映画感想 エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
選択しなかった人生に幸福はあるかも知れない。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』……何度聞いても覚えられそうにないので、『エブエブ』でいいでしょう。
2022年3月に劇場公開されたこの作品は、劇場公開中にも大絶賛され、世界で1億ドルの収益を上げ、ゴールデングローブ賞、インディペンデントスピリット賞の主要賞を独占し、ナショナルボードオブレビューとアメリカンフィルムスティテュートによって2022年度ベスト映画に選出。全米監督組合賞、全米プロデューサー組合賞、全米脚本組合賞、全米映画俳優組合賞その他をもぎ取り、満を持して迎えたその年の米国アカデミー賞では作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、脚本賞、編集賞を獲得した。アジア人女性がアカデミー賞主演女優賞を獲得するのは史上初である。最終的に『エブエブ』が獲得したトロフィー数は、2003年の『ロード・オブ・ザ・リング 第3章』が打ち立てていた記録を上回り、史上最も多くの賞を獲得した映画となった。クセモノ映画ばかり制作するA24製作作品の中でも最高の収益を上げ、2022年を象徴する映画にもなった。
ただこの作品を誰もが大絶賛……というわけでもなく、実際には賛否両論映画。「まったく面白くない」という人も多く、見る人を選ぶ作品だ。実は私も……なんでこの作品がアカデミー賞? と思っている。
まあその辺りも含めて、詳しく掘り下げていきましょうや。
まずは前半のあらすじ。
エヴリンは朝からイライラしていた。これから国税局へ行き、税の申告をしなければならない。今年1年の領収書をテーブルに広げて、計算していた。仕事はそれだけじゃない。その間にも自分が経営しているコインランドリーには客がやってくる。呼び出しを受ける度に領収書の計算を中断して、店に出なければならない。中国からやってきた高齢の父親の面倒を見なければならないし、反抗期の娘は「恋人だ」と言って女の子を連れてくるし……。
休まるときは一時もない。頭が痛くなることばかりだった。
やっと国税局へやってきて、エレベーターに乗り込むと……突然夫のウェイモンドの様子がおかしくなって、
「君に危険が迫っている」
と言い始める。
「監査官との話し合いの時に、この指示に従うんだ。でもいいか。誰にも言うな。僕もこのことを覚えてないから」
いつも穏やかな夫とは思えない切迫した様子。いったいなに? 当惑している間に、ウェイモンドはいつもの様子に戻っていった。
いったい何だったんだろうか。夫がおかしくなったのか、自分が幻覚を見ているのか、ひょっとするとからかわれているのだろうか……。エヴリンは困惑したまま、監査官のもとへ向かった。
監査官の元へ税務申告に向かうと、監査官はすぐに「問題点」を指摘する。
「教えていただけますか? コインランドリーの経営者が、なぜカラオケマシンが業務の経費になるのでしょうか?」
監査官は見逃さない。確かにカラオケマシンはコンランドリーに相応しくない。夫のウェイモンドはどうにか言い繕おうとするが……。
その間、エヴリンはエレベーターから夫に渡されたメモを見る。
1、靴を左右逆に履く。
2、用具室にいると想像する。
3、緑のボタンを押す。
その指示にこっそり従うと――急に自分が“2つ”に分かれたようになった。エヴリンは監査官の目の前にいると同時に、用具室にいる……という状態になった。そこで“もう一人のウェイモンド”が現れる。
「落ち着いてくれ。身を任せて。説明しよう。僕は君の夫じゃない。別の宇宙で暮らしている別の彼だ。そして君の力を借りに来たんだ」
果たして夫は何を言い出しているのだろうか。いま自分が直面しているこれは妄想? それとも真実?
