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映画感想 西部戦線異状なし(2022・ドイツ)

 『西部戦線異状なし』3度目の映像化である。原作は1929年に出版され、出版後瞬く間にベストセラーとなり、1930年にはアメリカで映画化。1979年に再びアメリカでテレビ映画化。いずれの映像化も高い評価を受け、現在も「名作」の誉れを受けている。
 3度目の映像化である本作は、ドイツで制作。原作がドイツで、ドイツ軍を描いた作品であるので、それがドイツ人によってドイツ語の映画として制作されるというのはそれだけでも意義深い。(Netflixには英語吹き替えも用意されているが、ここはドイツ語で見るべきだろう)
 監督エドワード・ベルガーはもちろんドイツ人。1994年にニューヨークの大学に移り映画制作を学び、間もなくテレビ監督としてキャリアをスタートさせる。彼の制作したテレビドラマは高い評価を受け、2014年『ジャック』で映画監督デビュー、ベルリン国際映画祭コンペンティションに招待を受ける。その後もテレビドラマの監督、映画の監督をいくつかこなし、いずれも高い評価を得た後、2022年本作『西部戦線異状なし』を制作、発表する。
 『西部戦線異状なし』をドイツ人によるドイツ語の映画として制作する。それ自体が意義深い話なのだけど、本作は原作の忠実な映像化ではなく、“現代の世相に対してなにを提唱するか”……をメインテーマに置かれている。ただドイツの名作をドイツ人が映像化する、というだけではなく、なぜ今この作品なのか……そこに監督のメッセージが込められている。
 Netflix作品であるので、劇場公開はごく一部で短い期間催された。2022年9月にトロント国際映画祭でプレミア上映、同じ月の終わり頃にドイツの映画館でかけられ、以降はNetflixのみの配信となっている。
 映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは批評家支持92%。10点満点中8.3と非常に高い評価を受けている。アワードはヨーロッパ映画賞2022で優秀メイクアップ&ヘア優秀賞、優秀視覚効果賞を受賞。ナショナルボードオブレビューアワード2022で脚色賞。ニューポートビーチ映画祭2022で撮影賞を受賞している。
 Netflixにはあまり期待されていなかったらしく、アメリカではあまりプロモーションがなかったらしいが、2023年第95回アカデミー賞では国際長編映画賞、撮影賞、作曲賞、美術賞を受賞した。これで名実ともにハリウッドが制作した過去作と並ぶ1本になった。

 それでは前半のあらすじを見ていこう。


「突撃!」
 西部戦線の塹壕の中で号令が駆け巡った。激しい銃撃が頭上を駆け巡っている。ハインリヒは号令を受けても恐怖で足がすくんで動けなかった。
「ハインリヒ行け! さっさと走れ!」
 上官に怒鳴られて、ハインリヒはようやく塹壕から飛び出す。
 しかしそこは激しい銃弾の嵐。ハインリヒは涙を流しながら、半狂乱になってその中と駆け抜けるのだった。

