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映画感想 ベネデッタ

 聖女と魔女の区別は難しい。

 今回紹介の映画は。2021年にフランス・オランダ・ベルギー合作映画『ベネデッタ』。監督はオランダが恥じる変態監督ポール・バーホーベン。お話しの元になったのは、17世紀頃に実在した修道女ベネデッタ・カルリーニ。その生涯を研究したノンフィクション、ジュディス・C・ブライアン著作の『ルネサンス修道女物語:聖と聖のミクロストリア』を原作としている。
 このノンフィクションは17世紀に本当にあったらしい修道女同士のレズビアン関係を描いているのだが、出版された当時から「受け入れがたいもの」として出版そのものに対して抗議が起きていた。そのノンフィクションの映画化だから、発表の段階から物議を醸す。
 まず原作の著作者がクレジットから自身の名前の削除を要求。2021年に映画は公開されたが、カトリック団体が公開中止を求めて抗議デモを行った。こうした抗議デモはアメリカ国内でも複数箇所で発生する。シンガポール、ロシアでも宗教的問題に発展し、上映禁止となった。
 こうした騒動が起きたものの、アメリカ、フランスでは好評を博し、映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家によるレビューが201件あり、肯定評価は84%、一般レビューでも90%と極めて高い。カンヌ映画祭ではパルム・ドールにノミネート、女性映画批評家協会賞では主演女優賞、外国映画賞にノミネート。受賞は第93回ナショナル・ボード・オブ・レビューの外国映画賞のみであるが、様々なアワードでノミネートされた。世界中で騒動を巻き起こした作品であるが、評価はされた作品である。

 今回は出演女優さんの紹介をしましょう。

 主人公、ベネデッタ・カルリーニ。演じたのはヴィルジニー・エフィラ。1977年生まれ。撮影が2018年だから、この時41歳。41歳……!? 美人だから40歳を超えているとはまったく思わなかった。
 ヴィルジニー・エフィラはテレビ司会者としてキャリアをスタート。10年間テレビで司会の仕事をしていたが、2008年頃女優に転向。以降、様々なテレビドラマ、映画に出演してきた。しかしベルギー国内での活動なので、あまり国際的に存在が知られることはなかった(ベルギー国内では有名女優)。それが2016年のベルギー映画『ヴィクトリア』がカンヌ映画祭で好評を獲得し、同年ポール・バーホーベン監督『エル ELLE』に出演し、ようやく世界的に知られるようになる。そして2018年、ポール・バーホーベン監督とは2作目となる本作に出演。いま国際的な女優として歩もうとしている。

 そのベネデッタの相手役を務める女の子がこちら。バルトロメア・クリヴェッリを演じるダフネ・パタキア。1992年生まれなので、2018年の撮影時は26歳。両親はギリシャ人だが、出身も国籍もベルギー。アテネのギリシャ国立劇場で演技を学び、2015年から女優としてのキャリアをスタートする。出演作品はそれなりにあるのだが、あまりパッとせず。出演作品もあまり日本で公開されいない。2018年、ポール・バーホーベン監督の『ベネデッタ』に出演したことにより、ようやく国際的な知名度を獲得。同年、フランスのコメディドラマ『OVNI(s)』で主演に抜擢され、いま国際的な女優としてのスタートを切ろうといる。

 次は名女優。修道院長を務めるフェリシタを演じるシャーロット・ランプリング。1974年のイタリア映画『愛の嵐』で、上半身裸でサスペンダーで乳首を隠したスタイルで踊っていた女の子がこの人。女優として様々な映画に出演してきたが、キャリアとして頂点にあるのが2015年の『さざなみ』。ヨーロッパ映画賞女優賞受賞、全米映画批評家協会賞主演女優賞受賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞主演女優賞受賞……世界中でありとあらゆる女優賞を獲得し、名実ともに世界的名女優となった。

