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映画感想 死霊館のシスター

 今回視聴作品は『死霊館ユニバース』の一編、『死霊館のシスター』。原題は『The Nun』。シンプルに「修道女」という意味だ。制作は2018年。興行収入は初週で5380万ドルを稼ぎ出し、初週興行収入はシリーズでもっとも高い数字をたたき出した作品となった。

 前半のあらすじを見ていこう。

 舞台はルーマニアの修道院。長い歴史を持つ石造りの建築物だ。もともとは壮麗な建築であったに違いないが、今は館に施された装飾が朽ちかけて異形の影を落としている。
 その修道院のとある通路を、2人の修道女が歩いていた。通路をずっと進んだ奥には、扉が一つ。修道女のひとりが、扉の向こうの真っ暗闇に入っていた。しばらくして、暗闇から悲鳴があがった。修道女は全身血まみれになりながら戻り、もう一人の修道女に鍵を託す。
 生存した修道女は通路を引き返す。しかしもはやこれまで……と察し、ロープを首に引っ掛け、窓から飛び降りた。

 このプロローグで5分。

 修道女の自殺体が発見された。この由々しき事件を調査するために、バチカンはひとりの神父をルーマニアに派遣する。バーク神父だ。バーク神父はバチカンの依頼に不審なものを感じながらも受け入れ、修道女アイリーンを助手として連れて行く。
 問題の修道院は山深い中だった。麓の村とは食料の配送を受け取る以外は一切交流しない。修道女の死体を発見したのも、食料を運びにやって来た村人だった。
 バーク神父とアイリーンは案内人の村人と別れ、修道院の中へ入る。すると、修道長らしき老婆が現れ、対応してくれた。これから徹夜でのお祈りの時間に入る。翌日出直して参れ……とのことだった。
 バーク神父とアイリーンはその日は修道院の調査を諦めて、近くにある教会で一晩過ごすのであった……。

 ここまでで前半25分。
 前半25分は非常に静かで、ここから様々な恐怖体験が始まる……という展開になる。

 今作『死霊館のシスター』は舞台設定が1952年となっている。Wikipediaには便利な「時系列順」が掲載されているので、転載しよう。

1952年 死霊館のシスター
1958年 アナベル 死霊人形の誕生
1970年 アナベル 死霊館の人形
1971年 死霊館
1972年 アナベル 死霊博物館
1973年 ラ・ヨローナ~泣く女~
1977年 死霊館 エンフィールド事件
1981年 死霊館 悪魔のせいなら、無罪。

 「死霊館」シリーズは作品がヒットし、そこから後付け的に「あの人形の過去のお話」「あのエピソードとあのエピソードの間のお話」と少しずつ継ぎ足しするように作られているので、時系列が混乱しやすいが、今作『死霊館のシスター』は時系列的に一番最初。『死霊館 エンフィールド事件』(シリーズ2作目)に登場した“あのシスター”がどこからやってきたのか……という由来が語られるストーリーとなっている。
 1952年が舞台なので「遠い昔のお話」という気がするが、第1作目である『死霊館』から20年前なので、シリーズ的には大昔の話ではないし、実は1作目『死霊館』で今作『死霊館のシスター』に関するあるシーンが言及されている。シリーズを順番に見ていけば、関連が見えてくるだろう。

 では映画本編のお話をしよう。ネタバレありの話もするので、注意していただきたい。

 映画の冒頭、2人のシスターがあやしぃー感じの廊下を歩いている。周囲には十字架が山のように吊されている。十字架が魔除けの効果があることは本編中に説明されているので、大量の十字架が吊されているということで、その廊下がすでに「ヤバい場所」ということがわかる。
 実はこの2人のシスターは、お館での唯一の生き残り。他のシスターは全員死亡している。最後の生き残りが、今まさに復活しようとしている悪魔を封じようと決死の覚悟で踏み込むが、しかし失敗……。
 最後の1人になったシスターはとっさに自殺する。
 カトリックの教義において、「自殺」は大罪の一つとなっている。殺人が罪であるように、「自分を殺す行為」も殺人の一つと見なされるからだ。
 その自殺体が、修道院の門前で出てしまった。だからこそカトリック的に由々しき問題だった。これが噂話となって広がれば人々の不信感を招き、宗教離れの原因を作りかねない。何が起きたか調査しなければならぬ……というのがバチカンの判断であった。