 1917年春。平和なドイツ北部では若者達が召集を受け、戦場へ向かおうとしていた。パウル・ボイマーも友人達4人とともに召集令状にサインするのだった。
 ところがトラックに乗って戦場へ向かうが、その途中で医師に止められてしまう。医師が言うには、今すぐ運び出さなければならない怪我人が40人もいるから下りてくれ……と。仕方なくパウル達新兵は歩いて西部戦線の塹壕へ向かうのだった。
 その途上、フランス軍の砲撃を受けて、慌ててガスマスクを付ける。しかし友人の手助けしていたためガスマスクを身につけるのが遅かったパウルは、上官に叱責を受けてしまう。「お前は明け方までに死ぬ。何か喰っとけ」と。罰として今夜の哨兵までガスマスクを付けていろ、と指令を受けるのだった。
 間もなく塹壕の中へ入るのだが、激しい雨に見舞われ、雨水を塹壕から掻き出すことが最初の仕事だった。
 夜になって友人のアルベルト・クロップとともに見張りをしているのだが、間もなく激しい砲撃が始まる。
「ボイマー、クロップ、待避壕へ入れ! 急げ!」
 命令を受けて仲間達とともに待避壕へ飛び込む。爆撃はその後もどんどん激しくなり、待避壕は今にも潰れそうなくらいグラグラ揺れた。新兵達は恐怖に捕らわれ、喚いたり泣き出したしはじめた。
 間もなく新兵が待避壕から飛び出した。同時に待避壕に限界が来た。上官命令で兵士達が一斉に待避壕を脱出する。しかしパウルは逃げ遅れて、待避壕の下敷きになるのだった。
 翌日の朝、瓦礫の中からどうにか救い出されたパウル。生きのびられた……そのことが信じられなかった。安堵と疲れでぐったりしていたのだが、すぐに上官から「ドッグタグを集めろ」と命令される。
 パウルはフラフラしながらも、死体からドッグタグを拾い集める。間もなく死体の中に、一緒に戦場にやってきた同じ古里の友人を見付けて、愕然とする。


 ここまでで30分。

 冒頭、「ハインリヒ」という若い兵士が登場してきて、手に持ったスコップでフランス兵に突撃する場面が描かれている。当時は銃剣よりもスコップの方が武器として扱いやすかった……という事情があったそうだ。他の場面でも何度かスコップを武器として扱われている。
 しかしハインリヒは戦場で命を落とし、死体から軍服が剥ぎ取られ本国に送り返され、お針子によって修繕され、その次の若い兵士の軍服になる。若い兵士は支給された軍服が死んだ誰かの兵士のものだとは知らず、「知らない人の名前が付いている」と思い込む。上官は「彼には小さすぎたんだな」と言って、軍服に付いていた「ハインリヒ」のネームタグをブチッとちぎり取って、足元に捨てる。
 死んでいった兵士は国の礎になる、名誉あるものだ……なんてよく言うけれども、一兵卒の死なんてポイッと足元に捨てられる。誰もその名前を掲げたりしない。戦場の死がいかに軽いものか……冒頭の数分から反戦メッセージが込められている。

1915~16年の西部戦線の地図

 第1次世界大戦は近代兵器が初めて登場した大規模戦争だった。その以前の戦争における銃撃戦は、弾を撃ったら筒を掃除して火薬と弾丸を一発分込めなおしてやっと撃つ……という感じだったが黒色火薬の発明により連発可能となり、しかも飛距離も一気に長くなった。そのおかげで19世紀的戦術がほとんどまったく通用しない世界となり、銃弾を避けるために塹壕を掘り、そこから一歩も進めなくなった……というのが第1次世界大戦の状況だった。
 その中でも西部戦線は1914年の開戦から1918年の終戦まで、戦線が数メートルしか前後しなかった……と言われる戦場だった。作中でも「フランス軍を占領するのに180年かかる」と冗談っぽく語られるほどだった。なのに死傷者数が数千万人もいて、今となっては「戦争の不毛さ」を象徴する場所となっている。『西部戦線異状なし』のタイトルは、パウル・ボイマーが「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と司令部に報告しようとしていたメモを元にしている。
 第1次世界大戦の発明品は多く、電話、無線通信、装甲車、戦車がこの戦争の中で発明され、塩素ガスも発明された上に使用され、それに対抗するためのガスマスクも発明された。銃弾を防ぐためのヘルメットもこの頃ようやく出てきたもの。
 なにもかも手探り状態での戦争だった。「突撃」となったら全員で一気呵成に飛び出して相手陣地に向かって走るだけ……で、運が良ければ死なない、というものだった。銃弾から身を守るものを何も持たずに人海戦術で飛び出すわけだから、そのうちの何割か死ぬことが前提の戦術だった。新兵が次から次へと投入されたものの、突撃のときの手数を増やすためでしかなかった。
 こうした膠着状態を打開するためにこの頃やっと発明されたものが戦車。本作でも戦車が登場し、その戦車に対しドイツ兵達が意味もないのに正面から銃弾を撃つ場面がある。どうしてあんなことをするのかというと、当時のドイツ人は戦車なるものを初めて見たという状態なので、対処法がわからなかったからだ。
 他にも塹壕の中にいる兵士を効率よく殺すために作り出された火炎放射器なんてものも出てくる。改めて映像として見ると、えげつなさがよくわかる。

