映画感想 フェイブルマンズ
伝記映画の中の嘘と本当。
エンタメ映画の巨匠、スティーブン・スピルバーグはどんな少年期を過ごしたのか……?
2022年の映画『フェイブルマンズ』。タイトルの『Fabal』はドイツ語で「寓話」を意味する。スピルバーグの名前はドイツ語で芝居(スピル)+山(バーグ)を意味し、これに対応する名前として脚本家が考案した。タイトルには、事実をもとにしつつ、象徴的な物語でもある……という意味がある。
脚本はトニー・クシュナー。撮影はヤヌス・カミンスキー。編集はマイケル・カーン。スピルバーグ映画にとって馴染みのクリエイターが集められた。これはスピルバーグにとってかなりプライベートな映画を撮るから、気心を知れた仲間だけで撮りたい……という意向があったからだ。そして音楽は、映画音楽の名匠ジョン・ウィリアムズ。92歳である。さすがに高齢のため、最近はそろそろ引退を口にし始めている。本作の後に『インディ・ジョーンズ5』の音楽を担当するが、この作品がもしかすると最後かも知れない。
脚本はスティーブン・スピルバーグとトニー・クシュナーの共作となっているが、脚本の制作方法はちょっと特殊だったらしい。スピルバーグの幼少期の思い出が物語になっているが、さすがに遠い過去のことですぐには思い出せず、おそらくは子供時代の写真を見ながらとりとめもなく話し、それを脚本家がまとめていく……という形だったようだ。今回の脚本制作は、スピルバーグも「セラピーに話しているようだった」と語っている。
しかし興行収入は世界で4500万ドル。米バラエティ誌では「残念な結果」と言われるほどに興行収入は低い。制作費は4000万ドルだったので、広告費を含むと赤字だったはずだ。
映画批評集積サイトRotten tomatoを見ると、397件の批評家によるレビューがあり、肯定評価92%。一般評価83%。興行成績は伸びなかったが、作品を見た人の評価は高い。
第95回アカデミー賞に作品賞を含む7部門にノミネートされたが、この年の作品賞は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』。アカデミー賞では受賞なしだった。第28回放送映画協会賞でも11部門ノミネートするが受賞なし。第80回ゴールデングローブ賞のドラマ部門で、ようやく最優秀映画賞と監督賞を受賞。クリティクス・チョイス・アワードの若手俳優賞で主演のガブリエル・ラベルが受賞した。
評価は高いのに、興行収入、アワードにはあまり恵まれなかった。スピルバーグはこうしたアワードに恵まれない作家だが、今回の見放されっぷりは酷い。しかし作品は素晴らしい。誰にお勧めしても間違いがない名作中の名作。2020年のアカデミー賞が『エブエブ』だったことを見ると、時代感覚がもう違うのかも知れない。スピルバーグはすでに「エンタメ映画の巨匠だった」という過去の存在になっているのだろうか。
では前半のストーリーを見ていこう。
1952年。サミー6歳。その日、初めての映画館に行く日だった。両親からは「サーカスを見に行く」と言われてやってきたのに、やってきたのは映画館で、「サーカスの映画」だった。
初めての映画館の前に、サミーは不安になってしまう。
「暗いところなんて嫌だ。それに大きな人が出てくるんでしょ」
両親は、大丈夫、大丈夫、きっと楽しいぞ、とサミーを映画館の中へ連れて行くのだった。
それで――結局、夢中になっていた。初めての映画は『地上最大のショウ』。列車の衝突シーンは、忘れられない衝撃だった。
それから間もなくやってきたクリスマス。フェイブルマン家はユダヤの家庭だから、クリスマスはなく、ハヌカー(光の祭)。12月の25日から8日間、一日ごとにロウソクの火を一つずつ増やして祝う。ハヌカーのプレゼントは何がいいだろう……。
サミーは映画で見た光景が忘れられず、ハヌカーの日に列車が欲しい! とねだる。間もなくハヌカーがやってきて、この8日間、両親から列車を一台ずつプレゼントされる。ハヌカーが終わる頃には、列車とレールが一セットそろっていた。
