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映画感想 女神の継承

 嘘か本当かわからなくなる、ホラー映画の秀作!

 『女神の継承』は2021年制作公開、タイ・韓国合作の映画。映画の舞台はタイ、出演者はすべてタイ人で構成されているが、カメラの後ろ側にいるスタッフはタイ人と韓国人混成部隊……という構成になっている。
 監督のバンジョン・ピサンタナークーンはWikipediaにページすら作られていないので、彼のプロフィールを少し掘り下げておこう。
 バンジョン・ピサンタナークーン。1979年生まれ、タイ出身。タイ人の中でも中華系。バンコクのチュラロンコン大学映画学科を卒業。2004年にパークプム・ウォンプムと共同監督を務めた『心霊写真』で長編映画デビュー。この作品はその年のタイ国内興行収入で1位を獲得した。後に落合正幸監督で『シャッター』(2008)というタイトルでハリウッドリメイクされた。
 2007年にホラー映画『Alon』。2011年に韓国に舞台を移して制作した『アンニョン! 君の名は』。2013年、タイでは有名な怪談で、何度も映画化されてきた題材を『愛しのゴースト』というタイトルで映像化。この作品はタイで歴代興行収入1位を獲得する。
 タイ、韓国、日本とフィールドを変えながら制作を続け、本作『女神の継承』ではタイ、韓国との合作となった。
 原案を担当したのは、韓国人映画監督のナ・ホンジン。『チェイサー』、『哀しき獣』、『哭声』といった作品を制作した監督だ。脚本はバンジョン・ピサンタナークーンと共同執筆だったようだ。
 本作は第25回富川国際ファンタスティック映画祭で富川チョイス賞(最優秀映画賞)を受賞、マニアック・ファンタスティック映画祭で最優秀作品賞受賞、モリンズホラー映画祭で撮影賞を受賞した。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは31件の批評家によるレビューがあり、81%が肯定評価。一般レビューでも72%が高評価。なかなかに高く評価されているといえる一本だ。

 では前半のストーリーを見ていこう。


 タイ東北部、イサーン地方で霊媒師を生業とするニムはこう語る。
 タイ人は精霊(ピー)を信じている。歴史よりも古くからある伝承だ。特にタイ東北部の人にとって、精霊はよその地方とは感覚が違う。自然を超越したものはすべて、精霊、すなわちピーと呼んでいた。死者の魂だけじゃない。あらゆるものにピーが宿る。家や森、山。木々。水田……あらゆるもの、場所にピーが宿っている。
 この地方にもたくさんの精霊がいる。例えばピー・ファー、ピー・テーン、ピー・スア、ピー・バーン、ピー・ムアン……。人々を守る善い精霊もいれば、悪霊もいる。人に取り憑いて病気をもたらす精霊もいる。
 「どんな病気でも治せるんですか?」取材班がこう尋ねると、ニムは嗤った。
「もしガン患者が来たら死んじゃう。あたしが治せるのは目に見えない力が原因の病だけ。呪術とか、精霊が原因だった場合は、私が治す。でも普通の病気だったら、お医者さんに行って」

 取材が始まって間もなく、ウィローという人物の訃報が飛び込んできた。ウィローというのは、ニムの姉であるノイの夫。ヤサンティア家の男はなぜかみんな不幸な死に方をする。ウィローの祖父は労働者に石を投げつけられて死んだ。ウィローの父親は工場が倒産して、保険金目当てで放火したけれど、失敗し、逮捕され、服毒自殺した。ウィローの長男マックは数年前バイク事故で死んだ。ノイに残されたのはただ一人だけ……娘のミンだけだった。