実際の西部戦線の写真

 なにもかもわからないづくし、手探り状態での戦争で、しかも当時のヨーロッパの人々はその前の戦争が数十年前で、若者世代だけではなく親世代も「戦争」がどういったものかよく理解していなかった。
 当時のドキュメンタリーなんかを見ると、若い兵士達は笑いながら、ふざけあいながら兵隊訓練を受けていた。戦争はそれくらい「軽いもの」と思い込んでいた。
 この戦争はすぐに終わるさ。クリスマスには帰ってくる。戦争へ行ったら国から報償も受けられるはずだし、女の子からは「素敵!」と言ってくれてモテるようになるはずだし、戦争に行ったことは子や孫まで自慢ができる……それくらいのものだと思っていた。
 志願を決めた後、学校では先生から情熱的な演説を聴かされる。
「兵士に志願した君たちは将来も評価される。ドイツの鉄青年達よ、君たちは最高の時代に生きている。君たちの行いが水となって立派な根を育てるだろう。君たちとここで再会する日は近い! その時は名誉の剣を携え、鉄十字勲章を付けているだろう!」
 と、こんな感じで、志願を決めただけでも大人達からも地域からもチヤホヤされる。逆に志願を拒否したら「臆病者」の罵りを受けただろう。
 この時代は「ドイツ国」というか「ドイツ帝国」の時代。この時代はまだ統治者に人格があった時代で、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国、アイルランド連合王国……と古色蒼然とした「国家主義」や「国粋主義」がまだ残っていた頃だった。と同時に、ようやく「国家」という意識が人々の間に生まれかけた頃でもあって、それで国家の号令で国民が動員される大規模戦争なるものが実現した。若者が戦場に出て戦う……ということにナショナリズム的意義があった。それが一つの大きなイニシエーションの役割を果たしていて、地域は若者を「大人」にするために積極的に戦場へ送り出してたし、若者は社会から受け入れてもらいたい、男性としての勇気を示したいと積極的に戦場へ行きたがった。

 ところが行ったらそこが地獄だったと知り、一日で後悔する。しかも新兵なんて突撃の時の人数あわせで呼ばれただけにすぎなかった。昔の叙事詩のように英雄的行動を発露する場すらない。
 作中では主人公パウルに与えられる最初の任務は、塹壕に溜まった雨水を掻き出すこと。塹壕は銃弾を凌ぐために無計画に作られたものだから、雨の後の排水なんて想定していない。あの辺りは非常に寒く、雨水に足を突っ込んだままにしていると凍傷になるし、さらに放置したら足が腐ることもあった。そういうわけで雨が降ったら人力で掻き出していた。訓練を受けて戦場に行った身としては、「なんでこんなことをやっているんだろう」という感じだろう。
 避難壕崩落の下敷きになったパウルは仲間達に救われるが、休んでいる間もなく上官から「ドッグタグを集めろ」と指令を受ける。今ではドッグタグは2枚持って歩くという方式になっているが、この時代は一つのドッグタグを割り折る方式だった。一つは死体そのものの識別に、あとのもう一つは本部に送られ、記録を取るためだった。
 そこでパウルは、一緒に古里を出た友人の死体に遭遇してしまう。死んだらただの肉の塊。名前だけ記録されて、あとは忘れられる……。パウルは友人の死に愕然として、せめての敬意を示そうと服の乱れを直すのだった。
 なにが「名誉の剣」だ。なにが「鉄十字勲章」だ。ただ理不尽な地獄があって、名誉なんて何もなかった。