さあ、列車をレールに乗せて、走らせよう! 電源を入れると、列車は煙を噴きながら、軽快にレールの上を周回し始めた。
サミーはしばらくグルグル回る列車を見ていたのだけど……間もなく列車と車模型を衝突させる遊びを始める。『地上最大のショウ』のあのシーンを再現したくなったのだ。それで連日、サミーは列車と車模型をぶつけ合い、そのたびにお父さんに列車を修理してもらう……ということを繰り返す。
そんなある日、母のミッツィがビデオカメラを持ってくる。
「サミー、パパのカメラを借りて撮影しましょ。列車が衝突する場面を一回だけ。フィルムを現像すれば、怖くなるまで何度も同じ場面を見られるわよ。玩具の列車はもう壊れない」
母の言うとおり、サミーは列車と車模型をぶつけるシーンを撮影し……それから列車は壊さなくなったけど、“撮影”のほうに夢中になった。妹たちとともに、毎日のように新しい“映画”を撮影するようになっていた。
その翌年のこと。フェイブルマン一家は引っ越すことになった。父・バートはニュージャージ州のRCA社に勤めていたのだが、大手企業であるゼネラルエレクトロニック(GM)社から誘いが来た。それでアリゾナ州のフェニックスに引っ越すことになったのだが……。
この転居に、ベニーは一緒に来ることはないという。ベニーはバートの同僚であり、友人で、家族ぐるみで親しくしていた。ベニーが来ないことににミッツィは猛然と反対する。
「あなたの権限で彼を雇えばいいのに!」
しかしそれは無茶だ……。ミッツィはバートの言い分を聞かず、子供たちを連れて外へと飛び出していく。そして子供たちに、
「物事には理由がある。一緒に言って。物頃にはすべて理由がある。物事にはすべて理由がある……」
結局、アリゾナ州の移住にはベニーも付いてくることになった。
ここまでで前半20分。
細かいところを掘り下げていきましょう。
始まりはスピルバーグ6歳の頃の記憶。サーカスを見に行こう! と両親に連れてこられた場所は映画館。「サーカス」ではなく「サーカスの映画」だった。
「映画館って暗いんでしょ。暗いところは怖いから嫌だ。おっきな人も出てくるんでしょ」
サミーは6歳の子供らしく、映画館を怖がる。それを父親のバートがなだめようとする。
「映画の仕組みを教えよう。映写機って大きな装置を使う。内側には明るくて大きなランプがあってそれを写真を照らす。ピエロとか、色んな曲芸を。映写とは写真を写す物。楽しくなる物が巨大な懐中電灯みたいな光で照らされながら、猛スピードで通り過ぎる。1秒で24枚。この時、脳の中には映し出された写真が15分の1秒ずつ残るんだ。いわゆる残像という現象だ。脳から残像が消える前に、次の写真が目に入ると、脳が勘違いを起こしてしまうんだ。動いていないはずの写真が動いてるって。それこそが活動写真だ。わかったな」
……お父さん、わからないよ……。
スピルバーグのお母さんについてはメディアに取り上げられることも多かったので、どんな人物かよく知られている。しかしスピルバーグのお父さんについてはいまいち実像がぼんやりしている。
スピルバーグのお父さんについて掘り下げよう。
アーノルド・スピルバーグ。ニュージャージ州のRCA社に勤めていたが、そこでの成果が認められて、ゼネラルエレクトロニック(GE)に雇用され、さらにはIBMに雇用された。マルチユーザー・プラットフォーム・システムの発明し、初のコンピューター制御式のキャッシュレジスターを開発した。現代のコンピューターに続く元素的なシステムを作り出した偉人だ。超優秀なエンジニアだった。超理系人間だから子供と接するときも理屈っぽくなってしまう。子供が理解していなくても、理屈で説明してしまう。スピルバーグはテクノロジー好きで、世界で初めてのCGの恐竜を登場させたが、こういう性格も父親譲りかも知れない。
アーノルド・スピルバーグが死去したのは2020年8月25日。103歳の大往生だった。