動揺している間に監査官との話し合いが終わり、「今日6時までに再提出するように」と指示を受ける。
エヴリンと夫はそのまま立ち去ろうとするが……。エヴリンはいきなり監査官を殴る。
「なんなの、いったい! 信じられない!」
監査官は鼻から血を噴き出して倒れる。警備員が殺到する。追い詰められたそこに、“もう一人のウェイモンド”が再び現れるのだった。
ここまでで前半30分。
あらすじを読んでても意味がわからんよね。まあ細かいところはこれから掘り下げていくんだけど……。
ちょっと待て。
この映画、『マトリックス』だろ。
『エヴエヴ』国税局の監査官に問い詰められている場面。
『マトリックス』トーマス・アンダーソンが上司に怒られている場面。
『エブエブ』エヴリンがカンフーを習得する場面。
『マトリックス』トーマス・アンダーソンがカンフーを習得する場面。
『エブエブ』カンフーを習得したエヴリンが身構える場面。
『マトリックス』カンフーを習得したトーマス・アンダーソンが身構える場面。
『エブエブ』監査官に追われる場面。
『マトリックス』エージェントに追われる場面。
他の人の感想をちらちらと見てきたのだけど、なぜか誰も『マトリックス』に言及していない。Wikipediaにも『マトリックス』についての記述がない。『エブエブ』はいろんな映画のパロディがあるのだけど、なぜか『マトリックス』についてはみんなスルーしている。
でもお話しの構造がそっくりだ。
『マトリックス』
トーマス・アンダーソンは繰り返しの日々に鬱屈を抱えて、本当の自分は違うのではないか……と疑い始める。そこにモーフィアスが現れ、真実の世界に気付き、本当の敵と戦うためにカンフーを身につける。
『エブエブ』
エヴリンはコインランドリー経営の退屈な日々に鬱屈を抱えて、毎日「あの時こうしていたら」……と妄想していた。そこにもう一人の夫が現れ、別世界の真実を知り、本当の敵と戦うためにカンフーを身につける。
基本的なお話しの構造が一緒。ただし描かれているモチーフが違う(カンフーという共通点があるけど)。『マトリックス』を元ネタに、置き換えと組み替えをした作品が『エブエブ』だ。
実は『マトリックス』が元ネタだ……という視点でこの作品を掘り下げていこう。
では最初のカットから。
映画が始まって最初のカット。鏡の中に、主人公エヴリン、夫ウェイモンド、娘のジョイの3人が映っている。しかし鏡に映っている映像は現実の姿ではなく、「こうありたかった」という理想図。
この作品には丸い鏡や、「円い何か」がやたらと出てくるのだけど、円く切り取られたフレームは、「現実的な世界」ではなく、すこし「現実離れした何か」を覗き込む……というニュアンスの時に多い。これもおいおい話そう。ここでは「円い鏡」に映っているから、即座に「現実の風景ではない」ということがわかる。
ここに描かれている鏡は、描写としては「鏡」なのだけど、映画用語でいうところの「アイリス・イン」。昔のアニメでオチの時によく使われていたやつ。鏡の中にしばらく「理想の家族像」が映し出されたと思ったら、鏡の角度が変わり、「現実」が映し出される。
続きのカットです。鏡の向こうに、こんな風景が映し出される。
これは黒澤明監督の映画『生きる』みたいなカット。正面から映し出された1カットでこの女性が何者で、どういう状態にあるかが説明されている。画面の隅々までぎっしり詰め込まれたディテール。抜けの悪い画面の中に、ちんまりと座っている中年の女性。テーブルには山のような領収書……。この1カットだけで「あまりいい暮らしをしていない」……ということが伝わってくる。
ポイントとなるのが、右上の洗濯物を入れた袋に付けられた目。この目で、「何者かに覗き込まれれている」ということを示唆している。あと、あまりにも現実的な風景に、ちょっとしたファンタジーを感じさせる仕掛けになっている。
娘のジョイ登場です。まあ……お世辞にも美人とはいえないよね。現状のエヴリンは「こんなはずじゃなかった」という人生を歩んでいる。娘のジョイはその象徴的な存在。だからあえて美人じゃない。太っている。しかもレズビアン。「こんなはずじゃなかった」「どうしてこなったんだろう」……そういう想いを映した風貌で描かれている。登場シーンのこの表情も、「母親から愛されていない自分」が表現されている。