 こんなふうに戦場へ行く前の陽気な気分、戦場に行ってからの絶望が描かれるのが前半30分。
 そこへ行くまでの描き方も非常に丁寧だ。トラックでいきなり戦場へ行くのではなく、途中で止められ、歩いて向かうことになる。少し向こう側には不毛の土地が広がり、黒煙がもくもくと立ち上がっている。上官達は頭のネジが抜け落ちたみたいに理不尽に罵倒してくる。戦場に長くいたから、社会観が壊れてしまっているのだ。それに歩いて向かう、というプロセスを挟むことによって、戦場に向かう過程よりじわじわと、恐ろしいものに感じさせる効果が出ている。
 行軍中、フランス軍の砲撃が落ちてくる。「ガスだ!」号令が走り、ガスマスクを身につける。しかしパウルの友人はメガネを掛けているからガスマスクを付けるのに手間取る。ここで「メガネを掛けているからガスマスクを付けるのに手間取り」、「自分もガスマスクを付けるのに手間取る」という理由と結果が示されている。おかげでやりとりがわざとらしくなっていない。こういう細かい段取りをきちんと積み重ねている。
 戦闘シーンになるとみんな同じ格好をしているし、泥や煤で顔が真っ黒になるけれども、識別できるようにメガネを掛けさせるとか、ヘルメットを落とさせてブロンドの髪を見せるとか……。そういう細かいところをきちんとやってくれている。作劇が丁寧。

 お話し前半部分を乗り越えると、一気に18ヶ月後まで物語が飛ぶ。なんと西部戦線は1年半の間、まったく動かず。パウル達は生きのびたけれども、飢えと渇きに苦しんでいた。食料需給が明らかに少ないという状態だった。
 塹壕に到着してすぐに、カットという先輩兵士に優しくしてもらえるのだが、このカットとは親しい仲になり、彼の班に加わって指令を受けるようになっていた。
 しかし西部戦線は「まったく動かない」ということがすでに定評となっていたので、することもなく。近くのフランス人の農場に忍び込んで、ガチョウを強奪したりしていた。
(東部戦線はロシアとの戦闘になっていて、こちらには動きがあった)
 あるとき、パウルとカットはトイレでウンコをしながら、話し合う。
「いつか家へ帰って日常生活に戻るよな。みんな武勇伝を聞きたがる。俺たちは過去に囚われ、さまよう。考えちまう。焚き火を囲む方が幸せかも」
 この地獄を体験して、果たして平和な日常に戻れるのだろうか。戦場にいる苦しみは、戦場に行かなかった誰にも理解できない。子供たちは単純な「武勇伝」だと思って英雄譚を聞きたがる。それに戦場で倒れていった友人達のことが忘れられない。帰れなかった人たちはずっと心の中に残り続ける。俺たちはなんでこんな目に遭っているんだ。戦争が終わったとして、心は古里に帰れるのか……。

 戦場の一方で、ドイツ首席全権のエルベルガーという男がフランス側と交渉するためにコンピエーニュへと向かう。この辺りがどうやら原作になかったところらしく……。戦場の光景とは別にして、いかにして「戦争を止めさせるか」首脳側の目線が描かれる。
 「首脳の世界」というのはいつまで経っても文明化されない世界である。当時から今も、外交は「猿山」感覚。ドイツとフランスの首脳が会談をしよう……という場だけど、優勢のフランス側は椅子にふんぞり返ってこれみよがしな尊大な態度。それに対してひたすらにへりくだった態度のドイツ。戦争に負けている側、というのはこういう対応をさせられるものなのだ。
 エルベルガーは今日にでも戦争を終わらせたいと思っている。一日長引くだけでも戦場では若者達が数百人死んでいく……その思いで会談に臨むが、しかしフランスは一方的な要求を突きつけてくる。これは受け入れてもアウト、受け入れなくてもアウト。早く受け入れないと、ドイツ自体が消滅するくらい消耗してしまうけど、受け入れるとその後ドイツ国民が苦しむことになる。実際、この戦いの後、ドイツは経済破綻して大量の餓死者を生み出してしまう。
 せめて少しでも戦線を進めて、ドイツ側有利の条件を引き出したいけれど、その余地すらないような状態。エルベルガーはとにかくも「これ以上死人を出すわけにはいかない」とフランス側の要求をすべて受けて、停戦に持ち込もうとする。

