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映画感想 シン・ウルトラマン

 『シン・ウルトラマン』。『シン・エヴァンゲリオン』『シン・ゴジラ』……と続く庵野秀明『シン』シリーズ3本目である。
 指揮を執るのは庵野秀明の盟友・樋口真嗣監督。庵野秀明は同時期に『シン・エヴァンゲリオン』を制作し、さらに『シン・仮面ライダー』のシナリオ制作も務めていて相当に忙しい時期だったらしく、『シン・ウルトラマン』は2019年にシナリオを仕上げてからはほとんど制作に参加せず、他スタッフに委ねていたようだ。
 興行記録は累計40億円。日本では大ヒットの部類に入るが、『シン・エヴァンゲリオン』『シン・ゴジラ』と比較するとやや見劣りする。評価はざっと見たところ、どのサイトでも評価は高いようだ。特に特撮オールドファンからは高い評価を得たようである。ただしどのメディアでも大絶賛というわけではなく、海外からの評価は厳しい。日本の特撮についての知識や教養のない世界からは、もしかすると奇異に映ったのかも知れない。

 イントロダクションはこの辺りにして、映画本編の話をしよう。

 いつものように映画前半20分のあらすじをまとめよう。


 禍威獣が出てきた!
 ウルトラマンが禍威獣をやっつけた!
 禍特対に浅見弘子がやってきた!

 以上。


 まあだいたいこのくらいでいいでしょう。いつもは長過ぎなんで、たまには楽をさせてくれ。

 では「ウルトラマンとは何者なのか?」という話から始めたいのだが、しかし困ったことに、私が「ウルトラマン」についてよく知らない。「ウルトラマン」については『ティガ』か『ダイナ』のどちらかを見た……という記憶はあるのだが、それも遠い記憶。どんな内容だったかも憶えていない。「ウルトラマン」をよく知らない人が『シン・ウルトラマン』だけを見たらどんな印象になるか……という話しかできない。