コインランドリーの風景も、「円」だらけ。円い窓の中で洗濯物がえんえん回り続けている。退屈な日常の繰り返し……というニュアンスが込められている。
エヴリンはなにげなく、コインランドリーに設置されているテレビに目を向ける。インド映画っぽいミュージカルが映し出されている。エヴリンはずっと「こんなはずじゃなかった」……という現実の中にいて、ミュージカル映画の夢みたいな光景を見て、「ああだったらいいのに……」と思っている。
後々わかることだけど、エヴリンは実はとんでもなくポテンシャルの高い女性でもあって、別世界のエヴリンは格闘家で映画スターで歌手で料理人で……と様々な人生を歩んでいる。たいていの人は別世界に行ってもだいたい似たような人生を歩んでいるのだけど、エヴリンは様々な可能性を持っている女性だった。
しかしこの世界のエヴリンは何もかもを諦めてしまった。なにも成し遂げられなかった。何の能力も持たないおばさん。だから逆に、真っ白だったからこそ、別世界のありとあらゆるエヴリンを憑依できる存在になっていた。
さあエレベーターのシーン。ここまでに「何か変だ」という描写がちらちらと描かれてきたけど、はっきりとおかしなシーンが始まった。
見所なのはウェイモンド役のキー・ホイ・クァンの表情。はっきりと別人になっている。動きはコミカルなのだけど、表情だけでいきなり別人になる……という見せ方が面白い。
いきなり夫が行動的になる。これもエヴリンが「こうだったらいいな」と思っている夫の姿。いつも穏やかでニコニコしているけど、頼りない……エヴリンはそう思っていた。「別世界のウェイモンド」ということになっているけれど、実際にはエヴリンの理想が反映された姿になっている。
国税局の監査官登場。『マトリックス』でいうところのエージェント。
映画がはじまって最初のカットと同じく、正面からの1ショットでこの人が何者かが説明されている。このカットのポイントは、衝立がやたらと低いこと。衝立が低いことで周囲の情報が目に入ってくる。それでなんとなく落ち着かないカットになっている。なんとなく威圧感があるように感じさせている。
またまた出てきました、「円」のモチーフ。このカットで重要なのは、「カラオケ機器」についてではなく、円のモチーフを見せること。この監査官も、エヴリンの内的世界の一つだ……ということがここで示唆されている。
別世界の自分とアクセスするには、なにをすればいいのか? それは普段絶対やらない、奇妙な行動を取ること。すると「今の自分」ではない「別の自分」の可能性が一瞬開かれる。その瞬間、イヤホンのスイッチを押すと……という仕組みになっている。
ここからの描写が面白いところで、現実のエヴリン自身はしっかりと監査官の前に居続けている。その一方で、意識の半分は別世界に飛んじゃっている。ある意味、「エヴリンの妄想かも知れない」……という光景が描かれている。そして実は「半分本当」で「半分ただの妄想話」というのがこの映画のポイント。
実はぜんぶエヴリンの妄想話で、「こんなはずじゃなかった」という自分の人生とどうにかこうにか折り合いを付けようとしている……という話にも読み取れる。なにしろ、映画中に描かれているドタバタを「全部妄想話でした」ということにしたって、このお話、成立するのだから。作り手も意図してそういう作りにしている。
さあ警備員がやってきて、ウェイモンドが急に別人になってとんでもない身体技を披露する。実はウェイモンドを演じたキー・ホイ・クァンはアクションコーディネーター。こういう格闘シーンの演技指導していた人なので、とんでもなく身体能力が高い。一見すると地味でどこにでもいるような中国人のおじさんに見えて実は……というのを地でやっている。なかなか凄い人だ。
ちなみに非現実的な活劇シーンに入ると、画面サイズがシネスコープになる。シネスコープのシーンが全部「妄想」と解釈することもできる。