「映画は夢なの。お利口さん。決して忘れられない夢。物は試しよ。映画を見終えた頃にはとびっきりの笑顔でいられるはず」
超理屈っぽいお父さんに対し、お母さんは情緒で訴えようとする。超理系なお父さんに対し、芸術家肌だったお母さんミッツィ。
モデルとなったのはリア・アドラー。ピアニストを目指していたが、結婚し、出産のためにピアニストの道を諦めた。この時代はまだ女性が才能一本で身を立てていくなんて時代ではなかったから、リア=ミッツィも「夢を諦める」ことにあまり疑問は感じていなかった。家庭に入ったものの、奔放な性格は相変わらずで、その情熱を子供たちを愛することに注いだ。
役作りについてだが、リア・アドラーについてはスピルバーグ撮影によるホームビデオが多く残っていたために、それを頼りにしたらしい。
実はスピルバーグの映画撮影現場に母親がよく招待されていたらしく、スタッフの多くがリア・アドラーをよく知っていた。スピルバーグが「馴染みのスタッフ」で固めた理由がこういうところにも出てくる。
実際にミシェイル・ウィリアムズはリア・アドラーを思わせるところがあったらしく、リア・アドラーをよく知るスタッフが認めるほどに「スピルバーグのお母さん」だったらしい。そんなミシェイル・ウィリアムズのいる撮影現場へ行くことが、スピルバーグは毎日楽しくて仕方なかったらしい。「お母さんに会える」……という気持ちになっていたのだろうか。
ところで、本作の前に、『E.T.』を見ていたのだが……。『E.T.』に出てくるお母さんとミッツィがそっくり。見た目が、ではなく振る舞い方がよく似ている。明らかに同じ人物がベースになっている。『E.T.』の舞台はニューメキシコ州で、スピルバーグが少年期を過ごしたアリゾナ州のお隣。「父親が去った後」のスピルバーグの家庭環境をそのまま描いている。
『E.T.』は今でこそスピルバーグ初期の代表作として知られるが、実はもともとは「売れる映画を作ってやろう」とは思ってなかった。「プライベートフィルム」的なものを作ろうとしていた。プライベートフィルムだから、予算はわずか1000万ドル、有名俳優は一人もおらず(後に有名になった人はいる)、スタッフも気心の知れた者だけで固めていた。
『E.T.』のどこがプライベートフィルム的なところか、というとスピルバーグの少年時代の思い出が強く反映されているから。父親がいなくなり、母親が一人働いて家庭を支えていた。エリオットはそんな母親から愛情が得られず、孤独を感じていた。そんな想いがエリオットという少年と、ETという宇宙人に託されていた。
やたらと広いクローゼットの中。そのなかで作られていく秘密。『フェイブルマンズ』では、サミーが一人密かに映画を見る場所として描かれる。
ただ『E.T.』と『フェイブルマンズ』を比較すると、妙な食い違いがある。『E.T.』ではお父さんが浮気して、家を出ていった……ということになっている。これはどういうことなのか?
『フェイブルマンズ』に話を戻そう。
やだやだ、と言いながらも映画館に連れて行かれた結果、サミーは……
こんな顔になる。
か、かわいい……。
結局、映画に夢中になっていた。
この後、ユダヤの祭であるハヌカーで、サミーは「列車が欲しい!」と言い始める。
列車の玩具を買ってもらったサミーだが……間もなく列車と車や、その他の模型をぶつけるという遊びをやり始める。あの映画で見た列車衝突シーンを再現しようとしていたのだった。
その遊びも一度や二度ならいいのだが、何度も何度も繰り返しやり続ける。そのたびにお父さんに模型を修理してもらうのだが、どうして何度も列車をぶつける遊びを繰り返すのだろうか……。
サミーを寝かしつけた後、寝室でミッツィ、バート夫婦が語り合う。
この場面、映画全体の中でもちょっと妙な場面。というのも、本作は「スピルバーグの少年時代の記憶」が元になっていて、多くのシーンはスピルバーグ自身が目撃した、体験した記憶がベースになっている。それなのに、ここだけスピルバーグの体験外のできごとが描かれている。この場面が意図していることはなんなのか?