 ウルトラマンは地球にやってくるときに地上にいた神永新二を死なせてしまったために、とっさに融合。その後は神永新二になりすまして人間社会がどういったものなのか、調査や観察を始める。もともと神永新二は公安出身で感情を表に出す質ではなく、禍特対のメンバーともさほど親しくもなかったので、入れ替わっていることに気付かれることはなかった。
 ネロンガ撃退後、浅見弘子が禍特対にやってきて、神永新二にこう言う。
「世の中は個人だけで構成されていない。あなたのコーヒーも着ている服も、見知らぬ誰かのおかげなの。人は誰かの世話になり続けている、社会性の動物なの」
「そうか。それが群れか」
 というやり取りがある。
 ウルトラマンは「群れ」というものにちょっとした関心を持つふうを見せている。
 ということは、ウルトラマンは群れず、個人で行動をしている……ということだろう。
 今から10万年前、ヨーロッパにはネアンデルタール人と呼ばれる人種がいた。ネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも体が大きく脳が大きかった。ホモ・サピエンスの上位種のような種族で、ホモ・サピエンス最大のライバルだった。
 そのネアンデルタール人をホモ・サピエンスは最終的に絶滅に追いやるわけだが、どうやってそれを達成できたのか、というと「群体」を作ることができたから……という説がある。ホモ・サピエンスは肉体的にも精神的にも弱かった。だから「群体」を作った。ネアンデルタール人は肉体が強力で頭も良かったからさほど群れも作らなかった。だから敗北した。(細かい話をするとぜんぜん違うけど、詳しく掘り下げると長くなるからザックリ話すよ)
 群れるのは弱いホモ・サピエンスの特徴で、現代でも私たちはことあるごとに社会を築きたがる。今や我々は優れた文明をつくり、その上で暮らしているのに、相変わらず生存の不安から脱することができず、強者のコミュニティに依存しがちになっている。私たちはいまだに孤独を恐れるし、孤独に陥っている人たちを見下す性質がある。
 ではウルトラマンはどうだろうか?
 まず、ウルトラマンは「群れ」という概念を聞いて不思議そうにする。ということはウルトラマン達は基本的に単独で行動していて、単独でいることに対する不安などは持っていないということだ。
 寿命はどうやらかなり長いらしく、人間の寿命を「短い」と表現している。さらに「道具」をほとんど使わない。戦闘スタイルに突入するとき、βシステム(あるいはカプセル)の力を借りるが、基本的には道具を持っていない。道具を使わず、身に備わった力で空を飛ぶこともできるし、手から光線を出すこともできる。身体能力があまりにも高いので、何かしらの道具に頼る必要がない。
 その上でやはり頭が非常に良く、人類では到達し得ないような道具を作り上げることができる。ウルトラマン達は身体能力が高すぎるので、そのウルトラマンでもどうにもならない時にようやく「道具」が必要になるわけだが、ウルトラマンの身体能力を補うための道具なのでとんでもなく高いテクノロジーになっていく。
(βカプセルについて、後にメフィラス星人が出てくるのだが、もっと形が大きい。あれをペンサイズまでまとめることができるのだから、ウルトラマンはそれくらい知能が高い……ということになる)
 生殖についてだが、寿命が長く、しかも身体能力が非常に高いので、忙しく生殖行動を取る必要がないのだろう。自然界のたいていの生き物は平常期と発情期がある。人類は常に発情しつづけているのは、それくらいに死亡率が高かったからだ。もともと人類は自然界の中でどうにもならないくらい弱く、生まれてきてはすぐに死んでいた。その死を補うために、常に発情して、子供を産まねばならないくらいだったと考えられる。ウルトラマンは死亡することが滅多にない……というくらいに1人1人が屈強だったために、生殖の本能がかなり弱い……と推測される。
 問題なのがウルトラマンは服を着ているのかどうか……。あの表面に見える銀の部分は服なのか、それとも皮膚なのか……。まるで着ぐるみみたいな「皺」があるが、あれは服の皺なのだろうか、それとも肉と肉の間にできる皺なのだろうか……。
 これに関する答えはない。映画を観ていてもよくわからなかった。服であるならば着脱可能な継ぎ目があるはずだが、クローズアップしてもそれが見当たらなかった、ということは皮膚である可能性の方がやや高いが、わからない。
 何を食べるのか……という疑問は、もしかしたら何も食べないのかも知れない。人類のように口から栄養を摂取するのではなく、もともといた惑星ではエネルギーを全身で吸収できていたのかも知れない。そうやって吸収したものを、スペシウム光線として体から放出していた……そういうことだろうか。
 もしかしたらどこかの時代には口はあったが、やがて口は用をなさなくなって退化していき、名残だけが残っていった。
 言葉についても、そもそもウルトラマンは音を発声してコミュニケーションを取っていない。テレパシーのような能力も持っていたので、ますます口は必要ではなくなっていった。だから口のようなものが痕跡として残っているだけとなっている。
 所作についてだが、ウルトラマンが憑依した後の神永新二は表情がほとんど動かず、まばたきもしない。これは宇宙人に体が乗っ取られている……という表現によるものだが、もともとウルトラマンは表情を動かしたり、まばたきしたり、ということをしないのだろう。
 コミュニケーションの大半がテレパシーによるものだし、精神が優れているから表情を動かしたりということもほとんどしない。「情動で訴える」ということもしない。それ以前に表情はコミュニケーションに必要なもの、という認識がない。人間的な情動の揺らめきがウルトラマンにはほとんどないのだろう。