実は別世界では「崩壊」が始まっていて、エヴリンは崩壊の危機を救う救世主だった……。このシーンも『マトリックス』のネブカドネザル号に雰囲気を似せて作っている。
事件が起きて野次馬が集まってくる。その野次馬達が次々とエヴリンを追い詰める敵になっていく……。ここも『マトリックス』の通行人がエージェントに姿を変える場面に似ている。
これも「こうだったらいいな……」というお話し。エヴリンは「こんなはずじゃなかった」という人生を歩んできていたから、頭の中で思い描いている「こうだったらいいな」をそのまま描いている。そしてこれはすべて「妄想話」かも知れない。
ここが『マトリックス』とそっくりなところ。『マトリックス』でもトーマス・アンダーソンは「こんなはずじゃなかった」という退屈な人生を歩んでいる。「現実はとっくに崩壊していて、俺が世界を救う救世主だったらいいのに……」という妄想話が『マトリックス』。で、『マトリックス』の場合は、その妄想が現実になっちゃうという話。
一方、『エブエブ』は「現実かも知れないけど妄想かも知れない」という曖昧なポジション。ここが『マトリックス』とは違うところ。現実かも知れないけど妄想かも知れないから、わざと描写を馬鹿馬鹿しく描いている。あえて本気で描写をしていない。一歩引いて、半分本気・半分ギャグという描き方をやっている。
さあカンフースターとして目覚めたエヴリン。世界中の誰もが知っていることだけど、ミシェイル・ヨーといえば中国のアクションスター。そんなミシェイル・ヨーが普通のおばちゃんを演じる……というのがこのお話のポイント。監査官を殴るときの、腰の入らないしょぼいパンチが信じられない。やっぱりアクションスターとして動き回っている姿のほうがミシェイル・ヨーらしい。
すると「アクションスターだったかも知れない自分」のほうに吸い寄せられてしまう。「こうなりたかった自分」がまさに現実になった世界。
……ってちょっと待て、この構図は『タイタニック』だろ!
こういうところで本気なのかギャグなのかがわからなくなる。
ああ、キラキラしたあっちの私の方がいいわ……とついアクションスターになった世界へ行ってしまう。
が、掘り下げていくとこっちの自分も実はさほど幸福ではない……ということに気付く。
他の世界へ行っても、他のあらゆる世界ではエヴリンは自己実現を達成して、大成している。しかしどの世界に行っても幸福ではない。一番好きだった人と結婚できていない。実は、一番「こんなはずじゃなかった」という人生の時だけ、結婚できていた……ということがだんだんわかってくる。好きな人と結婚できた、もっとも幸せなはずの世界線が、幸せだと感じることができない……これがこの作品の大きなポイント。
いきなりやってきた、「指がソーセージ」の世界。その世界ではなんとあの監査官とレズビアンの関係だった……。
これはエヴリン自身が一番「望まない人生」の時の姿。「指がソーセージ」というのもだけど、あの憎たらしい監査官が自分の恋人。しかもレズビアン……。現実世界の「嫌だ」と思うできごとを凝縮した世界観になっている。
どうしてこんな世界観を描いたのか……というと、エヴリンがこの世界を受け入れられるかどうか。この世界を受け入れ、愛することができるだろうか……エヴリンにとっての課題としてこの世界観が描かれている。
言うまでもなくスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』のパロディ。
なぜ世界の崩壊が始まったのか……それは「娘」が原因だった。
「アルファバースで君は若者にジャンプの訓練を始めた。やがてその中に優れた才能を持つものが現れた。君は彼女の才能を伸ばすために、限界を超えて追い込んだ。普通は精神をやられるが――彼女の場合、精神が砕け散った。彼女はいまやあらゆる世界を経験している。あらゆる可能性をまったく同時に体験して、マルチバースの無限の知識と力を操る。だが倫理観も客観的真実を信じる心も喪った」
それがジュジュ・トゥブーティ――こちらの世界ではエヴリンの娘であるジョイだった。