 実はこの時シスターが首を吊ったのは、「自殺」ではなく、「悪魔による乗っ取り」を防ぐため。
 作中、バーク神父が昔、子供の除霊を試みたお話が挿話として語られる。しかし悪魔は子供の体を乗っ取り、死なせてしまう。その後、子供の悪霊がバーク神父の周囲に現れる。
 これは悪魔に乗っ取られたまま死亡すると、悪霊になってしまうことが示唆されている。除霊は生きているうちに達成せねばならないのだ。悪魔がこの世に実体を持って修道院の外に出るためには、触媒となる「肉体」が必要。修道女はそうなる事態を前に、首を吊って自殺したのだ。悪魔によるそそのかしで自殺したのではなく、自分の意思で、悪魔の移動手段を防ぐための自殺だった。
 子供の除霊に関する挿話がなんであるのかというと、作中の重要なルールを説明するため。悪魔に体を乗っ取られたら、その本人が悪魔になってしまうし、死んだ後も悪霊になってしまう。おそらく修道院は「聖所」であるから、その場所が「結界」となって、悪魔はその中から外に出られないのだろう。だからこそ、そこにいる誰かの体を乗っ取らねばならないわけである。
 修道院がふもとの村人とほとんど接触しないのも、うっかり悪魔を外に出さないため。
 また修道女たちは毎日徹夜で交代交代でお祈りを唱え続けているが、それを続けなければ悪魔が復活してしまうため。相当に厄介な場所で、厄介な状況なのがわかってくる。

 物語の途中、修道女アイリーンの服が引き裂かれて……ノーブラってところが気になるがそこはさておき……背中に星型の傷が刻まれるシーンがある。この星型のマークは悪魔召喚のサイン。物語後半に入って、星型マークを描いた魔方陣が登場する。(頭の片隅で「ジョースター家のサインだなぁ……」とかも思ったけど)
 記憶違いでなければ『アナベル 死霊館の人形』に出てくるカルト教団も星型マークを壁に書き付けていた。悪魔召喚にさらに必要なものは「犠牲」。『死霊館の人形』のカルト教団は自身の魂を捧げて悪魔を召喚するし、本作でも悪魔の召喚に犠牲を用いている。悪魔はアイリーンを騙して、その体に自身を宿すために修道女の幻覚を呼び出し、お祈りをさせているフリをして儀式を達成しようとしていた。悪魔は隙を見ては訪れた人の体を乗っ取り、修道院の外に出ようとしていたのだ。

 この作品には、独自のルールが存在するが、しかしほとんど説明されない。なぜならホラー映画だから。ホラー映画だからそこに規則性があることを悟られないようにしなければならない。法則性があることを知られると、途端に「恐怖」ではなくなる。少年漫画的なエンタメに変わってしまう。だから説明はせず、わざと曖昧にしている。曖昧にし、問答無用の脅威として描くのがホラー映画の作法だ。

 ちょっと話題が映画から遠ざかるが、修道女アイリーンが登場する最初のシーン、子供たちと対話している。大昔、地球上には「恐竜」なるものがいたんだぞー……と語るアイリーンだが、子供たちは恐竜の存在を信じない。なぜなら神父様が恐竜なんていないさ、と子供たちに教えたから。
 どういうことかというと、恐竜なるものは聖書に書かれていない。キリスト教の世界は、聖書にあることが全てであって、その聖書に書かれていないものは「この世にないもの」という扱い。もし聖書に書いてないものがあったら「邪教」の扱い。という以前に、聖書に書かれていないことなんて、知る必要がない。
 子供たちはこの聖書的世界をよく教育されているから、「恐竜がいたんだ」という話をしても信じない。一方のアイリーンは、進歩的な考えを持っているから、「恐竜がいたんだ」ということを語っている。
 ここでアイリーンがどういう立場であるかがわかる。周囲の封建的な考えに対して進歩的。聖書の世界を全て素直に信じているわけではない、柔軟にものごとを考えることができる女性であるととがわかる。

 さて、本作の冒頭のシーンを見て、すぐに私は想像した。修道院がこんな邪悪な場所であるわけがない。修道院を建てるならもともと「聖所」として相応しい場所が選ばれるはずだし、充分清められているはず。そんな修道院が忌まわしい場所になっているわけではない。
 ということは、もともとどうしようもない「邪悪な場所」を強引に修道院に変えて、「悪魔封じ」をやっている現場ではないか。
 ――と、考えたけどほぼ正解だった。

 暗黒時代、悪魔召喚に魅了されたとある侯爵が、犠牲を用いて悪魔を呼び寄せようとした。それが本作の舞台。カトリックは事前に公爵の企みを察知し、悪魔を封印した。しかし「魔界」との境界が緩くなったこの場所をずっと守り通さねばならなくなり、城を修道院にして、代わり番こでお祈りを唱え続けなければならなくなった。
 舞台はルーマニアで暗黒時代……と聞くとピンと来るのが15世紀に実在したヴラド・ツェペシュ。通称:ドラキュラ公。本作とドラキュラ公とは特に関連はないし、「とある公爵」としか表現されていない。おそらくはイメージ的なものをそこから少しいただいたのだろう。