 ベネデッタに不審を抱く女性、クリスティナを演じたのがこちらの女優。ルイーズ・シュヴィヨット。1995年生まれなので、撮影時は23歳。母親は女優のルイーズ・シュビロット。女優の娘として生まれたけれども、下積みがしっかりしている。演劇学校で4年学び、モーツァルト・センター音楽院で1年学び、さらに国立高等芸術音楽院で3年学んだ。女優としてのキャリアはその後の2017年。本作は女優としてのキャリア4本目。これから大いに期待できる女優だ。

 と、こんなふうに国際的な名女優、これから注目されるであろう女優たちが集まって作られた映画。この後も、『ベネデッタ』に出演していたあの女優……とそういうふうに言われることでしょう。そういう意味でも注目しておきたい作品でもある。

 では前半のストーリーを見ていきましょう。


 ペシアはイタリアのトスカーナ州にある街である。17世紀、この街の修道院へ送られようとしていた少女がいた。名をベネデッタ。1590年生まれの彼女は、生まれようとした時に母親が死にかけ、しかし祈りによって回復し、出産した。そこで「祝福された者」を意味するベネデッタという名前が与えられ、生まれた時から修道院に入ることが運命づけられていた。
 ベネデッタ9歳の頃、いよいよ修道院へ向かおうとする時、その道中で傭兵集団に囲まれる。傭兵達はベネデッタ親子を襲い、金品を奪おうとしたが、少女ベネデッタは「聖母の罰が下るわよ」と傭兵達に警告する。傭兵達は笑うが、小鳥がやってきて傭兵達にフンを落とす。それに傭兵達は大笑いし、去って行くのだった。
 ようやく修道院に到着し、ベネデッタは両親と別れる。そこで粗末な服を着せられ、小さな個室が与えられる。
 両親と離れて、心細い……。幼いベネデッタは、夜中ベッドから抜け出し、マリア像に「マリア様、助けて、私は孤独です」と訴える。すると台座が壊れて、マリア像がベネデッタにのしかかる。マリア像の下敷きになったベネデッタは、目の前にあるその乳房を、そっと口に含むのだった。

 18年後。大人になったベネデッタは、劇場修道院で街の人たちを招いて演劇を披露していた。ベネデッタはイエス・キリストを演じていて、場面はそのキリストが処刑され、昇天される場面だ。その演劇の最中、ベネデッタは幻覚を見ていた。イエス・キリストが丘の向こうに現れ、自分に呼びかけていた……。
 演劇が終わり、両親を修道院に招いての食事会が始まる。ベネデッタは久しぶりに両親と再会し、楽しい気分で食事会を終える。
 その後、両親と別れようという時、修道院の扉がけたたましく叩かれる「扉を開けて!」――飛び込んできたのは、羊飼いの娘だった。父親に殺される! 私をここに入れて!
 修道院院長は「お金がない者は入れられない」と突っぱねるが、ベネデッタがその場にいた父親に頼み、お金を立て替えるからその子を引き受けてくれ……と懇願する。
 ベネデッタが無理を言って引き受けることになったので、その羊飼いの娘――バルトロメアをベネデッタが世話をすることになった。バルトロメアはずっと親や兄たちからレイプを受けていた。今朝のこと、その父親に反撃しようとハサミを持ったところ、逆襲を受け、逃げてきた……というのが経緯だった。
 翌日の朝、みんなで修道院に集まり、賛美歌を歌っていた。バルトロメアはベネデッタの後ろにそっと周り、お尻をなで始める。ハッとなったベネデッタは、幻覚を見る。自分の体に蛇が這い上ってくる幻覚だ。その幻覚はイエス・キリストが現れて救ってくれたが……。


 ここまでのお話しで前半24分。
 清く正しく育てられたベネデッタが修道院で美しい娘として成長する。ある日、バルトロメアという女を引き受けるが、そのバルトロメアから「性的なイタズラ」を受けたことを切っ掛けに、幻覚が奇妙な変化を始める……。

 レズエッチはいつ始まるんでふゅか!!
 という人は、もう少しお待ちを。映画が始まって1時後くらいのところでレズエッチが始まります。まずは、そこに至るまでのお話しを読み込んでいきましょう。

