7月12日 抽象度について
Facebookのお絵かき系コミュニティに出すつもりで作成した画像だったけど、よくよく考えたらこんな引用だらけの画像はNGなので、自分のところにのみ掲載。
すると、見てもらえる人が限られてしまうんだけど……それは仕方ない、か。
『抽象度』とは創作のリアリティラインをどこに置くか……という考え方のこと。
シリアス系の絵であれば抽象度を下げて、コミカル系の絵であれば抽象度を上げていく。
それはシナリオの作りも同じで、表現したいものに合わせて、抽象度をコントロールして書くと、良くなりやすい。
一つの例として『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』。『ブレスオブザワイルド』は実はフォトリアルを是とする洋ゲーオープンワールドゲームと比較して、抽象度はかなり高い。抽象度を高めることで、作中に起きている現象に違和感を持たせないようにしている。たとえばたき火程度の炎が発する上昇気流で人間が浮かび上がったり、動物を矢で射た後、ポンと肉になったり……。ある程度の不思議さ、コミカルさを受け入れられるように、ビジュアルからやや抽象度を高めに作られている。
キャラクターに合わせて、背景も作風も抽象度を合わせていったほうが良い。このバランスが崩れると、どこか浮いたり、読む側に没入を妨げるようになる。
私の絵の場合、一時体だけはリアルなのに、顔だけ漫画風になっていた。これは顔と体で抽象度が一致しておらず、だから違和感の元になっていた。
↑まるで実在人物が着ぐるみの頭部を被ったみたいで気持ち悪い絵。抽象度のバランスが取れていないから、こんな奇妙な印象の絵になる。
(ちなみにどうして顔だけ抽象度を高めに描いていたかというと、下書きの段階で可愛く見えないからだった。抽象度の低い絵は、ある程度以上描き込まないと、女の子の顔が可愛くかけているかどうかがわからない。また可愛く描けるかどうかがわからない。手っ取り早く下書き段階で可愛く見えるようにしなければ……と考えるとついつい抽象度高めの顔にしてしまう。全体の抽象度を合わせつつ、しかも可愛く……は実際かなり難しい。シンプルな線画で可愛いかどうかの判定ができるのも、抽象度が高いことの利点である)
ところで抽象度が合っていない作品というのは、世の中にぽつぽつとあるもの。例えば『若おかみは小学生』。この作品の場合、ストーリーの重さ、作劇(キャラクターの所作を含む)の重さ、背景の緻密さに対して、キャラクターデザインの抽象度だけが合っていないように感じられた。『若おかみは小学生』は良作であるのは間違いないが、私が引っ掛かっていたのはこの抽象度が合っていないこと。ストーリーに合わせて、キャラクターの抽象度をもう少し下げて欲しかった……。
抽象度をコントロールさせる手法は、色んなところで色んな事情によって実践されてきている。
例えば『ポケモン』は実写映画化するにあたり、実写の背景、実写の俳優に合うように、ポケモンがリアルに描かれている。実写化という要請に合わせて、抽象度を落としている。
一方の『ポプテピピック』ではギャグ表現として抽象度を上げたり下げたりしている。こういった描き方はギャグアニメではわりとよく使われる手法だ。可愛い女の子がリアルな絵になったり、最初にゆるキャラっぽい絵を見せていて、いきなり深夜帯アニメらしい絵柄を出してきたり……。
抽象度を上げたり下げたりは、いろんなタイミングで使える技術なので、描き分けができるようになっているといい。
抽象度を高いことの利点
現実的にある得ないモチーフ(キャラクタ・ストーリー)を描ける。
作り手の空想通りの絵を違和感なく成立させやすい。
大量生産が容易で、仕事に向いている。
コミカルな題材を描きやすい。
現実ではあり得ないくらい可愛いものを表現できる。
(アニメの美少女や、ゆるキャラなど。丸い顔に、点を3点置くだけで「可愛い」を表現できる。これは抽象度が高い状態の中でしかあり得ない)
そこに何が描かれているのか、明確にできる。
(抽象的テーマが表現しやすい)
抽象度が高いことの弱点
キャラクターの描き分けが難しい。
(一定スタイルの微妙なユレでしかキャラクターの描き分けが表現できない。このスタイルを大きく踏み越えると、違う世界観のキャラに見えてしまう)
年齢の描き分けが難しい。
(キャラクターにはそもそも設定上以外の年齢表現がない。また属性・人種の描き分けも苦手とする)
重層的なテーマが表現しづらい。
高質感あるドラマが表現しづらい。
安っぽく見られやすい。
癖が強すぎると、違う文化圏の人から拒否されやすい。
(「違う文化圏」とは、あまり漫画・アニメに親しみのない人に見せると、拒否反応が起きやすいということ)
抽象度が低いことの利点
多様な年齢、人種の表現ができる。
高質感あるドラマが表現できる。
重層的なテーマが表現できる。
漫画のない文化圏でも受け入れられやすい。
抽象度が低いことの弱点
制作に時間と費用がかかり、生産性が低い。またクオリティのキープが難しい。
コミカルな題材が失敗しやすい。
何が表現されているのか、作品のメインテーマが見えづらい。
突飛な空想や合成が成立させづらい。
抽象度が低いことの利点は、まず重厚なテーマが表現できること。抽象度を下げれば下げるほど、重々しいドラマがカッコよく決まる。そうしたドラマが作る感動は、抽象度の高い中ではあり得ないだろう。
抽象度の高い表現で重いドラマを展開する……という試みは一杯あるのだけど、どうしても軽く見られやすい。キャラクターが感じている情動が薄っぺらくなりやすい。同じ表現を描いていたとしても、抽象度が低い表現の時のほうが感動が深く感じられる。