 映画についてだが、どの構図もやけに狭く、周囲の環境が見えない。全体的に狭っ苦しく見える。人物を撮る時もカメラに寄りすぎだし、背景と人物を関連付けた風景を撮れていない。人を撮る時は「人物を撮っているだけ」みたいな画になってしまっている。あまり映画的な画が出てこない作品だ。視覚的にあまり楽しい作品ではない。
 音楽も引っ掛かりどころで、音楽がシーンを解説しすぎてしまっている。そのシーンがどういったシーンであるか、考える間もなく音楽が解説を始めてしまっている。怖いシーンが来ると、「そろそろ怖いシーンが来ますよ」と音楽が先んじて説明してしまうし、後半、とあるキーアイテムが登場するシーンは音楽が盛り上げすぎて「これはホラー映画なのだろうか、ファンタジー映画なのだろうか……」となんだかわからなくなってしまう。音楽がただの伴奏で、しかも仰々しく盛り上げすぎるので、白けてしまう。

 舞台となっている修道院は非常に魅力的なロケーションだ。雰囲気がいいし、あの薄闇の中を修道女の亡霊が漂っている映像はホラー的な気分を高めてくれている。途中に入っている幽霊映画的な演出がいい。
 しかし良かったのはそのあたりだけで、他に良かったところを特に見いだせない。

 「死霊館」シリーズはもともとはエド&ロレイン・ウォーレンという実在の悪魔払いを研究していた夫婦が体験したお話が元になっている(ロレイン・ウォーレンは2019年4月に死去。最近まで在命だった)。例えば『死霊館 エンフィールド事件』『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』は実際の事件を元にしていて、作中に出てくる「アナベル人形」も実際に存在する。映画だからかなり大袈裟な誇張があるのだが、基本的には実際の事件をベースにしている。
 だが映画としてシリーズを積み重ねていくにあたり、次第にかなり無茶な「挿話」が増えてきているのも実際だ。「アナベル人形」にまつわる番外編的なお話を作って、別のエピソードと繋げるための「続編」をまったくの空想で作り上げたり……。
 本作『死霊館のシスター』も、シリーズの中で何度か登場したシスターについて、「あいつは何者だろうか?」と空想逞しく作り上げた作品なので、実話ベースのお話ではない。
 1950年代というかなり古い時代で、舞台は古びた古城、悪魔召喚に関するお話を絡めているから、内容が相当にファンタジックになってしまっている。悪魔公爵とカトリックのお話が語られる場面は相当ファンタジックなシーン作りになっているし、最終的にキーアイテムである「キリストの血」が出てくるのだが、この登場もやっぱりファンタジック。というか2000年前の人の血をどうやって保存し続けたのだろうか……と疑問ばかり出てくる。それに、そんな万能アイテムが修道院の中にあるんだったら、封印が解かれかかっている場所にさっさと撒けばいいだけの話で……。
 修道女アイリーンは不吉な夢の中で「マリア様の指し示す先に」というヒントを得て、これによって「キリストの血」というキーアイテムを獲得するのだが、これもご都合主義がいきすぎていて……。マリア像の指先から光が出ている……というわかりやすすぎる画作りも映画の画としてどうなんだ、という感じも。

 途中で描かれた恐怖描写にはなかなか惹きつけられるところもあったのだが、全体を通してトーンが明るすぎてホラーっぽさがない。むしろ悪魔退治の勇者のお話……みたいなファンタジー色の強いお話になっていて、それを部分的にホラーの文脈で表現されただけのお話。
 先述したとおり、画作りも平凡さもあって、リッチなホラー体験を求めると、だいぶガッカリする内容となっている。

 映画のお話はさて置きとして、私は今作を見ながら、ちょっと考えていたことがある。
 悪魔はなんであるか――これはよくわからないが、おそらくそれはイギリスを中心とするヨーロッパ一円に存在する“何か”であると仮定する。悪魔はヨーロッパ一円に生息しているので、アジアにはいないし、当然日本にもいない。
 ちなみにフランスにも悪魔はいない。これはどういうことなのかわからないが、フランスには悪魔や幽霊といったお話は昔からほとんどない。ということは、フランスには悪魔がいないということになる。「フランス人は幽霊を信じない」と昔から言われているが、これはもともと目撃例が少なかったからではないか。
 悪魔はカトリックのお祈りによって退けることができる。プロテスタントの神父には悪魔払いができない。これもなぜなのかわからないが、プロテスタントの国イギリスが悪魔払いをしたいと思ったら、カトリックの神父に来てもらわなくてはならかった(これがプロテスタント国としての葛藤だった)。
 「悪魔と十字架」に関しては謎で、「悪魔に効果があるから十字架」の形が考案されたのか、それとも「十字架が効果があるという設定ありきで悪魔が生み出された」のか……。もしも、もともと「悪魔に効果があるから十字架があの形になった」という話である場合、カトリックは悪魔退治の手法をベースに作られた……という仮定ができる。
 私は常々、「呪文やまじないの類いには効果は一切ない」と考えている。その理由は先日別の記事で触れたことなので、省略しよう。悪魔に効果が発生しているのは「聖書の一節」ではなく、「十字架」と「聖水」のみである。
 十字架を反転した状態にすると効力が失われるどころか、悪魔にとっての力となる。これが考え方のポイントで、十字サインを逆さまにするだけで効果があるということは、十字サインの形が大きなキーであった可能性が出てくる。