 ベネデッタ・カルリーニは実在した女性。1590年生まれ、1661年(71歳)にこの世を去る。ペッラーノ(現在のトスカーナ)のフラツィオーネ生まれ、村育ちだがその中でも裕福な家庭に生まれた。
 出産の時、母親が死にかけるほどに衰弱したが、父親が懸命に祈ったことにより回復し、出産した。そういう経緯で「祝福された者」という意味を持つ「ベネデッタ」という名前が与えられる。こうしたエピソードから、生まれた時から「この子は将来は修道院に」となった。

 いよいよ修道院へ行く……というその日、傭兵集団に止められ、金品を要求される。傭兵というか「盗賊」だね(ここでは以降「盗賊」とします)。
 そんな盗賊達に、ベネデッタは「聖母様の罰が下るわよ!」と言い放つ。
 するとそこに小鳥が飛んできて、盗賊達にフンを落とす。
 ……これは果たして“聖母による奇跡”なのだろうか? 奇跡というには、ちと微妙じゃないか? ただの偶然にも見える。
 これが本作のポイント。奇跡のような現象が起きるけれども、客観的には微妙なできごと。奇跡といえば奇跡だし、偶然といえば偶然……あえてどちらでも取れるような描き方をしている。ただし、ベネデッタ自身はそれを真実の“奇跡”だと信じ続ける。映画の中で様々なできごとが起きるけれども、純粋すぎるベネデッタ自身は「奇跡だ」と信じ続ける……そういうお話しである。

 街へ入っていきます。街に入ると、まず演劇をやっている集団を大きく映し、そこからカメラが引いていって、ベネデッタたちが現れる……という構成になっている。

 時代は17世紀。この頃、ヨーロッパではペストが大流行しており、イギリスやイタリアに限定すると人口の8割が死亡するくらいに猛威を振るった。世界的に見ても2割がペストで死亡。パンデミックの中心地であったヨーロッパは、大混乱に陥り、ここで社会習慣が大きく変わるくらいの変化があった。
 ちなみにペストは根絶されておらず、現在でも年間数千人が感染している。
 その恐ろしいペスト大流行の最中、流行っていた文化が『死の舞踏』。当時の流行りワードが『メメント・モリ』――「いつか訪れる死を忘れるな」だ。絵を見ての通り、死者が墓から出てきて、半狂乱になって踊り狂う……ただそれだけのものだった。演劇でも当時の絵画でも、『死の舞踏』をモチーフにしたものは多かった。
 そうしたペスト時代の陰惨な空気を、街に入ってきた最初のシーンで表現している。

 修道院へやってきて、まず院長は父親に「持参金150エキュ」を要求します。修道院に入ることは、キリストの花嫁になるということですよ、とても名誉なことですよ、さあお金を払ってください……ここで院長フェリシタがどういう人間かわかる。
 ベネデッタは村の中でも裕福な家庭に育ったが、それでも150エキュは厳しい。実際の話を見ても、ベネデッタの親がペシアの修道院を選んだのは、他の修道院よりも持参金が低かったからという。それでも「150エキュも取るの?」と驚いている。

 高い持参金を払って、念願だった修道院に入ったものの、割り当てられたのはカーテンで仕切られた小さな個室で、粗末な服……修行でやってきたのだから当然なのだけど。ベネデッタはこの頃から信心深い少女で、修道院に入ることは名誉なことだと認識していたが、さすがに心細くなってしまう。
 夜中、ベッドを抜け出して、マリア像に「マリア様、助けて。私は孤独です」とお祈りをする。すると突然マリア像を置いていた台座が崩れて、倒れ込んでくる。
 ちょうど、目の前にはマリア像のオッパイ……。幼いベネデッタは、その乳首に吸い付いてしまう。
 未来を予見するような場面。ただこの時は、心細さから。ある種の「子供返り」の一つだった。性的なニュアンスはこの時はなかった。

