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忙しさと余暇のバランス術:現代人が実践する充実ライフの秘訣

今振り返ると、かつての私は『忙しそう』にするのが好きでした。

朝はギリギリまで寝て、慌てて支度をし、日中は『忙しく』仕事に追われ、夜になればNetflixでドラマを観たり、夜通しゲームをして、明日も『忙しく』なりそうだと思いながら眠りにつく。朝はギリギリまで寝る…

思い返せば、コロナ禍は毎日、
22時から1時まで「Apex Legends」三昧
プレイ時間は1000時間超、
積み重ねというのは本当に恐ろしい
(でも後悔はしていない)

脱線しました。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、

私たちは『余暇』のために『忙しく』するのだ。
実際、『余暇』を持つことが最終的な目標であり、それを達成するために私たちは労働し、戦い、そしてあらゆる活動を行うのである。

と語ったといいます。

『余暇』を持つことが最終的な目標

それでは、当時の私が過ごしていた『余暇』とは一体何だったのでしょうか。Netflixやゲーム——確かに気晴らしにはなりましたが、

それは本当に『余暇』と
言えるものだったのだろうか?

また、アリストテレスが語った『余暇』とはどのようなものでしょうか。


1. アリストテレスの言う「余暇」

まず、

そもそも『余暇』とは何か?

を知らなければ、話が始まりません。

『余暇』という言葉の語源を辿ると、「学校」を意味するギリシャ語「schole(スコレー)」にたどり着きます。この言葉は、古代のギリシャでは『余暇』を利用して教養を身につけたところから由来したといいます。

要するに、古代のギリシャの哲学者たちが説いた『余暇』とは、労働者の労働の上に成り立っていた、生活に余裕のある貴族にしかできなかった『学問や芸術に専念し、幸福を実現するための自由で満ち足りた時間』だったということになりそうです。

アリストテレスが示した『余暇』とは、

ただ過ぎ去る時間ではなく、
自分の為に思索し、自己を高めることで、
誰かの思想から自由になるための時間であった

と、私は解釈します。

さて、先ほどのアリストテレスの言っていた

私たちは余暇のために忙しくするのだ。

を前提に考えると、

現代の私たちは
「忙しく」するために生きるべきか?
「余暇」のために生きるべきか?

当然、目指すべきは『忙しい』ことではないと分かります。
なぜなら、『忙しい』のは『余暇』のための手段に過ぎないからです。

じゃあ、目指すべきは

『忙しく』することではなく、
『自分の為になるような余暇』を生きること

と私は結論づけられると思います。


2. 『余暇』を妨げるもの

では、

『自分の為になるような余暇』と
私の過ごした『余暇』との間にある
ギャップは何だろうか?

振り返ってみると、かつての私は、2つのものに振り回されていました。

ひとつは先ほども話題に挙げた『忙しさ』
次々と押し寄せる仕事に追われ、自分で考える時間さえ奪われていた。他人の思惑を自分の考えであるかのように、忙しそうにパソコンに向かい、目の前のタスクをこなすことに精一杯だった。

もうひとつは「怠惰」
やっと手に入れた自由な時間を、ただ惰性でスマホをいじったり、YouTubeを流し見したりして怠けて過ごしてしまった。そこには本来の『余暇』の要素である「自分の為に思索」したり「自己を高める」といったことは存在しませんでした。

私は、この「忙しさ」と「怠惰」を行ったり来たりして時間をただ消費してきたわけです。そんな自分に違和感を感じることもなく、また気付いてもどうすれば良いのかわからなかったのだと思います。


3. 『余暇』はどうやって取り戻すか

育休を取得している今となっては、『忙しさ』から解放され、やっと手に入れた時間を「怠惰」ではなく、勉強や読書、noteでのアウトプットに時間を使えており、少しずつ『余暇』に近づけていると感じます。

それでは、

今の私から、当時の私や未来の働く自分に向けて、
アドバイスするとしたら何と伝えるか?