お母さんの台詞を見てみよう。
「人前ではもう弾けない。子育てで精一杯。でもピアノの演奏が懐かしくなる。楽曲に身を任せるあの感じ。どう弾けばいいか、バッハが囁いてくる。(中略)そうやって安全で幸せなささやかな世界を作る」
ここで語られていることの1つめは「芸術」の効能について。芸術が癒やしを与えてくれる……ということを語っている。これに続いて。
「それが列車の衝突が見たかった理由ね。克服しようとしたのよ。自分だけの力で」
もう一つは、映画の中で見た「列車衝突シーン」はサミーにとって、「楽しい記憶」ではなく、実は「恐怖体験」だった。その恐怖体験を克服したくて、サミーは列車衝突シーンを何度も繰り返し再現しようとした。芸術という安全な世界で。もう怖くない……と思えるまで。
要するに、サミーがなぜ列車衝突シーンを再現しようとしたのか、「解釈」している。幼い頃、理由のわからなかったできごとや行為を、大人になった今の視点で解釈している……というのがこの場面。今現在の自分たちの解釈を、お母さんの口を借りて語らせている。
この場面が重要なのは、この後もサミーは何度もトラウマを体験するが、そのたびに映画に逃避し、映画で克服しようとする……ということを繰り返す。それは映画監督になった後もだ。この後のサミーの行動原理を、この場面で説明されている。
次のシーン。お母さんのミッツィがサミーに8mmカメラをプレゼントする。
まずはじめに、テレビ画面に映っているサミーの姿を捉えて……
次にお母さんが持ってきた8mmカメラを映し、
その次にお母さんの姿を見せる……という流れになっている。
カメラで対象を撮影する、ということは「テレビの向こうの世界」を作る、ということ。将来、少年がテレビの仕事をする……ということの示唆になっている。
あるいは虚構のなかに閉じこもっているサミーを、カメラが現実に引き戻す……という解釈もあるかも知れない。
サミーは8mmカメラで列車の衝突シーンを撮影し、それを飽きるまで繰り返し見る……ということをやるのだが、しかしこの後、「映画撮影」のほうに夢中になってしまう。妹たちとともに、毎日毎日さまざまな映画を撮るのだった。
まさかこれが生涯続くとは……。
1年後……。
地元RCA社に勤めていたバートだったが、これまでの仕事が認められて、大手企業であるゼネラルエレクトロニックに誘われた。それで引っ越すことになったんだよ……と語る。少年時代のスピルバーグは実際に引っ越しが多かったらしい。父親が次々と出世し、どんどん大手企業に雇われていき、それについていって……ということだった。
大手企業に勤めることになったから、ようやく薄給から解放される。ただ、友人のベニーは連れて行けない……ということだった。
ベニーはこの一つ前のシーンに登場する(画面左側の男性)。家族の食卓に、当たり前のようにいるこのおじさんは誰なのか?
ベニーはバートの助手で友人。仲が良かったので、こんなふうに家族ぐるみの関係になっていた。この人も実在のモデルがいて、バーニー・アドラーといって、本当にスピルバーグ一家と家族ぐるみの付き合いをしていた。
バートはゼネラルエレクトロニックに勤めることにあったが、友人のベニーは連れて行けない……。このことにミッツィは怒る。
なぜこの件でミッツィが怒るのか……客観的な立場から見ると、この時点でうっすらとわかる。この頃、すでにミッツィはベニーに対し、浮気心を持っていたのだ。だが家族はそれがわからず、「どうしてお母さんはあんなに怒り出すんだろうか」と疑問に感じている。
夫婦喧嘩の最中、竜巻が発生する。
「竜巻を見に行きましょう!」
とミッツィは子供たちを車に乗せて、夫を放り出して走り出してしまう。
この場面は色んなものを示唆している。間もなくお父さんを一家から放り出してしまうこと。芸術家肌のミッツィは生涯、身の内からわきあがる“情念”を自分でコントロールできなかったこと(その暗喩として竜巻が出てきている)。そしていつもそれで後悔することになる……。
やがて高校生になるサミー。ここから第2幕です。
サミーは相変わらず映画撮影に夢中で、ボーイスカウト仲間とともに「次はどんな映画を撮ろうか」と話し合っているのだった。
ここではあたかも、サミーがコミュニティの中心のように描かれているが、実情はちょっと違ったようだ。実際のスピルバーグは、引っ越しが多く、新しい地域との友人たちとの関係がうまく作れず、しかもユダヤ人であるという理由でひどいイジメに遭ってきたそうだ。