 ニムは3人兄弟だった。長男のマニ、姉のノイ。ニムは末っ子だった。
 ニムの家系は、代々その地方に伝わる女神バヤンの魂を継承する巫女だった。母も祖母もバヤンの継承者で、そんな母親達の姿を見てニムは育った。地域に伝わる信仰だから、毎年地元の人たちが集まるお祭りもあって、そこで儀式をして、来年の運勢を占う。それを執り行うのもニム達一族の勤めだった。
 もともとは長女のノイが継承するはずだったけれど、しかしノイは古里の信仰を捨ててキリスト教徒になってしまった。それでニムが女神バヤンの継承者となった。
 そんなノイとニムは、その頃からずっと仲が悪い。信仰を捨てたノイと、信仰を押しつけられたニム……折り合いは付けられないままだった。

 ウィローの葬式の夜、眠ろうとしたところに、謎の老女が迷い込んでくる。盲目の老女だ。老女とニムの娘であるミンがなぜか見つめ合っている。奇妙なひとときだった。
 そんな夜が明けた後、盲目の老女が死んだという知らせが入ってくる。原因は不明。警察によって遺体が運ばれていくが、なぜかその現場にミンがいた。
 ミン……そう声をかけるが、ミンは返事をせずにどこかへ行こうとする。そのまま老女の家の前までやってきて、そこでじっと立ち尽くすのだった。
 その場面をよくよく確認すると……ミンは奇妙な痙攣を始めている。ひょっとして、女神バヤンの継承が始まったのではないか。そう考えた取材班は、ミンの取材も始めることにした。

 ミンは快活な今時の女の子という感じで、ハローワークの受付の仕事をやっていた。ごく普通の女の子のように見えたが……最近様子がおかしいらしい。取材班もミンの動向を追っていたが、ある時泥酔し、そのままハローワークのベンチで眠ってしまう。
 仕事が始まる時間になってようやく目を覚ますが、股間から大量出血を始めるのだった……。


 ここまでが前半30分。起承転結の「起」の部分。ちょっと要素が多く感じるよね。

 細かいところを見ていこう。

 本作は「モキュメンタリー」つまり「フェイク・ドキュメンタリー」という手法で作られている。映画中に起きているできごとが、あたかも本当の事件であるかのように描かれる。そのように作るのであれば、一定のリアリティラインは絶対に壊してはならない。ホラー映画だから後半に向けて、“異常な現象”が次々と起こるようになっていくが、このリアリティラインの整合性がかなり慎重に作られている。最近のホラー映画は超常現象を表現するために、なにかとCGを多様するのだけど、本作はCGシーンはほとんどなし(後半に少しある)。そうしたわかりやすい表現ではなく、現実にあり得る範囲での“怖さ”にこだわっている。

 しかし、細かく見ていると、ドキュメンタリーとしては不自然……という場面はちらちらと出てくる。
 例えばこういう場面↓

 おわかりいただけただろうか?
 映像に詳しい人は、この画面を見ただけでも「あれ?」となる。本作はドキュメンタリーカメラで撮影している……という体の作品だ。ドキュメンタリーといったら、取り回しの良いハンディカムカメラ1台で撮影されているものだ。そのカメラで、被写体とこれだけ距離がある状況で音声を拾うなんて無理。しかも葬式のシーンで辺りはザワザワしているし、司祭の祝詞も朗々と響いている。この状況で、こうやって音声を拾おうと思ったら、ガンマイクとかピンマイクが必要。女優の顔がバッチリ見えている……というのもできすぎ。
 しかし当たり前のようにヒソヒソ喋りがくっきり聞こえる。こういうところで実は「フェイクドキュメンタリー風の映画」というのがわかってしまう。

 映画後半の場面だけど、ドキュメンタリーカメラだとすると、不自然な構図。このあと、霊媒師が頭上のある一点を見詰める……そこに悪霊がいるのだ! という展開になるのだが、カメラがその前にその頭上の“余白”に構図を定めている。まるで霊媒師がそちらを向く……ということがわかっているかのような構図だ。カメラに演出が入っちゃってる。