この映画の中で何度も出てくる「円」のモチーフ。円は繰り返しのイメージであり、その繰り返しをすべて包括する「宇宙」のイメージでもある。その究極形が「ベーグル」……というのはこの作品のジョーク――半分本気・半分ギャグという立場を作るため。だけどあのベーグルが崩壊すると、すべての宇宙が崩壊する……なんてバカバカしい話を信じられるかどうか、が作り手側としての課題。うまくいっていれば大成功。「いや無理がある」と言われちゃったら大失敗……ということになるのだけど、この映画は最終的にだいたいの観客がこのバカバカしい前提を受け入れちゃった。そういう気分を作っちゃったというのがこの映画の凄いところ。
ついには「石」になってしまったエヴリンとジョイ。これもあり得たかも知れない別宇宙の自分。
ジョイ(石)「長い間こうして閉じ込められ、すべてを経験したけど、私に見えないものをあんたが見て、別の生き方を教えてくれると期待してた。なぜベーグルを作ったと思う? すべてを破壊するためじゃない。私自身を壊すため。やっと抜け出せるか確かめるため。実際に死ぬように。せめてここだけ。ここだけは付き合って」
ジョイはすべてのマルチバースの力と知識を自在に操れる無敵の存在になってしまった。しかしゆえに苦痛を感じた。すべての力を自在に操れるけど、意味がない。それでなにができるのかって何もない。ただただ虚無なだけ。だからすべてを破壊するための、ベーグルを作った。
ここで娘の気持ちとエヴリンの気持ちが重なっていく。エヴリンはマルチバースに展開するあらゆる自分を体験し、あえてそれぞれの世界が崩壊するように仕向けていく。自棄っぱち。世界が壊れるなんて知ったことか。むしろ逆に壊してしまえ……。
そこで額の第3の目が開く。エヴリンが本当に覚醒した瞬間。
なぜエヴリンは目覚めたのか。ベタな話かも知れないけど、愛する夫がいたから。頼りなく見えるかも知れないけど、あの人がいたから確かに幸福だった。他の世界では自己実現を達成できたかも知れないけど、愛する人はそこにいなかった。実は、「こんなはずじゃなかった」と思っていた世界こそが、一番幸せだった。それに気付いた瞬間、「すべてを受け入れよう」という気持ちになった。
さあここからエモいシーンの連続です。ずーっとスロー撮影シーンが続き、周囲には意味もなく紙切れが飛び交います。
でも実はやっていることはとんでもなくバカバカしい。なにやってんだ? というシーンの連続だけど、こんなバカバカしいシーンをいかに「エモい」と思わせるかがこのシーンの見所。
ここにきて、これまでエヴリンが受け入れられなかったこと、エヴリン自身が破壊してきた別世界をすべて回収していく。この物語で描かれる「別世界」は「完全なる別世界」ではなく、かなり連なりを持った世界観。半分本当であり、半分「ただの妄想」かも知れない。半分妄想かも知れないけど、その世界における葛藤を一つ一つ解消していくことには意味がある。それがいま目の前にある「この世界」を再生することだから。
そして見事成功し、実は幸福だった現実……に再び着地する。映画の冒頭、最初のカットに描かれていた「幸福な家族」を現実にすることで映画は終わる。
映画の解説はここまで。ここから感想文。
まあ変な映画だよね。シリアスになりかけたらあえて崩す。ふざける。ギャグを入れた後はちゃんとシリアスなシーンを入れる。見ている間ずっと変な揺さぶられ方をする。ちょっと古い映画だけど『銀河ヒッチハイクガイド』を思い出す。おかしなシーンの連続だけど理にかなっている。一見ふざけているだけに見えて、哲学的。『銀河ヒッチハイクガイド』を思い出すな……と思いながら見ていた。
それにしても、なんでこんな奇妙な映画がアカデミー賞を獲ってしまったのか? ……いやぁ、本当になんでだろうね。
ポイントの一つはずっと現実に接地し続けたこと。お話しの構造はほとんど『マトリックス』と一緒だ。現実に鬱屈と違和感を感じている主人公が、別世界へ招かれて、そちらの世界では自分は救世主だった……。『エブエブ』と『マトリックス』はストーリー構造が一緒。