そのイジメの回避法として、映画を撮っていたらしい。イジメっ子たちをカメラで格好良く撮影して、ストーリーは編集ででっち上げる。「俺たちを映画のヒーローにしてくれる」ということで、スピルバーグはコミュニティのなかで一定のポジションを確保していた。これが思いがけず、後に映画監督になる訓練となっていた。
ボーイスカウトの少年たちと映画を撮るこの場面だが、内容をよくよく見てみると、いかにもジャイアンというタイプの少年がヒーローになっている。コミュニティのボスである少年を主人公にしてあげていたのだ。ジャイアン的な少年をヒーローにすれば、イジメを回避できる……という本能的な察知があったのだ。
この後、カリフォルニアへ引っ越しとなったとき、サミーは映画撮影をやめてしまう。するとサミーにイジメが集中する……という流れになっている。
ボーイスカウトの仲間たちとともに映画館へ。ここで観る映画はジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを射った男』。実際に少年時代のスピルバーグが観た映画であり、映画のラストシーンに向けた大伏線だ。
家族の楽しいキャンプシーンに続き、ミッツィのお母さんの臨終場面が続く。
このシーンにどんな意味があるのか? 実は後半のシーンで、このシーンと韻を踏んだ場面が出てくる。その時にもう一度取り上げよう。
祖母が死んで、お母さんが悲しんでいる。サミーはそれはさておき、仲間たちと撮影をしたいのだけど、お父さんから「それは延期にして、あの楽しかったキャンプのビデオを映画にしてくれ」と頼んでくる。お母さんを元気づけるためだから……。
それで仕方ないな……と思いながら編集をしていると……。
お母さんの浮気に気付いてしまう。
この映画が制作される経緯だが、スピルバーグは以前から、「私たちの映画はいつ撮ってくれるの?」と両親から言われていた。しかし、両親の思い出を映画にして、もしも批評でけなされたら……もしかしたら両親はどこかでそれを見たり聞いたりするかも知れない。両親を傷つけたくない……という理由で、両親が死去するまでこの映画の計画を棚上げをしていたわけだが……。
両親が在命中に制作できなかった理由って、こっちじゃないかな。両親の思い出を映画にすると、いつか母の浮気、離婚を描かなければならない……。その時を再現したドラマを、両親に見せられるか……。
しかし、実はこのできごとは事実ではない。スピルバーグは長らく「母がバーニー(ベニー)と浮気していた」ということを知らなかった。父が別の女と浮気していた……と。これは父が、母と子供たちの結束をよく知っていたから、「自分が別の女と浮気して、離婚することになった」ということにして、自分が罪を背負って家を去った……というのが事実だった。
(アーノルド・スピルバーグとの離婚後、リアはバーニー・アドラーと結婚した。それで名前がリア・アドラーになっている)
スピルバーグがいつこの真相を知ったかはわからないが、『E.T.』の頃はまだ、「父が浮気した」と思っていたのではないか……。
それを考えると、『E.T.』の解釈が変わってしまう……。
意図せず、母の浮気を暴いてしまった……これが決定的になって、母との関係はおかしくなってしまう。
スピルバーグは両親を大事にしていたから、母の在命中にこの映画を見せられなかっただろうな……。
もう一つ、両親に見せられなかったんだろう……と考えられる理由は、父親の描き方。
父のバートは優しく、知的なお父さんだが……つまらない男なんだ。男性的な強さもないし、ジョークも言わない。話は専門用語だらけでなにを言っているのかわからない。典型的な理系のつまらない男……。強さとかジョークを言ってくれる面白さというのは、みんなベニーが持っていた。
おまけに芸術に対する理解がない。少年期のスピルバーグが撮っていた映画を「趣味だろ」としか考えてなかったし、結婚でピアニストの夢を諦めた妻に対し、「当然だ」と思っていた。やはりピアノも「趣味だろ」と思っていた。
つまらないほどの常識人。優しい性格だから、妻の言うことはなんでも許すけど、妻が持っている感性を理解していない。
優しいだけのつまらない男。これがスピルバーグによる残酷な父親への評価。父親に対する愛情は間違いなくあるけど、人間として評価すると、こういう描き方になる。
こういうところも、父親が在命中にこの映画を作れなかった理由だったのではないか。
キャンプのあるシーン。火起こしをしようとしているお父さん。しかし家族全員が、ベニーと母親ミッツィのところへ行ってしまう。家族にとっても、ベニーのほうが「楽しい存在」だったのだ。