 さあベネデッタ、大人になりました。ベネデッタがやってきたのは「劇場修道院」……というらしい。Wikipediaにそのように書いてあるのだけど、劇場修道院がどういうところかよくわからない。ともかくも、こんなふうに地元の人を招いて、歌や演劇を披露することがよくあったらしい。ベネデッタはイエス・キリストを演じていて、その後ろにいるのはキリストの使徒たち。

 演劇はクライマックスへ。イエス・キリストが処刑され、神の元へ昇天しようとするとき、ベネデッタは「幻視」を見る。本物のイエス・キリストが現れ、自分に呼びかけようとする。
 なんだこりゃ……という気がするが、ベネデッタは本当にこの種の幻覚を見ていたようだ。ベネデッタの前に天使やイエス・キリストが目の前に現れ、託宣していったという……。
 この真偽は定かではないし、後の研究家は「ただの精神疾患、あるいは脳の障害では?」という仮説を立てているが、この映画が最初から提示しているポイントは、ベネデッタ自身は“真実”で“奇跡”だと信じ続ける。奇妙なできごとが起きるが、ベネデッタ自身は全て神による奇跡で、本当にイエス・キリストに声をかけられたと思い込む。

 さて、その演劇が終わり、久しぶりに会った両親と食事会をして、再び別れようというとき、修道院の門がけたたましく叩かれる。「開けて! 殺される! お願い開けて!」――ただならぬ声に、門を開けると、女とともに“羊の群れ”が一緒に飛び込んでくる。
 羊の群れ? さらにその後、“杖を持った男”が飛び込んでくる。
 おやおや? となるよね。さっき、ベネデッタが幻視で見ていたイエス・キリストの姿そのもの。理想の世界ではイエス・キリストは立派な美男子として描かれるが、現実世界ではただの暴力男。ここで「理想と現実」の差異が描かれている。

 羊とともに飛び込んできた女性がこの人。バルトロメア。父親から暴力を受けていて、逃げ出してきた女。院長は「金のない人は修道院に入れない」と相変わらずの守銭奴的な立場で発言するが、ベネデッタは父親に「修道院に入れてあげようよ」と懇願。父親が金を払うことで、バルトロメアは修道院に入ることになった。

 院長の反対を無視して、見知らぬ女を修道院に入れてしまう。そのため、「責任持って自分で面倒を見なさい」とベネデッタは指示を受ける。
 こういう人助けもクリスチャンの務め……とベネデッタは引き受けるのだけど、修道院でみんなと賛美歌の練習をしているところで、バルトロメアはこっそり後ろから近付き、お尻をなで始めます。いや、触り方からいって、お尻というか、股間の方を触っちゃってますね(こういう見せ方が“変態監督”らしいところ)。
 バルトロメアはなぜ急にベネデッタにセクハラを始めたのか。バルトロメアは母親が死んで以降、父親から“母親の代わり”をさせられていた。兄達からも同じように。父親と兄達から性的暴行を受けていたのだけど、バルトロメアの振る舞いを見ていると、セックスそれ自体に拒否感はなかったのだろう。たぶん、父親・兄達はセックスとともに暴力を振るっていたのではないだろうか。性的な行為は、バルトロメアの価値観の基準になっていたし、それ自体は悪いものという認識もなかったようだ。こういったセクハラが楽しいし、相手も喜んでくれる……そういう認識だったのだろう。

 バルトロメアからセクハラを受けた直後、ベネデッタはこんな幻覚を見ます。突然蛇が現れ、体に這い上ってくる幻覚だ。
 蛇。性的なもの、深層心理学的にいうと“男性器”の象徴。エデンの園でイブをそそのかした動物でもある。
 それがこんなふうに這い上がってくる。それが妙にクネクネして、エロく見える……エロく見える、というのは絶対意図的なもの。これはベネデッタの内面に湧き上がった性的欲望を表している。
 ところがそこに、イエス・キリストが現れ、蛇を斬り殺してくれる。これでベネデッタは、内的に湧き上がった性的欲求から解放される……という流れになっている。
 この場面を見ても、ベネデッタが見ている“幻視”は神や天使が与えた託宣でもなんでもなく、ただの“内的イメージ”を幻覚として見ているだけ……と察せられることができる。ただし、大事なポイントはベネデッタ自身は“真実だ”と思い込んでいる。本当に蛇が現れ、イエス様が救ってくれた……ベネデッタ自身の中ではそういうストーリーになっている。