 他にもドキュメンタリーカメラとしてはあまりにも構図がバチッとはまりすぎている、カメラマンのエゴがでちゃっている場面なんかもある。ドキュメンタリーだとすると「そうはならんやろ」という構図だ。
 しかし、こういうところは、「わかる人はわかる」という範囲。普通に見ていると、誰がどう見てもドキュメンタリーにしか見えない。後半へ向けてじわじわと“異常な事件”へとお話しが進行していくわけだが、リアリティラインを崩さず慎重に作られているので、どこかで騙される、“本当の出来事”かと思ってしまうくらいの迫真さに成功している。

 では実際、どのように作品が構築されているのか。
 こちらの場面を見ていただこう。

 おわかりいただけただろうか――というナレーションはないけれども、時々、こういうテロップが挿入される。
 これを見て、わかる人は「あーあれね」となる。『ほんとうにあった!呪いのビデオ』だ。要するにノリはあのホラービデオ・シリーズと一緒。ただ『ほんとうにあった!呪いのビデオ』は低予算で粗が多く、あちこち隙があるのだけど、あれをより高いリアリティラインを設定して作られているのが本作。そういうものだ、とわかれば頭のチャンネルも設定しやすかろう。

 では物語について掘り下げていこう。

 こちらが本作の主人公となる霊媒師のニム。
 本物っぽいでしょ? でも霊媒師でも何でもなく、普通の女優。

 映画が「ドキュメンタリー風映画」としてあまりにもよくできているから、うっかり信じてしまいそうになるが、、こうやってメイキング写真を見ると、ちゃんと監督が現場指揮して、カメラワークが作られている……というのがわかる。
 本当っぽく見えるのは、舞台設計が非常によく練り込まれているし、そこに「こういう人いそう」と信じてしまいそうな風貌の女優さんを見つけてこれたから。総じて「よくできている」からこそ……ということに繋がっていく。

 そのニムのお姉さんがこちら。姉のノイ。
 もともとはノイが女神バヤンを継承して霊媒師になるはずだったが、しかしノイはそれが嫌でキリスト教徒になってしまった。家業だった信仰を捨てたノイと、継承を押しつけられた妹のニム……その時以来、2人の仲はあまり良くなかった。
 ノイはヤサンティア家に嫁いだが、しかしヤサンティア家の男はなにかと不幸が多い。夫ウィローが死んだ……というところからお話しは始まるが、その前に父も祖父も不幸な死に方をしていて、息子もバイク事故で死んでしまう。残った家族は娘のミンだけとなってしまう。

 こちらが長男のマニ。隣に映っているのは奥さん。
 ノイとマニはかなり近いところで住んでいるが、ニムだけが少し離れたところに住んでいる。この距離感も一家が抱えている現状を現している。

 こちらがノイの娘・ミン。
 やったー! 可愛い!!
 この女の子が……

 こうなって、

 こうなってしまう。
 おや、こういう表情、他の映画で見たことがあるぞ……?

『ヴァチカンのエクソシスト』より

 これだ!

『ザ・ライト エクソシストの真実』より

 あるいは、これだ!

 実はこの映画、後半エクソシスト映画に変わる。いわゆる「悪魔憑き」だが、その“決まり事”も西洋の悪魔憑きと一緒。悪魔憑きかただの精神疾患かを見分けるポイントは、その人間が決して知り得ない知識を持っているかどうか。悪霊に取り憑かれたミンは、ノイが長年隠し続けていた真実をマニに告げて、精神的に揺さぶろうとする。これを知っているということは、本当に悪魔に取り憑かれている証拠。
 悪魔憑きかどうかの判定方法が一緒、というととは、悪魔祓いの方法も一緒。ミンに取り憑いている悪霊が何者かを特定し、その上で悪魔祓いが始まる。フェイクドキュメンタリーという手法を取っているので違うジャンルに感じられるが、実はよく見るとよくあるエクソシスト映画と同じ展開になっていく。
 それにしても、悪魔憑きって本当にどこの国にもあるんだな……(日本では「狐憑き」がある)。