 映画だけを観て推測できるのは、この辺りまでだ。私の考えことがどれだけ公式設定と当たっていたかどうかはわからない。
 映画『シン・ウルトラマン』が従来のテレビの『ウルトラマン』とイメージが違うのは、「原作無視」ではなく、もともとあった最初のイメージに立ち返ったからだ。
 まず「カラータイマー」がない。カラータイマーがないのは、成田亨が最初に描き起こしたコンセプトデザインにもなかったからだ。カラータイマーなるものはテレビ的な都合により生み出されたものであって、もともとの作り手の思いとしてはカラータイマーなるものは付けたくなかった。
 ウルトラマンの活動限界が3分……というのも、そもそもそんな設定自体、公式にも存在していなかった。私もなんとなくウルトラマンは3分でカラータイマーが鳴る……と思い込んでいたが、その設定は公式設定ではなかった。
 カラータイマーもないのなら、後頭部から背中にかけて作られた「背びれ」もなし。あれは着ぐるみのファスナーを隠すために必要だったもので、やはりもともとのコンセプトデザインになかったものだった。
 当時の特撮ものの事情で言うと、作られるのは基本的に「怪獣」のほうだった。ところが『ウルトラマン』の企画が立ち上がったとき、その怪獣に立ち向かっていくヒーローが必要となった。怪獣と同じスケールの大きさで、人類の味方となって戦う巨人……。果たしてそれはどんな姿をしているのだろうか……?
 成田亨が求めていたのは、人型をしているがより人間の「理想」を突き詰めた姿。「超人」の原型的なイメージ。宇宙から来たから、当時宇宙人の普遍的イメージだった銀色の肌。そこに弥勒菩薩や能面のイメージが重なり合い、まったく新しいヒーロー像が生み出されていく。
 『シン・ウルトラマン』でウルトラマンが憑依することになる男性の名前が神永新二という名前だから、神のごとき存在・ウルトラマン……という元々あったイメージに立ち戻ったことはよくわかる。しかも「新二」……つまり「神事」であるので神をお迎えして、憑依させる神官のイメージが主人公に当てはめられている。
(「碇シンジ」に続いて2人目の「シンジ」だな……とかも思う。樋口真嗣を含めると3人目のシンジだが)
 人間にとって理想の超人。だからその姿はどこまでも美しい。浅見弘子がその姿を間近で見たとき、「綺麗」とぽつり。美しく、雄大で、無条件に人類の味方となり、人間はその存在を前にただ崇めるしかない。神に最も近い存在。『シン・ウルトラマン』はもしも神話の神が現代にふらっと姿を現したら……というイメージで描かれている。おそらくそれこそ、1966年のクリエイターたちがイメージしていた「本当のウルトラマン」に近いものではないだろうか。

 『ウルトラマン』は宇宙から次々と禍威獣がやって来て、やはり宇宙からやってきたウルトラマンがそれを撃退する……というお話しである。しかし彼らはどこから、どうやってやって来たのか?
 宇宙には非常にたくさんの惑星がある。その中に知的生命体がいる可能性は高い。この話になったとき、「宇宙に知的生命体がまったく存在しない」……と言う科学者の方が少数派だろう。ただし、宇宙人が地球にやってきているか、という話には疑問がある。問題は“距離”だ。
 地球にもっとも近く、地球とほぼ同じような環境の惑星はどれくらいの距離のあるのか?答えはざっと40兆光年。そんな途方もない距離を、どうやって移動してくるのか。
 私はこれについて以前にもブログに取り上げ、「宇宙人は存在するが、地球にやってきていない」という考えを書いた。

 ちなみにウルトラマン達がやってきたM78星雲は300万年光年。まだ“近い”と言える距離だ。

これがM87星雲の写真。M78星雲は実在しないが、M87星雲は1600光年ほどの“近い”ところに存在していて、写真撮影もされている。

 この距離感の問題を『シン・ウルトラマン』ではどうしているのか。作品の中に頻繁に出てくる用語に「マルチバース」がある。「多元宇宙論」だ。最近はアメコミ映画でやたらと出てくる用語なので、知っている人も多いだろう。私たちの存在している別の次元、別の宇宙では私たちとほぼ同じ人間が、しかし微妙に違う姿で存在している……かも知れない、という考え方だ。
 映画『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』ではマルチバースがメインテーマに扱われ、過去に映像化されたスパイダーマン達が「別次元のスパイダーマン」として集結するという展開が描かれた。
 実は『シン・ウルトラマン』という作品自体もマルチバースとして描かれている。詳しい人ならすでに知っての通り、映画のプロローグに出てきた禍威獣「ゴメス」「マンモスフラワー」「ペギラ」「ラルゲユウス」「カイゲル」「パゴス」の5体は『ウルトラQ』に登場した怪獣だ。「ネロンガ」から『ウルトラマン』に登場した怪獣だ。『ウルトラQ』と『ウルトラマン』は繋がりがあるといえばあるが、別番組だ。本来別番組の物語を、一つの物語の中として繋げてしまっている。この時点で、別のマルチバースが融合してしまっている。
 さらに『シン・ゴジラ』のマルチバースでもある。冒頭に『シン・ゴジラ』といったんタイトルが出てくるわけだが……最初の禍威獣「ゴメス」がゴジラの着ぐるみを流用して作られた禍威獣だった。『シン・ウルトラマン』はその経緯をわざわざ踏襲し、本当に『シン・ゴジラ』で使用されたCGモデルを改造して使われている。
(マンモスフラワー出現時の東京駅周辺に凍り付いたゴジラの姿がなかったので、こちらの世界にはゴジラはいないようだ)
 『ウルトラマン』に登場してくる禍威獣や外星人たちはこのマルチバース・別宇宙を経緯して地球にやって来ている。そうするともしかしたら私たちの世界よりももっと近いかも知れないし、マルチバースを自由に行き来できるなら距離感も圧縮できるのかも知れない。『シン・ウルトラマン』には「亜空間」という設定も出てくるので、距離感の問題はますます無意味になっていく。