 イエス・キリストの幻覚を見て、ベネデッタは神父に相談へ行く。神父は、
「疑わしいな。聖なる幻視は幸福感があるものだ」
 と答える。ベネデッタが、ただの幻覚と「本物の幻視」をどうやって区別できるのか? と問うと、
「痛みだよ。それがキリストを知る唯一の方法だ」
 と神父は答える。
 そうか、痛みを受ければいいんだ……。純粋なベネデッタは、その言葉をその通りのものと信じる。

 その後、バルトロメアができたばかりの糸を、熱湯に落とす……という事故を起こす。ベネデッタはその様子を見て、「熱湯に手を入れて、糸を取り出しなさい」と命じる。
 これはさっき受けたセクハラの反撃……とかそういうものではなく、「“痛み”を受ければ修道士としての本懐が成し遂げられる」という神父から聞いた教えを実践しようとしたから。
 しかしただ痛いだけだし、恨まれるし、「あれ?」という感じになる。

 バルトロメアの手を火傷させた罰として、シスター・ヤコパのお世話をしなさい、と命じられる。
 そのヤコパは病気で、体を満足に動かせない。たぶん、乳ガンだ。
 しかしヤコパは病気でただれた乳房を、「私の秘密の恋人」と表現する。その苦しみは、神から与えられた試練。その試練を受けているのは幸福だ。
 ああ、ヤコパは神からの祝福を与えられているんだわ……。
 ベネデッタは部屋に戻り、自分の乳房を見る。“右の乳房”です。幼い頃、マリア像が倒れ込んできて、ベネデッタはマリア様の“右の乳房”に吸い付きましたよね。ここで韻を踏んでいる。
 ベネデッタは自分はまだ神からの試練が与えられていないんだわ……と考える。

 その翌朝、ベネデッタは原因不明の激痛で目を覚ます。医者がやってきて診察するけど、原因不明。とりあえず鎮静剤を打っておきなさい……という状態になる。
 なんじゃこりゃ……となるけど、ベネデッタは純粋で思い込みが激しすぎる女性。「神からの試練をまだ受けていない」「私もヤコパのように痛みを受けたい」……そう念じると、体のどこかに痛みがあるかのような反応が出る。現代人の目から見ると何かしらの精神疾患では……という気がするが、本人はこれも「神から与えられたもの」と思い込む。

バルトロメア「残酷な人。私と一緒にいたい? 私は一緒にいたい」

 同じように体に傷を負った二人。神から与えられた苦痛を背負った者同士の連帯が生まれ始める。

 その夜、ベネデッタは夢を見ます。兵士達に追われ、暴力を受けそうになる。そこをキリストに救われるが……。
 キリストの姿がおかしい。覚えているかな。最初のシーン、盗賊達の中で、鳥の糞を受けた男。あの男の顔に変わっている。
 しかもこの男に暴力を受けそうになる。そこでベネデッタは目を覚ます。
 もうわかるように、ベネデッタの見ている夢や幻視や、本人の“内的イメージ”でしかない。でも相変わらずベネデッタはこういう夢を神秘体験だと思い込み続けます。
 夢やイメージの中で、“理想の男性像”だったはずのイエス・キリストは変質し、ただの暴力男のイメージにすり替わる。バルトロメアが飛び込んできたときに、一緒にやってきた羊飼いの男のような姿だ。ベネデッタの内的イメージから男性の姿が消えようとする。