 しかしこの映画の批判として多いのは「長い」こと。展開が遅い。例えば『ヴァチカンのエクソシスト』の場合、少年が悪霊に取り憑かれるまで20分。一方本作でミンが悪霊に取り憑かれるまで1時間もある。
 『ヴァチカンのエクソシスト』は映画が始まってすぐに少年が悪霊に取り憑かれて、30分ほどのところでラッセル・クロウ演じる祓魔師が現場に到着。以降は悪霊とエクソシストの対決がストーリーの中心になっていくのだが、『女神の継承』は実は同じフォーマットだけど、比較してしまうと非常に遅く見えてしまう。
 そもそもフェイク・ドキュメンタリーという手法を取っているから仕方ない……という点もあるのだが、『女神の継承』が不利なポイントは、「伏線」に気付きにくいこと。ふとすると漫然とインタビュー映像が流れているだけ……のように感じられて、見るほうも「流し見」してしまいそうになる(私も最初は流し見してしまっていた)。それが実は伏線だった――そこに気付くのは2回目の視聴に入った時。映画のオチを見て、もう一回見て、「ああ、そうだったのか」と気付くタイプの作りになっている。

 この映画の構成を説明するには、どうやってもオチから説明して、逆算していくしかないわけで……というわけで、異例だがここでいきなりネタバレをする。

=====ここからネタバレ注意!=====

 エンドテロップに入る直前、ニムの衝撃的な「告白」が挿入される。

ニム「正直言って……よくわからないの。最初からずっと……。バヤンが私の中にいるのかって……。もうわからないのよ……」

 女神バヤンは存在しなかった!? この物語の前提を壊すかのような発言。

 映画中のある場面で、こんなシーンもある。

ノイ「昔、体調を崩した時、「バヤンが憑依する気だ」ってみんな言ったけど、私はなにも感じなかった。具合が悪かっただけ。バヤンに会ったことある? バヤンは本当にいるの?」 ニム「もちろんよ」
ノイ「会ったことは?」
ニム「ないわ」
ノイ「じゃあ、いないのかも」
ニム「感じるの。存在をね」

 ノイに「バヤンに会ったことはある?」と聞かれて、ニムは一瞬返答に詰まり、「感じるの。存在をね」という答え方をする。実はニムも、バヤンの存在を確信しているわけではなかった。

子供時代のニムとノイ。一番左がノイで、その隣がニム。

 ノイが思春期を迎えた頃、異常行動を示すようになり、「バヤンが乗り移るぞ」と周りの人々が言ったのだが、しかし本人の感覚では「ただ気分が悪かっただけ」。バヤンの存在を認識することもなかった。
 実はニムも周りから「バヤンが乗り移るぞ」と言われて、それにバヤンの巫女は代々続く家業だったから、「バヤンの継承者」を名乗っていただけで、実は自身にバヤンが乗り移った……という感覚は持ってなかったという。
 周りは「バヤンだ、バヤンだ」というけど、本人からすると自分でもコントロール不能の異常行動を取るようになって、ただこの状況から逃れたいと思うだけだった。ノイはこの状況から逃れるために、一族の掟から逃れキリスト教徒になってしまう。

 それで夫ウィローが死んだ時も、キリスト教の神父が葬式に招いている。
 欧米の映画だったら、キリスト教の改宗が良いこと……のように描かれるのだが、この映画はタイ。タイという地域にとってキリスト教は「異教」。欧米の映画と考え方が反転する。ノイは「宗教的なタブー」を犯した……ということになる。

 ノイは夫が経営していた仕事を受け継ぐのだが、その仕事というのが「犬肉専門店」。犬をペットとして飼っているのに、犬肉を売っている? といってもタイでも韓国でも犬は食べるけれど……。これも実は「タブーを犯している」という表現の一つになっている。
 後半、ある場面で犬が酷い目にあるが、「犬をペットとして飼っていながら、犬肉を売っている」という禁忌への罰となっている。