 映画の冒頭、どうしてゴメスからはじまる5体の禍威獣との戦いでウルトラマンはやってこなかったのか……。物語の中ではザラブの陰謀があって、電気や核廃棄処分場を狙った禍威獣が登場し、ウルトラマンが誘い込まれた……という説明をしているが……。でも本当の理由は、『ウルトラQ』という別次元の戦いではウルトラマンはまだ登場していなかったからだ。
 と、このように『シン・ウルトラマン』は初代『ウルトラマン』のリブートだが、過去のテレビシリーズを否定したリブートした作品ではない。初代ウルトラマンシリーズを踏まえただけではなく、全肯定した上で作られている。おそらく別次元でもウルトラマンの戦いは展開されている。そう考えると、ウルトラマンに対するどうしようもない愛着を持った上で作られた作品だということがわかってくる。
 と、いうか……マルチバースの設定が今どきよく使われる流行の設定だから、という理由で採用されたのではなく、過去のウルトラマンシリーズを否定したくなかったから持ち出した設定なのではないかと想像してしまう。
(マルチバースという言葉や概念は大昔からあって、SFアニメでもそれなりに使われていた。『ドラえもん』にもあったはず。マルチバースは最近考え出された画期的なアイデア……というわけではない)

 お話しをもうちょっと掘り下げていこう。
 映画が始まって40分ほどのところで、神永新二がウルトラマンであることが世間に知られてしまう。
 これは面白い。昔からある変身ヒーローものは「誰も知らない知られちゃいけない」……だった。この定石がいきなり崩される。
 でもどうして変身ヒーローは正体を知られてはいけないのだろうか?
 変身ヒーローは「ヒーロー」ではあるけれども、必ずしも「歓迎される存在」ではない。どこか忌まわしきもの、呪われた存在でもある。日常を超えた存在だから忌み嫌われ、封じられる。力を持っていると、その力を使って暴れるのではないか、良くないことを使われてしまうのではないか……そういう恐れの目で見られてしまうのだ。でも事件があったときには「神頼み」として頼られてしまう。どうしてそんな反応をされるのか、というと人間が弱いからだ。
 『シン・ウルトラマン』では正体が暴かれた後、国連が(本人の意思とは無関係に)新たな組織を立ち上げて「ウルトラマンを共同管理とする」……とかいう条約を勝手に作り始める。人々は好奇の目で神永新二のプライベートを暴いてやろうとするし、一方で恐怖の対象にされて無力化させ、管理できる状態に置こうとする。
 正体が暴かれる……という展開は変身ヒーローものでは時々ある展開だけど、そういう展開はもっと後、もっと大きな事件として扱われるが、『シン・ウルトラマン』ではもったいつけることはく前半パートに投入してくる。それだけ早い段階において、人々がウルトラマンをどう見ているか、どう扱うか、というお話しに持って行っている。
 そのうえにニセ・ウルトラマン登場。ヒーローものにおいて偽者は定番の展開だ。これも世の人々がウルトラマンをどう見るのか、どう扱うのか……というテーマがそこにあるから。ウルトラマンの戦いやヒーロー性が中心テーマなのではなく、ウルトラマンが出現したことによって社会がどのように反応するのか……のほうにテーマを振り分けている。