 もうしばらく後、ベネデッタは再び夢を見ます。またイエス・キリストが現れる。イエス・キリストは「私の腰布を取りなさい」と命じる。言われたとおり腰布を取ると……そこは女性器。イエス・キリストが完全に女体化しちゃっている。
 “理想化した男性”がある程度の生々しさを持つと急に“暴力男”のイメージに変わり、再び理想化しようとすると“女性”の姿へ……ベネデッタの性への関心とともに、夢の中が変容し、男性への幻滅、女性への興味へと移り変わっていきます。
 こうやって見ると、やはりベネデッタの幻視や夢は、内的イメージでしかない。ベネデッタが求めているものが都合良く与えられているだけ……というのがわかるけれども、繰り返すけど、本人は“神の託宣”だと思い込み続けます。内面的に持っていた理想が、次第に女性への性的関心へ変質し、それを肯定するかのようなイメージに変わっていく……実に都合のいいイメージだが、ベネデッタはこれも啓示かなにかと思い込む。
 幻視の続きを見てみましょう。
 さらにイエス・キリストは「私と手を重ねなさい」という。ベネデッタは言われたとおり、イエス・キリストと手を重ねる。こういう体制だから、当然、体も重ねる。どことなく性的なものが漂ってきます。
 すると翌朝、掌、足から大量出血します。「聖痕(スティグマータ)」が現れます。
 いろいろ疑問があるが、まずイエス・キリストから啓示を受けるこの場面、なんでこんなにエロいの? それは宗教世界における「神秘体験」と「性的恍惚」はよく似ているから。
 ではここで、聖テレジアの「法悦」を描いたエピソードを取り上げましょう。

私は黄金の槍を手にする天使の姿を見た。穂先が燃えているように見えるその槍は私の胸元を狙っており、次の瞬間槍が私の身体を貫き通したかのようだった。天使が槍を引き抜いた、あるいは引き抜いたかのように感じられたときに、私は神の大いなる愛による激しい炎に包まれた。私の苦痛はこの上もなく、その場にうずくまってうめき声を上げるほどだった。この苦痛は耐えがたかったが、それ以上に甘美感のほうが勝っており、止めて欲しいとは思わなかった。私の魂はまさしく神そのもので満たされていたからである。感じている苦痛は肉体的なものではなく精神的なものだった。愛情にあふれた愛撫はとても心地よく、そのときの私の魂はまさしく神とともにあった。この素晴らしい体験をもたらしてくれた神の恩寵に対して、私はひざまずいて祈りを捧げた。

 これ、色んなところで引用されるので、私も何度も見たのだけど、初めて見たときから「なんかエロい……」というか、「これエロいよね」と昔から色んな人が指摘している部分である。天使の槍が胸を突き、何度も付いたり抜いたりして、そのたびに快楽が高まってきて……。その天使の槍、ペニスじゃございません? 聖テレジア、単にエロい夢を見ただけじゃないの?
 こういうところからわかるように、宗教的神秘体験と、性的エクスタシーはどことなくよく似ている。中にはこれを取り違えちゃう人もいるし、意図的に誤解してエロ宗教を作る悪い奴も出てくる。新興宗教なんかもだいたいエロ要素があるのは、このため。
 夢の中で苦痛を受けているとき、ベネデッタは「ああっ!」悲鳴を上げるけど、この声の出し方がやっぱりなんとなくエロい。エロく聞こえるのも、たぶん意図的なもの。ポール・バーホーベン監督だから狙ってやっているんだろう。
 こういう体験を幻視の中でしたため、ベネデッタは次第にセックスを忌避するものではなく、神秘体験とバルトロメアとの繋がりを強めるためとして、肯定するようになっていきます。


 聖痕(スティグマータ)が出現して、「ベネデッタは聖女ではないか?」と修道院の中でも言われ始めます。しかし院長は「額に傷がないからアタシは認めないよ!」と突っぱねます。
 その直後、ベネデッタの額から出血し、明らかに何かが乗り移った声に変わり、