抽象度が高い表現の時に感動できないのは、見ている側の意識を、その抽象度が持っているリアリティに合わせる必要があるからだ。抽象度が高い世界観だと、例えば銃で撃たれても死なない、高所方飛び降りても死なない……といった現象がしばしば起きる。そういった現象を、その抽象度における約束事であると、見ている側に了解させなければならない。そのプロセスが必要になるから、なかなか見る側を没入させることができない。抽象度が高いときの方が、作り手は世界観や作劇をきっちり描かないといけない。
また抽象度が高い時の感動が薄く感じられるのは、あらゆる表現が記号化しているからだ。人物が泣いている表現にしても、目の表現や涙の表現といったものは、基本的には記号の集積でしかない。見入っているようでも、どうしてもそこに気付いてしまうから、見ている側も「嘘」だと思ってしまう。また、その表現が本気かどうか、の度合いも推し量りかねる。そういった場合の表現は、抽象度が低い表現のほうに軍配が上がる。
では抽象度が高いことの利点がどこにあるのか、というと現実では明らかに不自然な表現でも、現実のものとして受け止めることができる。『ブレスオブザワイルド』はすでに例に出したが、たき火程度の炎が出す上昇気流で人が浮かび上がることができる。あり得ないが、抽象度が高い表現の中だと、それが本当だとその瞬間信じることができる。
(リアル表現に徹すると、どうしてもどこかでシュールの谷……「不気味の谷」の表現版をこのように呼ぶ……にぶち当たってしまうが、抽象度を上げておけば、シュールの谷にぶち当たらず受け入れることができる。シュールの谷がどうして起きるのかというと、抽象度が違う表現が不規則に並んでいる状態のときに起きる。リアルに作り込まれたゲームは、抽象度を維持できず、どうしてもどこかでシュールの谷にぶつかってしまう)
『アンパンマン』ではあんパンを頭に載せたヒーローが空からやってきて、自分の頭を食べさせる……奇怪な表現どころではないが、あの抽象度の世界ではあり得るように感じられる。それどころか、牧歌的な和やかさすら感じさせてくれる。
抽象度が高い状態であれば、冒険的な表現や、実験的な表現も可能になる。一方の抽象度を下げすぎてしまうと、飛躍した表現を入れると「おや?」と引っ掛かってしまう。
私は今、とある海外ドラマを観ているのだが、中国の歴史を描いたその作品だが、おそらく歴史実在人物であろう人々が、ことごとくカンフーの達人として描かれてしまっている。その立ち回りがあまりにも鮮やかすぎて、シーンの作り自体は格好良いのだが、でも頭の片隅で「いや、それはないだろう」とツッコミを入れてしまう。リアルで重厚に作り込まれた世界観があって、その中に登場してきてしまうスーパーヒーローさながらのカンフーの達人は、シュールの谷を引き起こす原因となっている。
最近の映画といえばスーパーヒーローが登場する映画が多いが、ああいったキャラクターを表現する場合、常にリアリティラインを下げておく必要がある。一定のリアリズムを保ったまま、破綻しないギリギリまでリアリティラインを下げて表現していくのだから、なかなか難しい。抽象度を上げすぎて、作品の重厚さまでも失ってしまった作品は多数ある。
(例えば映画『ジョーカー』は、マフィアとゴッサム市警を巡る闘争というリアルな作劇の中、バットマンが登場すると突然抽象度が上がってしまう。そこでいきなり「コミックヒーロー映画」に変わってしまう。抽象度が下がりすぎないようにバットマンの描写もリアルに作り込まなければならず、なかなか難儀な課題に挑戦している作品だと感じた)
またテーマを立てやすいというのも抽象度が高いことの利点だ。抽象度が低いといろんなものが見えすぎてしまって、作品のテーマがどこにあるのかわからない。抽象度を上げていくと、周囲に映り込む余計なものを刈り込めるから、テーマを克明にさせやすい。
深夜アニメはだいたい同じ抽象度のラインにいる。これは深夜アニメくらいの抽象度が、シリアスな物語にもコミカルな物語にも対応できる抽象度だからだと考えられる。
抽象度を決定させる要件には、ある程度の高い等身や、目鼻の描き方、身体の精密さなどが絡んでくる。そういった描き方が、どの程度背景のディテールと一致させられるか。
深夜アニメ帯はどの作品を観てもある程度高い等身を持っているし、記号化しているとはいえ明確な目鼻口、さらに身体描写も精密。ある程度のリアリティと嘘の両方を備えている。これがシリアスな物語にもコミカルな物語にも振りやすい理由で、キャラクターデザイナーたちがこのラインに合わせて描こうとする理由にもなっている。
私は深夜アニメくらいの抽象度を、「抽象度の中間位置」と呼ぶことに決めた。この辺りをベースに、抽象度を上げたり下げたりをしていくと良いだろう。
絵の抽象度は、描こうとしている作品テーマを見極めて、コントロールできるようになると良い。重層的なテーマを描くときには抽象度を下げて、コミカルな作品や現実ではあり得ないようなファンタジーを描くときには抽象度を高めて描くと良い。
基本的にはテーマと絵の抽象度は合わせて描くと良いが、あえてずらして描くというやり方もある。例えばロバート・ゼメキス監督『ロジャー・ラビット』では実写俳優と二次元のキャラ絵が合成されて描かれていた。この作品の場合、抽象度が極端に違う者同士が同居している、ということが作品の面白さとなっていた。
絵の抽象度がコントロールできるようになったら、一つの作品の中で抽象度を変えながら描くという手法もできるようになる。たとえば、リアルな抽象度の低い絵で、抽象度の高いギャグを展開するとか。作中で抽象度をどんどん変化させていくような作劇も可能になってくる。抽象度の考え方がわかると、色んな表現もできるようになっていくだろう。
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