞く機会がある。
寺院もまた、経営していかないといけない。一定の収入がないとやっていけない現実。
昔は檀家の人々がボランティアでやってきた作業も、現在では価値観が変わって担い手がなくなった。きれいごとだけでは食べていけない。寺もまた維持していかなくてはならない。
人々の心と習慣の変化に日々向き合う僧侶たち。
彼の話を聞いていると私は、人の心から「目に見えない何かを信じる心」がどんどん消えていってるように感じる。これを信仰心というとオーバーもしれない。
これは心の中の大切な部分であると思う。
それをなくすと過度に金の価値に囚われたり、人を傷つけ殺めても自分さえ良ければいい、お金さえ手に入ればという考え方に繋がっていくのではないだろうか。
僧侶にも、職業的に僧侶をしているかたと、仏弟子として人と仏の世界を繋ぐ役目を志しているかたとがおられるように見える。
よく話してみると後者はとても悩んでおられる。
つまり自ずから目指すものと、経済問題を含めた現実が釣り合わない。
僧籍にある方は戒律という制約がある。
ある意味特殊な世界の仕組みの中におられる。
しかし僧侶にもまた悩みやストレスがあり、現代社会の中で生きる1人の人間。
僧侶も市井の人間と同じく孤独なのだろうか。
今日もすてきな一日をお過ごしください。
Have a nice time.
Take it easy❤️
生きとし生けるもの
みんなが幸せでありますように。
生きていることにありがとうございます。