「罪だ! 罪人共よ! 知るがいい! ペストが国を襲うが、ペシアの街は我が花嫁の聖寵により助かる! なのにお前は、その女を苦しめている!」

 ……この場面を見て、半分くらいの人はこう思ったでしょう。「悪魔憑き」っぽくない?
 そう、これもキリスト教が抱える葛藤。「聖人の奇跡」と「悪魔による魔術」の区別が曖昧。キリスト教は昔から魔術は忌まわしいものとしていて、最近でも「『ハリー・ポッター』は邪悪なもの」という立場でいる。十数年前、世界的に『セーラームーン』が流行った時期があったのだけど、保守的な親たちから「あんな魔術を使ったアニメは見てはいけません」みたいに言われる子供も多かったとか。
 それくらい、キリスト教世界では魔術は禁忌、忌まわしいものと見なされている。
 しかし、「聖人の奇跡」なら良い……としている。キリストが水面を歩いたとか、モーセが海を割ったとか……どっちも魔術にしか見えない。「奇跡」と「魔術」どう違うんだい?
 これがキリスト教世界がずっと抱え続ける葛藤。区別が曖昧。その時々で判断が変わる。だから聖人が悪魔の手先とされたり、魔女と呼ばれた女性が死後聖人にされたり……。判定が曖昧だからこういうことになりやすい。

 ベネデッタに聖痕が現れた……。この様子を見て、神父は「奇跡だ!」と感激し、ベネデッタに修道院院長の座を渡す。

 その直前、院長と神父はこんな対話をしている。

院長「アッシジはいま巡礼で溢れています」
神父「この町もやがてそうなる」
院長「ご自身も司教に昇格?」

 と話し合って、院長はこんな表情でニヤリと笑う。この二人、実は信仰心0。神も信じてないし、ベネデッタの聖痕も信じてない。欲しいの金と権力。ベネデッタの聖痕が本物かどうかわからないけど、“そういうこと”にしておけば巡礼者が一杯来て、大儲けするぞ、ウッシッシ……と企んでいる。
 そこでこの神父は、聖痕を受けたベネデッタを見て、大芝居を打ちます。「これは奇跡だ!」と。さらにベネデッタを院長の座に就けてしまう。

 それに反発したのが、院長の娘であるクリスティナ。
 クリスティナが反発するのは、母親が院長を下ろされたことが納得いかない……というのもあるけど、「マトモ」だから。マトモな感覚で、客観的に状況を見て、「いや、あれはインチキでしょ」と訴えてる。
(振りかえると、子供の頃からクリスティナはベネデッタの周囲に起こる“奇跡”を懐疑的な目で見ていた。これも、クリスティナが「マトモ」だったから)
 それに対し、母親である院長は「アンタの味方にならないよ」と告げる。確かにいきなり院長の座を降ろされたのは不本意ではあるけども、しかしそうしたほうが修道院はより大儲けできる。その勘定をしたうえで、引き受けていた。
 しかし修道院の中で「純粋な修道女」として育ってきたクリスティナは、そういう「大人の勘定」が理解できない。母親もそういうことは口にするもんじゃないから、直接は言わない。言外にほのめかすけれど、ぜんぜんクリスティナに伝わらない。クリスティナは「なんで? なんで?」となる。
 クリスティナはクリスティナで正しいと思うことをしようとするけど、これが悲劇を招いてしまう……。

 さて院長となったベネデッタ。院長室でベネデッタとバルトロメア、二人きりの環境が生まれます。そこで二人はようやく、周りの目を気にすることなく……。

 はい、ここまで! レズセックスシーンを見たかろう? ここでは一切見せません。そこは本編を見なさい! 一杯キャプションしたけれども、お前らには見せてやらん!
 ただ、本作はあの変態監督で知られるポール・バーホーベンの作品。上半身だけ見せて、なんとなく「セックスしているふう」みたいな、ぬるい画面作りはやりません。かなりしっかりとレズセックスをやります。そこは期待しても良い。