 大事なポイントだが、『シン・ウルトラマン』の「抽象度」はどうなっているのか。
 「抽象度」の概念は次のようなもの。

 抽象度を上げると漫画っぽくなる。抽象度を下げると実写っぽくなる……くらいに考えておけばだいたい合っている。
 『シン・ウルトラマン』の抽象度はあえてやや高めに作られている。『シン・ゴジラ』よりも抽象度は高め。テレビヒーローの『ウルトラマン』シリーズよりかは抽象度は低め。
 このバランス感覚になっているのは、まず、そもそもウルトラマンという非現実的な存在をどのように成立させるのか、ということが問題となってくる。テレビで描かれる『ウルトラマン』シリーズはもっと抽象度を高め。ウルトラマンと科学特捜隊を中心軸にして、その周辺の世界観をバッサリと切り捨てる。そうでもしないと、ウルトラマンという非現実的存在を成立させることができない。ウルトラマンに限らず、ヒーローものはまず抽象度を一気に上げて成立させる……というところから始まる。
 そこからいかにして抽象度を下げて表現として成立し得るか。ヒーローものの模索はこの挑戦の連続だった。例えば『ガンダム』はそれまであったロボットものをどこまでリアルに描けるか。ガンダムのような巨大ロボットが現実にあり得るとしたらそれは戦争であり、戦争兵器になるのではないか……という提唱が『ガンダム』だった。
 それから時を経て出てきたのは『パトレイバー』。『パトレイバー』はロボットを遠い未来とか宇宙とかではなく、日常の世界でどのように成立し得るか……それを模索していった作品だった。近い将来、土木作業ロボットが精密化していき、その高い機動性を活かした犯罪が起きるようになると、それを取り締まるための警察ロボットが必要になるのではないか……。『パトレイバー』はそういうところから着想されていった。
 日本のロボットものだけに限らず、アメコミヒーローもどんどん抽象度を下げていく方向に取っている。超人的スーパーヒーローが実際にいるとして、社会はその超人に対してどういう反応をするのか……2000年以降のアメコミ映画はだいたいこれがテーマになっている。むしろ今の時代、ヒーローものは抽象度を上げることができない……というジレンマを抱えている。

 ウルトラマンにしても仮面ライダーにしても特戦隊シリーズにしても、本当言うと実写で描くにはあまりにも抽象度の高い設計の作品になっている。どこか「子供向け」ということにして、抽象度の整合性という問題から逃げてきた……というフシもある。そこで『シン・ウルトラマン』はウルトラマンという「ありえねー存在」をどのように実写という抽象度のコントロールが効かないメディアの中で描くのか。そこでウルトラマンを取り巻く社会・国家・世界が深掘りされる物語になっていった。
 ウルトラマンの正体が早々に暴かれてしまうのも、今のような一般人がすぐに動画を公開できるような時代、いつまでも隠し通せる……というほうが非現実的。むしろあっさり暴かれてしまう、ということのほうが「リアルな展開」といえる。
 ヒーローものは抽象度を上げた世界であれば、ごく少数の人たちの物語となり、抽象度を下げていくとそれを取り巻く社会が出てきて、ヒーローはその中で矮小の存在になっていく。
 『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』ほど社会の厚みを描いてはいないけれど、もしもウルトラマンなるものが本当に現れたら社会は、国家はどのように反応し対処しようとしていくのか……それを描けるくらいの抽象度で描いている。
 抽象度を下げていった世界観の中では、人々は無邪気にウルトラマンを応援してくれるわけではない。むしろ恐れるようになっていく。人類の目線には怪獣もウルトラマンも同じカテゴリーだ。ウルトラマンは身長60メートル、体重2900トン、手から破壊光線を放つ。国家の視点になるとウルトラマンは「兵器」に映る。するとその兵器を誰が所有し、管理するのか……という話になっていく。

 日本に禍威獣が出現し、ウルトラマンが出現し、外星人たちが次々とやってくる。そうなると日本が向き合わねばならない問題は「国防」。
 日本は国防問題にあまり向き合ってこなかった国である。軍隊を持つことを禁じられて、軍隊ではなく「自衛隊」と呼ばねばならないし、その自衛隊の基本は防衛。明らかな危険が目の前にあっても、相手が攻撃してくるまで手を出してはならないというのが基本ルールだ。それ以上の防衛となるとアメリカに頼らねばならず、アメリカにイニシアチブを取られているから、アメリカが「こっちの戦争を手伝え」と言われたら「日本関係ねーじゃん」とか思ってても行かねばならない(それでテロの標的にされるんだから……)。
 そんな日本に禍威獣なるものが現れたら、当然国防について考えねばならなくなる。体長数十メートルの化け物が現れても、実際被害が出るまでこちらが手を出しちゃいかん……というルールでは国防にも限界がある。ゴジラが出現したときはどんな法的根拠で自衛隊を出動させるのか、それだけでひと揉めあったくらいだった。
 そこに外星人がやってきて、交渉を持ち込まれたら不利な条約でもホイホイと握手してしまう。「世界に先駆けて…」という焦りもあったのだろうけど、国防という面で決定的な弱さを抱えるがゆえの苦悩である。日本政府側から出せる手札がないから、そうなってしまう。
(ウルトラマンは国連が「ウルトラマンの共同保有」を提案したとき、自分自身の武力を盾に突っぱねた。日本政府はこういう手札が使えない)
 『シン・ウルトラマン』はウルトラマンという題材を扱って、日本の国防問題について語る作品になっている。そういうところは『シン・ゴジラ』に続いて……という感じだろう。ウルトラマンという題材から抽象度を下げていくと、そういう問題が自然と出てくるのだ。(抽象度を下げていくと、むしろお話しの選択肢は少なくなっていく。たぶん違う脚本家が描いても、このテーマに行き着くのではないか)