では何が違うか、どこで『エブエブ』と『マトリックス』とで評価を分けたのか……というと『エブエブ』はずっと「現実」に接地し続けたから。『マトリックス』は「バーチャル世界」という空想の世界へ行ってしまった。SF好きな私にとっては『マトリックス』みたいなストーリーは大好きだけど、実は私みたいなタイプは大きな世間全体で見ると超少数派。大多数の“一般層”は『マトリックス』みたいな映画を観て「そんなわけないだろ。バカバカしい」という印象を抱く。「あんなお話し、現実的じゃない」……その一言で終わる。
もう一つの例として『ダークナイト』という映画がある。ヒーロー映画でありながら、恐ろしいまでのリアリティを持った作品で、現実に対するある問いを提唱している。私も『ダークナイト』みたいな映画は大好物だけど、実はこういった映画が大嫌いという人々も多い。「彼氏に『ダークナイト』っていう映画を見せられたんだけど、クソつまらなかったわ。あんなの現実に起きるわけないじゃない」……女の子口調で例を出したことからわかるように、女性層から見ると『ダークナイト』って「意味不明な映画」なんだそうだ。『ダークナイト』を絶賛しているのって、実はほとんどが男性客なんだそうだ。
私たち映画好きは『マトリックス』や『ダークナイト』といった作品が大好き……しかし、特にそうでもない人が見ると、「なんだあれ?」ってなる。作品がどんなテーマを語っているとか、そんなものを読み取ってくれない。「あんなの、現実で起きるわけないじゃない」……それだけで終わってしまう。世の中の一般層って、案外こんなもんなんだ。
そこで『エブエブ』はどうかというと、『マトリックス』的なお話しの始まり方だけど、エヴリンはそのまま「あちらの世界」へ行って救世主になる……というわけではない。ずっと「こちら側」に留まり続ける。
さらに『エブエブ』が描いているマルチバース・異世界はどれもいわゆるな“異世界”というのではなく、すべてエヴリンの妄想が生んだもの。『エブエブ』のお話しの中では大立ち回りが描かれるけど、実はすべてエヴリンの妄想話かも知れない。別の世界ではエヴリンは映画スターになっているけど、あれも現実に鬱屈しているエヴリンが「こうだったらいいのにな」と思っている世界。ある世界では国税局の監査官とレズビアンの関係だけど、あれは逆にエヴリンが「これは嫌だ」と思っているものを具現化したもの。大嫌いな監査官に、受け入れられない“レズビアン”という関係性。なんであんな世界が描かれるのか、というとエヴリンが乗り越えなければならないものだから。大嫌いな監査官を受け入れられるか、娘がレズビアンという事実を受け入れられるか……。その試練としてあの世界観が描かれる。
娘が異世界のラスボスになっているのは、娘こそエヴリンが「こんなはずじゃなかった」という人生の象徴だから。好きな人と恋愛して駆け落ちして、二人だけの幸福な世界を築いたはずなのに、うまくいっていない。いつしか娘を「憎たらしい」とすら思うようになってしまった。
壊れてしまった家族の象徴としての娘。あの娘を母親としてちゃんと受け入れて愛せるか……というのが『エブエブ』のストーリー。『マトリックス』とお話しの構造は一緒だけど、目指している地点が違う。『マトリックス』のネオは「真実の世界」の救世主となり、世界を救えるか……みたいなお話しだけど、こういう話は好きな人は好きだけど、大多数の映画の観客にとって「知らんがな」「自分とは関係ない」と思っちゃう。『エブエブ』のほうがはるかに身近。自分自身に置き換えられるお話しだ。
はっきり言っちゃうと、『マトリックス』みたいなお話しが好きなのは、私みたいな「ガキ」だけ。
『エブエブ』がギャグとパロディを中心に描かれるというのもポイントで、『マトリックス』や『ダークナイト』はひたすらシリアスなお話しだけど、ああいったお話しをすると、物事を“現実的”に考えるタイプの人はどんどん醒めちゃう。「あんなお話し、現実ではあり得ないでしょ」と。『エブエブ』のお話しの中で描かれていることは、文字通りに「バカバカしいお話し」なんだ。だからその通り、バカバカしく描いている。