哲学者のセネカは次のように述べています。

『忙しい人』にとって、生活の営みほど無関係なものはない
学ぶことほど難しいことはない。彼らは生きることを学ばず、後になって生きることを先送りにしていたことに気づくのだ。

セネカ

また、ドイツの哲学者ヨーゼフ・パイパーは次のように述べています

『余暇』とは、世界と自分の関係について深く考えることであり、それは宇宙の神秘について考える能力を養うことだ。
『余暇』とは受動的な時間ではなく、精神が最も自由に羽ばたき、創造性が芽生える瞬間である。

ヨーゼフ・パイパー

これらの引用を踏まえて、どのように「本当の余暇」を取り戻すのか。
私はこう考えます。

1. 生活の営みを学ぶ

セネカの言葉にある通り、私たちはまず「生活の営み」について知る必要があります。しかし、これは意外と誰にも教わらずに、自己流の習慣が知らず知らずのうちに定着してしまうものです。料理、掃除、金銭管理、時間の使い方など、多くのことを一度しっかりと身につけておくことが、長い目で見て『余暇』の確保に繋がります。

  • 日々の健康のために、食べるものに気を遣おう

  • 生きるために、最低限のお金の勉強をしよう

  • 心を病まないために、自分の心を養う方法を学ぼう

  • 自分に合った効率的なライフハックを学ぼう

『余暇』にこのような「生活の営み」を見直すことで、日常から『忙しさ』を減らすことに繋がり、ひいては『余暇』の充実に繋がる正のスパイラルが働きます。

2. 書くことで創造性を育む

パイパーが述べているように、『余暇』は受動的な時間ではなく、創造性が芽生える瞬間です。その創造的な時間の一つとして、「書くこと」を取り入れるのは有効な方法かもしれません。

具体的なアクションとして、

  • 日記を書く: その日の出来事や考えたことを言葉にすることで、自分の思考を整理し、内省を深められます。

  • noteを書く: あるテーマについて自由に書くことで、自分自身の考えを深め、表現力を高めります。

  • 観察を書き留める: 日常の中で気づいたことをメモすることで、新しい視点を養えて、また日記やnoteのネタになります。

文章を綴ることで、『余暇』が単なる休息の時間ではなく、自分に気づき・自分を育てる時間になるので、とてもオススメします。

自分でも、『余暇』のために「生活の営み」を学ぶというのは、自分の中から出た意外な発見でした。私ももっと「生活の営み」を学びたいと思います。

3. 意識的な「余暇」の確保

前述の通り、『余暇』とは「自分のために思索や自己研鑽をする時間」。日々の中でそんな時間を確保できれば、誰がなんと言おうと『余暇』です。

通勤中でYouTubeを見るのではなく、窓の外を眺めながら考えを巡らせたり、オーディオブックを聴く。カフェでぼんやりとしたり、手帳にメモを書き出す時間を持つ。
そんな小さな意識の変化が、『余暇』の質と量を変えていくのかもしれません。


おわりに

長々、書いたのですが、おそらく少し前に読んだ「暇と退屈の倫理学」の内容がふと想起したのだと思います。

こんな感じの話がもっと読みたい方は、ぜひお読み下さい。

かつての私は、「忙しい」と言うことが、いつしか誇りになってしまっていました。
でも、今回気づいたのは、アリストテレスが言うように、「余暇」こそが人生の究極の目的であり、本当に大切なのは、

「どれだけ忙しいか」ではなく、
「余暇をどれだけ充実させるか」

改めて、この記事を書いて整理する中で、「余暇」のために「生活の営み」を学ぶというのは、自分の中から出た意外な発見だった。

料理をしたり、お金について学んだりしたいけど、そんな私が今最も学びたい「生活の営み」は、増えた家族の荷物を上手に「収納する術」を学びたいです。誰かお詳しい方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。


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胡椒 / こしょう
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