お話しはキャンプの後、お母さんの浮気に気付く前、ボリスおじさんがやってくる。母方の祖母の兄だ。この人も実在の人物で、モデルとなった人物も「ボリス」。祖母が生前、家族に会わせたがらなかった人物だ。しかし妹の訃報を聞いたからだと思うが、フェイブルマンズ家を訪ねてくる。
ボリスはサーカスで猛獣使いをやっていて、1927年頃には映画の仕事に関わっていた。1927年と聞いて、サミーは「ひょっとして『ジャズシンガー』に!?」とテンションが上がるが、そういう映画ではない。
(※ ジャズシンガー 映画史上初の音声付き映画。といっても実際には歌唱シーンのみだった。それでも映画館は大盛り上がりで、歌唱シーンに入ると観客が総立ちになって合唱するほどだった……という)
「ミッツィの心には根付いているんだよ。お前さんや俺と同じ。芸術がな。俺たちは似たもの同士。ある種の中毒。芸術はドラッグというわけだ。家族のことは愛してる。だが俺たちは芸術馬鹿だよ」
そのボリスおじさんの話だけど、言っていることがよくわからない。言い回しがかなりクセがある。
とりあえず、詳しく分解していこう。
「芸術はドラッグというわけだ」
芸術や芸術活動は、やりたくて始めるものではなく、やめたくてやめられるものではない。表現したい――それはある種の本能のようなものでもある。そういう意識は誰にでもあるが、そういう意識を過剰なほど持っている人間がときどき現れる。ボリス、ミッツィ、サミー……この3人は等しくそういう意識を持って生まれちゃった人間である。
「ライオンの口に頭を突っ込むのは根性試しだ。ライオンに頭を喰わせないようにする。それこそが芸術だ。お前のばあさん(ティナ)は、娘のミッツィに、自分の道を極めろとは言わなかった。ばあさんはそりゃ善良な人間だが、守りに入っちまった。娘に安全な道を進ませると決め込んだ。それでミッツィは夢を諦めた」
「ライオンの口に頭を突っ込む」……芸術の道はまっとうな生き方を捨てる、という意味だ。しかしライオンに頭を喰われないようにしなければならない。
世の中的には「芸術」や「才能」は素晴らしく尊いものだ……と思われているが、当事者にとってはそういうものではない。確かに大多数の「芸術の消費者」にとって、芸術は、ただ楽しい一時が得られるものだ。しかし芸術と才能は、色んなものを歪ませる。その周囲にいる人の人生観を狂わせる。その当人の人生も狂わせる。場合によっては、時代そのものも狂わせる。
私は別のところでも、「才能はそんな良いものではない」と書いてきた。まず才能を持った人間は孤独に陥る。次に半端な才能の持ち主を叩き折ってしまう。
才能が必要な仕事に就くと、常に「自分には才能がないのではないか」と不安に陥り、他の才能をうらやんでしまう。実際に、優れた才能で世界的名声を得ていたはずの人でも、ある時不安に負けて自殺しちゃったりもする(ロビン・ウィリアムズとかトニー・スコットとか……)。
才能というものは、実は持ってしまったが最後、地獄を進むしかなくなる。しかし才能を持った人はその道を進もうとしてしまう……。
才能地獄……そういう煉獄に堕ちるわけだけど、世の中の誰からも理解されなくなる。これが天才の孤独。
ミッツィの母は保守的な人間だったから、娘のミッツィに安全な道を進ませた。兄がやってきても家に入れてはならない……と警告したのも、ボリスの言葉に触発されて、サミーが才能の世界に行かないように……だった。
「なあボリスおじさんの言葉を肝に命じろ。お前はサーカスに喰われる側の人間だ。もううずうずしている」
「お前さんは芸術で、天より冠を、地からは月桂樹を授かる。けどな、芸術は人を追い詰めて、孤立させる」
お前は逃げようとしても、必ず芸術の道を進む。地獄への道を進みたくて仕方ない。そしてお前の作った作品は称賛され、天よりは冠を、地からは月桂樹を授かる。
ボリスおじさんは、サミーの身にこれから起きることを予見している。芸術は家族を壊す。孤独に陥る。芸術によって周りの人間を振り回す。それでも作ったものは世界中から称賛を受ける。
やがて世界から称賛を受けるようになる……スティーブン・スピルバーグの将来を予見している。サミーの将来に対する警告――ボリスおじさんがやってきたのは予言と警告だった。
母親の浮気に気付く直前にやってきて、こういう警告を残していく……。ボリスおじさんはそういう未来も気付いていて予言をしにやってきたのだった。
ここからはネタバレ。
有料エリアでは映画の最後まで物語解説します。
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