 が、果たしてこの選択は正しかったのか……。この時の理不尽な条約を受け入れたためにドイツは経済破綻して、「次の戦争」の切っ掛けを作ってしまう。ドイツの名誉は徹底的に汚され、ヒトラーという怪人を生み出したばかりではなく、ファシズムを受け入れる土壌まで作ってしまう。
 数十年後である1940年6月22日、ドイツとフランスは再びこの場所・コンピエーニュで会談し、フランスに「降伏宣言」させるのだった。これもドイツの名誉を回復させるために必要なことだった……。
 なにが正解だったか、誰にもわからない。

 一方、西部戦線の後方にはとある将軍が赴任してくる。その将軍とは軍人家系に生まれた男で、父親は何度も戦いを指揮して勝利を勝ち取ってきた将軍だった。しかし幸いなのかそうではないのか、平和な時期が何十年も続いてしまい、軍人家系に生まれた者としては、一族の名誉を獲得する機会がずーっとなく……。
 この将軍にとって、戦争は願ってもいない機会だった。軍人家系に生まれた男児として、勝利を挙げて「誉れ」を得たい……! しかし司令部は戦争を止めようとしている。将軍からするとそれが許せない。「あいつらは売国奴だ!」と怒り狂っているのはこのため。
 戦場で何人死のうが関係ない。戦争を続けること、勝利を挙げること、それ自体が大事なのだ! ――と、将軍は司令部の意向を無視してでも、前線に突撃指令を出してしまう。
 首席全権のエルベルガー、将軍、その両者の思惑に振り回され、死人を増やしていく戦場……この3つの状況が交差するように描かれていく。

 映画の冒頭、自然の森が描写される。静かな森、その中で営みを続ける狐の姿……。
 そんな穏やかな風景が一変して荒廃した戦場の映像に変わる。美しい森と対比させることで、戦争のむなしさ、度し難さが強調される。「人間はなんてバカなことをやっているんだ」と思わされる。さらに兵士達をまるで森の中の木々のように林立させる場面もでてくる。兵士達から人格を剥ぎ取るような描写だ。1人1人が戦場という中では他愛もない1人として扱われてしまう……。その無情さを描いているようだ。
 とにかくも見事な戦争映画だ。戦争の無情さ、冷酷さをとことん描き込んでいる。反戦映画として見るべき1本。
 ただ一つだけ。何に引っ掛かったかというと、家庭の20インチや30インチの画面ではあまりにも小さすぎること。映画は明らかに大きなスクリーンで見ることを前提に構図を作っている。それくらい構図作りがしっかりしているし、ディテールも隅々まできっちり描いている。どうしてこの映画をほんのちょっとだけしか劇場公開させず、配信のみにしたのか……。これはもっと劇場スクリーンで見るべき映画ではないか。よくできた映画だからこそ、配信でしか見られない……ということに引っ掛かりを感じた。

 今回の映画を観ていて、戦争なんてやるべきじゃないな……。どの戦争映画でも見ていて思うことだけど、今回は強烈に戦争が嫌になる映画だった。戦争は何もかもが理不尽。
 しかし現実は、戦争の方から来てしまう……。避けようとしても、戦争の方がいつかやって来てしまう。そのための火種はいつも世界のどこかにある。現実の理不尽さを思うと、なんともいえない気持ちになるのだった……。


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