 お話しの後半戦に入ったところで浅見弘子巨大化。……この世界には「巨大女フェチ」というものがあって、そういう嗜好向け映画がわりとあるらしい……。私にはピンと来ないけど。
 その後メフィラスがやってきて、ベーターシステムなるものを使えば人間を巨大化させることができる。……って、この話『進撃の巨人』じゃーねーか!
(実写版『進撃の巨人』がウルトラマンっぽかったのは、この伏線だったのか……! 違うけど)
 しかも巨大化した人間は硬質化して、皮膚を剥がすことも髪の毛1本切り落とすことすらできなくなる。そこで人間1人1人が兵器化する可能性が出てきた。人類全員を「鎧巨人」にできる。そういうデモンストレーションを見せられて、日本政府はまたホイホイと怪しい外星人と手を組もうとする。……日本政府は尻が軽い。
 誰でも自由に鎧巨人にすることができる。核兵器を持つよりもお手軽で危険性が低い(核兵器は強力だけど使ったら最後……という代物だから)。最強の兵器を保有できる……と日本政府はつい話に乗ってしまう。ここもやはり国防という面で弱さを抱える日本の哀しみが出てくる。
 『進撃の巨人』では科学の発達で巨人の優位性が揺らいできて……というお話しだったが、『シン・ウルトラマン』では全員が鎧巨人にできるので、「画期的な兵器」ということで注目される。
 一方、宇宙では70億人の地球人がまるごと巨人化・兵器化する可能性が出てきて危ねーから消し去ってしまおう……みたいな話が出てきてしまう。お話しは地球だけではなく、宇宙を巻き込んだお話に発展していく。あまりにも強力すぎる兵器が出てくると、アメリカが、イスラム国が……ではなく宇宙全体から警戒されてしまう。国防のために兵器を持たねばならないが、強力すぎる兵器はそれはそれで問題になってしまう。

 ここでちょっと疑問点だったのだが、ウルトラマンが強靱な肉体を持ち得たのは、βカプセルによって巨大化したからだろうか。それとももともとウルトラマンは超人? という以前に、ウルトラマン本来の「サイズ」はどれくらいなのだろうか? いや人間と融合してしまったからβカプセルが必要になったのだろうか?
 この辺りの疑問点は解けないままだった。