 ついでにミンは兄ウィローと近親相姦関係にあったらしい。ここでも禁忌を犯している。葬式の場面で「売女」と言われたと思い込んで逆上するのは、この秘密を抱えていたから。

 次第に自分でもコントロール不能の異常行動を取るようになっていくミン。ドキュメンタリー取材班にこう語る。
ミン「毎晩同じ夢を見るの。とっても大きな男の人がでてくる夢。真っ赤なフンドシにベストを着て、お守りを身につけている。夢の男は長い剣を持っていて、足を踏みならして、剣に付いた血を舐めている。それから床には切り落とされた首があって……血まみれなの。その首は私に何か伝えようとしているけど……」
 実はヤサンティア家はその昔、処刑人だった。その時のカルマをいまだに拭い去れていない。ミンに取り憑いている謎の悪霊は、ヤサンティア家が処刑してきた人たちだった。

 時々、子供のような振る舞いを見せるミン。実は取り憑いている悪霊は一つではない。ヤサンティア家が殺してきたたくさん魂が乗り移っているのだ。

 しかしミンの異常行動は、実はかつてニムやノイが「バヤン継承」の時に見せた異常行動と一緒だという。ではバヤンとはなんだろうか。本当に「善き女神」なのだろうか。

 映画の最後の場面に出てくるわら人形。ヤサンティア家がいまだに呪われていることがわかる。ヤサンティア家に殺された一族は今でも恨みを抱いているのだ。ヤサンティア家のカルマが清算できないのは、こういうところにもあるかも知れない。

 映画の前半部分に出てくる謎の老女。この老女が出てきたから、ミンの異常行動が始まる。物語に不吉を告げるような存在だが……。
 この老女について掘り下げられることはなく、最後まで謎のままだが……結末から逆算して考えていくと、この老女がヤサンティア家に恨みを持つ一族の末裔。ミンに呪いを託しにやってきた……というところか。

 ミンが完全に悪魔に取り憑かれた時、こう言う。
「あたしはバヤン」
 これはひょっとして、真実を言ってないか? ただ同時にヤサンティア家が代々継承してきた悪霊も合体している。バヤンと悪霊が合体して、最強モンスターが爆誕した……という場面じゃないか。

 この映画の中、何度か「運命」という言葉が使われる。「これは運命に導かれたのか?」。
 ノイはバヤンの巫女を継承するのが嫌で、改宗し、ヤサンティア家の男と結婚した。しかし実はヤサンティア家はかつて処刑人の一族で、悪霊を代々継承していた。本来バヤンの巫女になるはずだった女と、悪霊持ちの男が結婚して、悪魔合体的な娘・ミンが生まれた。

 映画の後半、ニムの友人としてサンティという霊媒師が出てくる。
 この男がどうにも引っかかる……。

 「この車は赤い」
 何者かが車に書いたイタズラ書き。
 このイタズラ書きを示して、サンティはニヤリと笑う。もしかしてサンティ……悪霊側だったんじゃ……。

 映画の最後の最後になって、ノイは「女神が側にいる」と言い始める。
 これは思い込みではなく、おそらくこの時、ノイは本当にバヤンを継承したのだろう。
 しかし相手はバヤン+ヤサンティア家の悪霊。バヤン1人で勝てるかは……。

=====ネタバレエリアここまで!=====

 ここから映画の感想。
 最初にフェイクドキュメンタリーと聞いて、「ああ予算がなくてそういう手法を……」みたいに思っていたが、ぜんぜんそういう映画じゃなかった。普通に言ってクオリティが高い。まずしっかりした作り込みがあって、その上でフェイク・ドキュメンタリーをやっているから、普通に見ていると騙されてしまう。
 例えばこういう場面。