こうしたギャグやパロディを導入することの、作劇的な効果……というのがあって、「抽象度」を上げることができるんだ。抽象度を上げると、お話しが漫画っぽくなっていく。空想っぽくなっていく。見ている側も身構えることなく「ああちょっと漫画っぽいお話しなのね」という捉え方をする。そうした中で、『マトリックス』みたいなお話しが展開する。そこでやっと見る側も、そこで起きているできごとを受け入れようという姿勢ができていく。
何度も話すけど『マトリックス』や『ダークナイト』みたいなお話しって、シリアスにやればやるほど、ごく普通に暮らしている人々から見ると「そんなわけあるかー!」ってなっていく。そういうふうに感じる人達の方が実は多数派なんだ……というのが現実でもある。
で、『エブエブ』は最終的に一つの家族のお話に集結する。実はアメリカ人ってこういうお話し好きなんだ。『アメリカン・ビューティー』というイギリス人が制作した、ごく普通のアメリカ人家庭のお話しがあるんだけど、アメリカ人は「宇宙人の侵略だ!」「テロリストだ!」とかいう話よりも、「ただの家族の物語」というようなミニマルなお話しが好きなんだ。
ここ数十年の映画の歴史を見ていても、テーマの軸に置いているのは結局のところ「家族」とか「恋人」とか、そういうミニマルな関係性。「家族のために戦うんだ」「家族が大事」……そういう作品の方が共感を得やすいし、そういうお話しをリッチに描いている作品は賞を獲得しやすい。
『アメリカン・ビューティー』にしても、別にたいしたこと何もやってないんだ。大事件も起きない。宇宙人も出てこないし、テロリストも出てこない。制作費も1500万ドルとお安い。でもああいった作品が評価されたってことは、アメリカ人の心理に、なにかしら“身につまされる”要素があったんでしょう。ああいう娘いるよな、俺も似たような経験したよ……とか。
物語って野放図な空想をひたすら広げればいい……というものではない。どこかに「接地点」が必要となる。それがないと、どこか浮ついたように見えて、リアリティを感じない。そこで現代の作家が導入しているのが「家族」や「恋人」といった要素。
もう一つはその時代の心理を掘り起こすこと。物語は、その時代のまだ言語化されていない精神性を掘り起こす。「ああ、僕が日々思っていたことを、言葉にしてくれた」……そういうお話しがその時代を象徴する作品になりうる。
例えば『ライ麦畑でつかまえて』という作品は、出版された後、作者の元に毎日のように読者がやってきて「どうして僕のことがわかったの?」と言ってきたという(作者にとってはただ迷惑だったというか、それがトラウマになってどんどん隠れて住むようになっていくのだが)。「僕たちの気持ちを言葉にしてくれた」……そういう物語こそ、時代を象徴する作品になっていく。
『アメリカン・ビューティー』もある意味で、その時代の人々が思っていたこと、心理的な暗部を掘り起こしてしまった。アメリカ人はマゾなのか知らんけど、そういう他人に指摘されて欲しくない心理的な暗部を描くような作品こそ評価されやすい。
『エブエブ』はどうかというと、まずただの小さな家族のお話に過ぎなかった。主人公のエヴリンは毎日退屈なコインランドリー経営をやっていて、「こんなはずじゃなかった」と鬱屈していた。毎日毎日働いても、さほど豊かになれない。夫はいい人なのは間違いないけど、ヒョロヒョロとして頼りない。娘はあんまり綺麗じゃないし、「恋人だ」といって女の子を連れてくる。
こんなはずじゃなかった……こうだったらいいのに……。エヴリンは頭の片隅で映画スターになっている自分を思い浮かべる。そっちの世界が本当だったらいいのに……。とか思うけど、空想は空想。空想は一時の安らぎになるけど、現実の解決にはならない。
エヴリンはコインランドリーの窓ガラスをたたき割って、
「ずっとここが嫌いだった」
と呟く。
いつしかコインランドリーという場所自体が憎たらしくなっていた。
そんな現状をエヴリンは受け入れることができるか……というだけのお話し。