 映画のお話しはここまでにしておくとして、映画としての『シン・ウルトラマン』はどうだったのか、それを観ていこう。
 ここまでのお話しで「抽象度を上げている」という話をしたが、映像・表現面でも抽象度を上げている。というのも禍威獣が登場するシーン、わざとダウングレードさせている。どのシーンも光の当たり方が均一で、ミニチュアっぽく見えるように作られている。
 出てくる禍威獣も生物的な生々しさはなく、質感全体がツルンとしていて、動きもあえて着ぐるみで可能な動かし方になっている(実際にアクターが動きをつけている)。
 撮影の仕方もわざとミニチュア特撮っぽくなっていて、戦いを見ている人とウルトラマンをカットで分けている。両方が同一カットで描かれる場面はあるのだけど、ピントや距離感がおかしい。あえてミニチュア撮影っぽい構図で描かれている。
 本当はもっとリアルに作ろうとすればできたはず。『シン・ゴジラ』のほうがシーン一つ一つに厚みがあった。災害シーンは『シン・ゴジラ』のほうが怖かった。しかし『シン・ウルトラマン』はあえてミニチュアっぽく、着ぐるみっぽく作られている。どうしてこう描くかというと、特撮ものに対するオマージュ、あるいはノスタルジー。
 この表現が普段から特撮ものを見てきた人や、『ウルトラマン』をリアルタイムで見てきたという人にとってはストライクだったようだけど……。しかしそういう経験がない私から見ると安っぽく見えてしまう。禍威獣がもたらす災害を見ても怖さを感じない。お話しは政府や国防といったものがテーマに絡んできて、かなり重厚なのだけど、映像の一つ一つに同じくらいの説得力を持っているように見えない。
 禍特対はかつての科学特捜隊のようなコスチュームではなく、どこにでもあるスーツ姿に変更されていて、これも作品の抽象度に合わせた姿だ。でもその禍特対の本部の様子にリアリティや厚みがない。というか安っぽい。こういうところも抽象度を上げて描かれている。でも一方で抽象度を下げて、人物をキャラクターとして見せている。
 後半、神永新二が入院する病室が描かれるのだけど、狭い部屋にベッドが一つだけ……とやはり抽象度を高めに描いている。
 物語の厚みに対して、映像の抽象度が全体的に高め。ここで物語と映像のバランスが悪く感じられてしまう。
 『シン・ウルトラマン』はやたらとカット数が多い作品なのだが、そのカットがあまり格好よくない。むやみにカット割りが多い……という印象になってしまっている。これは樋口真嗣監督、庵野秀明監督の構図に対する意識の違い。庵野秀明監督の方が圧倒的にカット割りのセンスがいい。『シン・ウルトラマン』も『シン・ゴジラ』ふうにカット割りをやたらと多くしているのだけど、ただカット割りが多いだけで「格好いい画」がぜんぜん出てこない。「庵野秀明風の偽物」……という感じになってしまっている。画面の抽象度と同じくらい構図が安っぽい。
 しかもピントもちゃんと合っていないカットも結構ある。画作りとして失敗しているようなカットも編集に組み込まれていて、「それは映画としてどうなんだ?」という感じがした。

 ドラマ作りも安っぽい。もともと庵野秀明監督は人間のドラマを書くのがあまり得意な方ではない。それが『シン・ウルトラマン』では悪い方向に動いていて、全体に情緒がない。
 物語の後半、ゼットンが出現して、滝明久が「もうダメだ」と諦めてしまう。しかし神永新二からヒントを与えられ、奮起してゼットン攻略法を見付けるために動き始める。この辺りのドラマの動きがウルトラマン達から見れば「人間の善性」として映り、「ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか」という台詞に結びついていくのだが……。これらのドラマがひと連なりに繋がっているように見えない。
 禍特対のメンバーとの交流も薄く、本当なら禍特対の結束も「ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか」に結びついていくところだったのに、ここもうまく掘り下げられたとは思えない。それぞれの要素がアンサンブルになっていない。
 必要最低の要素はきちんと揃っているのだけど、そこに情緒がない。だからラストシーンに感動できない。重要な台詞がどこか宙に浮いてしまっている。ただカットを並べただけで映画になりきれていない……そんな印象だった。

 画像は安野モヨコ作『監督不行届』から。

 ウルトラマンがスペシウム光線を放つシーンのモーションアクターが庵野秀明だと聞かされたとき、誰もがこの場面を想像したはず。庵野秀明はスペシウム光線の構えを日頃から反復訓練し続けていたのだ。その成果があの映画の見事なシーンに繋がっている。
 『シン・ウルトラマン』の映画が庵野秀明監督ではない……と聞かされたとき、不思議に思った。庵野秀明といえば「ウルトラマン好き」として知られて、自身がウルトラマンになったことがあるくらいだ。
 庵野秀明が監督を務めなかったのはどうやらスケジュール的な問題。『シン・エヴァンゲリオン』の制作の真っ只中で企画がスタートし、その進行は東宝か円谷プロダクションのどちらかがわからないがイニシアチブを取られて、『エヴァ』の完成まで待ってくれない。そこでやむなく……といったところだろう。
 映画を観ていると、確かに庵野秀明脚本だけど、どこにも監督としての庵野秀明がいない。画作りが弱い。脚本が持っているパワーを活かしきれていない。これは脚本に書かれていた「神髄」が理解できていなかったからだ。それが理解できて映像化できる人間は庵野秀明ただ一人。やはり庵野秀明が監督すべきだった。
 しかし『シン・ウルトラマン』はどうやらこれで終わり、というわけではないらしい。続きが企画されているようだ。その時には庵野秀明による『シン・ウルトラマン』が見られることを期待したい。私はウルトラマンの本当の姿が見たい。


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