 おわかりいただけただろうか?
 ぜ~んぶ嘘。これはオープンセットだし、画面に映っている人々はみんな俳優。全部「映画の嘘」だ。
 でも映画を見ていると、ふっとそのことを忘れて、知らない地方の知らない宗教が描かれているのを見て「へー」とか思ってしまう。その後で、「いやいや待て。これはフェイク・ドキュメンタリーだ」と思い直す。しかし作り込みが凄いから、気を抜いて見ていると本当だと思い込んで見てしまう。そういうところのクオリティがまずしっかりしている。
 フェイク・ドキュメンタリーはどこかしらに嘘が見えてきて、そういうのに気付きながらニヤニヤしながら騙されたフリをする……というのが楽しみの一つなのだけど、この映画はリアリティラインを崩さず描かれているから、頭のチャンネルをそこに合わせる必要もなく、「あれ? どっちだ?」となる。気を抜くと騙されて本当だと思ってしまう。それくらいによくできている。

 実は映画の後半、ミンが本格的に悪霊に取り憑かれて以降は、かなり“変”な展開になっていく。明らかに“嘘”が見えるような展開になっていく。そもそも「悪霊付き」だの「悪魔払い」だの……そんなものが本当であるわけがない。
 しかし前半のリアリティ構築が恐ろしくうまくいっているから、後半に向けてじわじわと嘘っぽいお話しに入っていっても、ずっと地続きであるかのように感じられる。リアルな霊媒師ドキュメンタリーから、非現実的なエクソシスト映画への転換が非常に鮮やかなので、ずっと本当のドキュメンタリーでも見ているかのような感覚で見られてしまう。この作りが本当に凄い。ある意味で、今まで見たホラー映画の中でももっとも真実味が感じられた作品だ、といえる。

 惜しいポイントというか、ネタバレエリア内でも話をしたけれど、フェイク・ドキュメンタリーという手法を取っているから、この中で実はかなり重要な伏線があちこちに張り込まれているのだけど、気付かず流し見してしまう。2回目視聴の時に「ああ、そういうこと!」とビックリする。そういう伏線の数々に気付かないと、どこか漫然と映像が流れているだけに見えてしまう。ドキュメンタリー風の画面だから、どうしても単調になりやすい。映画の展開を見ていくと、ミンが異常行動を取るようになるのは映画はじまって25分後以降だし、完全に悪霊に取り憑かれるのが1時間……。正直なところ、最初見た時は前半部分が退屈だな……と思っていた。2回目視聴の時に、「あ、これ伏線だったのか!」と気付く……という感じだった。
 フェイク・ドキュメンタリーという手法を取っているからこそ、こういう物語構成に気付きにくい。フェイク・ドキュメンタリーとしてあまりにもよくできた映像の中に、「仕込み」が入っているのだけど、それが自然に作られすぎていて気付きにくい。どれもよくできているからこそ……なのだけど、よくできているからこそスルーされやすい。こういうところが、もどかしい。

 今回、『女神の継承』という作品を見てみて、「ああなるほど……」と感心することばかりだった。良い映画、あるいは良いフィクションのことを「リアリティがあること」とよくいうが、そのリアリティとはなんだろうか?
 リアリティだ! ……とか言いながら、嘘みたいな映像が作られる……という矛盾。本当にリアルな映像というのは、一瞬フィクションだということも忘れちゃうような映像、物語ではないか。
 そういう意味で『女神の継承』は素晴らしくよくできている。ホラー映画は、ホラー表現のために嘘みたいな表現が使われがちだが、そういう「嘘みたいなホラー表現」を一切使わず、どこまで恐怖表現ができるか……という挑戦に成功している。素直に「ああ、凄いモノを見たな……」と思える作品。面白かった、というのもあるが、学びに繋がる。映像表現の在り方として、一つ押さえておきたい作品だ。


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