この作品を評価した人は、みんなどこか身につまされるものがあったんだ。自分も毎日毎日同じことの繰り返しで、鬱屈している。家族との関係はうまくいっていない。いつしか、家庭も職場も憎むようになっていく。果たして、憎いと思っている家庭や職場を愛することができるだろうか……。そういう心理プロセスを、『エブエブ』は丹念に描いている。見終えた後は、憎たらしいと思った家庭や職場をなんとなく許せる……という気持ちになっている。そういう、見る側に心理的な変化を促すカウンセリング的な効果を持っている。
さらに、やはり描かれているのがアメリカ社会における少数派の人たち。中国人にレズビアン。アメリカの社会では、こういう「外からやってきた人達」はメディアの世界でテンプレート的な役割しか与えられない。中国人俳優はいかにも中国人的な役柄ばかり与えられる。その役柄を拒否すると仕事がもらえない。
アメリカ映像世界における中国人は、ジャッキー・チェンのようなカンフースターか、あるいは間抜けで失敗ばかりするチビ……という扱い。アメリカのコメディドラマなんかではオチ要因にされることも多いそうだ。意識されない「差別」がそこにはあった。
(日本にもテレビや映画の世界に外国人差別ははっきりあって、白人や黒人が脈絡もなく訳のわからない台詞を叫んで笑いを取る……というのが昔からある。外国人というだけで、テンプレート的な役柄を押しつけられる。人間らしく扱われない……というのは日本にもある)
ウェイモンドは前半はいかにもそういう、アメリカの映像世界に描かれがちな、「ヒョロヒョロとした間抜けなチャイニーズのチビ」という描かれ方。それがふっといきなりジャッキー・チェンばりの大アクションを展開する。「テンプレート的なチャイニーズ」がいきなり崩壊する。これがアメリカ人観客にとってはある種のショックな体験らしいんだわ。
あのチビで間抜けなチャイニーズも人間だったのか……とこういう瞬間、認識できるから。
んで、マルチバースというテーマ。言うまでもなく、最近のハリウッド映画はスーパーヒーロー映画ばかり。ヒーロー映画でやっていることを、『エブエブ』のなかで総括しちゃっている。ここ数年、ハリウッドはスーパーヒーロー映画一色だったわけだけど、その流れをちゃんと引き継いでいる。なんでカンフーなの……それは最近そういう映画ばっかりだから。そういう時代観を引き受けて、ある意味、スーパーヒーロー映画にトドメを刺しちゃった。
スーパーヒーロー映画ってお話しが進むとどんどん「世界は~」とか「宇宙が~」というお話しになっていっている。『マトリックス』と『ダークナイト』の例でお話ししたように、そこまで行くと一般観客置いてけぼりになっていく。接地点が自分たちが感覚的に理解できるところからどんどん遠ざかっていく。そういうお話しは、いくらクオリティがよくても感情移入ができない。好きな人は好きだけど、大きな一般層には響かなくなっていく。
なぜそうなるのか、というと「お前、そんな経験してないだろ」……と。『マトリックス』にしても『ダークナイト』にしても、やっぱり「嘘」の話に過ぎないんだ。私たちは誰も異世界の救世主なんかやったことがない。ウォシャウスキー監督だって、別に救世主なんて経験していない。やっぱり嘘は嘘でしかないんだ。
そこで『エブエブ』は一気にごく普通の家庭の、ごく普通のおばちゃんのお話しに引っ張り戻しちゃった。奇想外なできごとが起きるけど、ずっと自分たちのいる場所に接地している。ちゃんとみんなが経験していて、監督自身も経験したかも知れないお話になっている。それでいて、「マルチバース」という最新のヒーロー映画の文脈まで取り込んじゃった。こういうところで、最近のヒーロー映画の潮流を引き受けて、トドメを刺しちゃった映画といえる。
……と、ここまでが『エブエブ』が評価された理由なんだけど、でも……やっぱり「変な映画」という印象。なんでこの作品がアカデミー賞……理屈で言うとここまで書いた話になるけれども。面白いといえば面白いけれど、私は『マトリックス』や『ダークナイト』の世界観の方が好きかな。私は現実よりも異世界への憧れが強烈だから。がっつり作り込んだ世界観のほうに愛着を持つから、『エブエブ』は面白いけどそこまででもない……という印象かな。