 映画本編の説明もここまで。映画を理解するための前提がここで全部出そろったので、後半はその結果・顛末が描かれる。そこは映画本編で見届けましょう。

 まとめです。
 17世紀に実在されたという、謎の聖女・ベネデッタ。その生涯を描いたこの作品。一見すると嘘みたいな話だけど、わりと本当。実際のベネデッタも頻繁に幻覚を見て、ある時イエス・キリストが夢の中に出てきて、そのキリストと手と足を合わせると、翌朝、聖痕が現れたという。その時、激しい痛みとともに喜びを得た……という例のエロい神秘体験もする。
 その後、いきなり死んで、いきなり復活する……というエピソードも本当。聖痕を受けた後、大出世して院長となり、バルトロメアと性的関係にあった……というエピソードもどうやら本当。
 実は意外と史実通りに描かれている。ただ、そこに現代的な視点が加えられている。
 まずベネデッタが起こす「奇跡」というのがなんとなく微妙。奇跡といえば奇跡だし、偶然といえば偶然……。意図的にそういう微妙なラインで描いて、見ている人に解釈を委ねるような作りにしている。

 ベネデッタが頻繁に見る幻視も、微妙な内容に描いている。現代的な深層心理学的な視点で見ると、ただの内的イメージの具現化にしか見えない。
 ただ、何度も繰り返すけど、ベネデッタ自身はこれらすべて“真実”だと思い込み続ける。“悪魔憑き”にしか見えない声も、本人は演技しているつもりではなく、真実だと思い込んでいる。
 ただし、その一方で真実かも知れない……という描き方もしている。例えば両手両足に聖痕ができる場面。自作自演……としてはあまりにも傷が深いし、それ以前に傷を作るための道具が出てきていない。さらにベネデッタの言うとおりにして、事実ペシアの街は黒死病から免れている(これは映画内の話ではなく、本当の話)。それに、数日間仮死状態になり、突然復活した……というエピソードも事実。科学的な解釈のできないようなことがいくつもある。
 現代人の目線では、何かしらの精神疾患では……そのように見えるけれども、実は実は本当に神の啓示を受けた奇跡が起きていたのかも知れない(現代人は目が曇っているから、ベネデッタの起こしている奇跡が理解できないんだ、深層心理学的な視点も現代人特有のバイアスに過ぎないんだ……という見方もできる)。そっちのほうの含みも作品は残している。

 ベネデッタの神秘体験を、バルトロメアもクリスティナも信じていない。ついでに院長も神父も実は信じてない。信じられないのは、信仰心が足りないせいか。それとも本当にベネデッタのペテンだったのか……。
 ただペストが猛威を振るった時代。ベネデッタが院長となり、街を封鎖したから、この町はペストから守られた……というのも事実。なんだったら街のみんながベネデッタを信じ、「希望の象徴」になるんだったら、聖女ってことにしておけばいい……こういう意見もある意味で利口とも言える。
 しかしキリスト教の世界では「聖女」と「魔女」の境界が曖昧。手や足から出血する女は、ある視点からすれば聖女だし、ある視点からすれば魔女。院長は後半、ある理由でベネデッタを「魔女」として告発しようとしてしまう。「聖女」と「魔女」見方一つでコロコロと変わってしまう。キリスト教の葛藤もしっかり描いた作品だといえる。そういう時代に振り回された、とある女性の物語とも読み取れる。
 精神的な病を背負ったとある女性の話とも読めるし、一方でこの時代の聖女として宿命づけられた女性の悲劇物語とも読めるし……。あえてどちらとも読めるように作ってある。この複雑さがこの作品の醍醐味だ。

 ただ、題材として変態監督ポール・バーホーベンのやりたいことが全部詰まった作品だったといえる。エロと暴力。あけすけなものが詰められているのに、それが格調高い映像の中で成立している。なおかつ、複雑な解釈を持つストーリーにもなっている。ポール・バーホーベン監督からすれば「やったぜ、やりたいもの全入りのいい題材を見つけた」……とは本人は言わないけど、そういう作品になっている。ポール・バーホーベン監督が好きな人は、絶対見るべき映画なのは間違いない。


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