 『死霊館』シリーズには悪魔に関する独自のルールを設けている。まず第一に「悪魔は壁抜けができない」。悪魔に追いかけられてもドアや窓を締めて閉じこもれば安全である。悪魔は幻覚を得意とする。また念動力も使う。悪魔払いのために十字架を設置していても、それを上下反転して、部屋にかかっている聖なる力を解除したりする。悪魔は壁抜けができないので、ドアや窓を閉じれば入って来られないのだが、幻覚で仲間のフリをしたり、念動力を使ったりして中に入ることができる。
 「壁抜け」は悪魔と幽霊の差異を考えるポイントで、幽霊は壁抜けができる。ここから、悪魔と幽霊は別の存在であると推測できる。  今作『死霊館のシスター』で悪魔に関する新ルールが導入された。悪魔に体を乗っ取られる可能性があること。悪魔に乗っ取られると、狂人のようになってしまう。また生きているうちに除霊を達成せねば、悪霊に変わって以後もあらゆる場所に出没するようになる。
 悪魔が虚構の産物ではなく、「実在する何か」であると仮定した場合、前提となるのが上のようなお話だ。
 さて、悪魔とはなんであるか……? あともう一つ二つ条件を付け足すと、答えが見えてきそうだ。

 『死霊館』シリーズの特色は、まず第一にエド&ロレイン・ウォーレン夫妻が実際に体験したお話をベースとする「実録ものホラー」である。もう一つの特色が、「ヨーロッパ的なホラー」である。『死霊館』はアメリカ的なホラー映画ではないことが特徴である。
 私は前から何度も語ってきているように、国ごとに「ホラー観」が違う。日本のホラーを「Jホラー」と呼んで区別し、区別することで認識しているように、日本以外にもそれぞれ国独自のホラー観がある。「万国共通のホラー観」なんてものはない。

 アメリカ的なホラーといえばやはり「スラッシャー映画」。スラッシャー映画を観れば、アメリカ人が何を怯えて、どうして銃社会を維持し続けているのかがわかる。アメリカ人は隣人が怪物となって襲ってくるのではないか……ということに潜在的な不安を抱えている。だからアメリカ人は銃を持って武装することをやめられないし、災害などが起きると暴動が起きて、我先にと食料や物資などを持ち去ろうとする。災害時の暴動は、ほとんどアメリカだけの現象だ。“個人主義”の国ゆえに、真に他人を信用できない、疑いと不安の目で見ている、また暴力のコントロールができない。自身の暴力性をコントロールできないから、他人の暴力性に対しても不安を感じている。そういうところからスラッシャー映画の概念が生まれてきている。スラッシャー映画で現れる観念的な殺人鬼は、いつかそうなるかも知れない隣人の姿であり、自分たちの姿でもある。
 ゾンビ映画もやっぱり、アメリカ的な国民性から生まれたホラー映画の形だ。アメリカ人は隣人に対して、真に信頼をしていない。開拓期時代から抱えていた、「隣人が襲いかかってくるかも知れない」という不安を抱えている。そういう不安を具現化した姿が「ゾンビ」だった。

 アメリカにはああいう国民性があるからゾンビ映画が成立するのであって、そのゾンビ映画の様式を日本に持ち込んでやろうとすると「何か変だな……」という感じになる。日本は閉鎖的な村社会の結束の中でコミュニティを作ってきたから、ゾンビ映画的な意識を持ちにくい。日本は過去あらゆる災害に見舞われてきた国だが、どんなときも暴動は起きなかった。ところがゾンビ映画の中では必ず暴動と略奪の光景が描かれてしまう。これが問題だった。
 ゾンビ映画に暴動は華……じゃなくて様式美であり文法。ゾンビというキャラクターを成立させる背景に「暴動」が起きなければならない。それを日本の社会に移そうとすると、どこかおかしな感じになる。「いや、暴動は起きないんじゃない……?」という違和感になる。そういう「社会観の差」を見据えて映画を作ろうとしないから失敗する。「ゾンビ映画への憧れ」だけで映画を作っちゃう。それがよくない。「日本発のゾンビ映画に名作無し」であるのはこのためである。

 というわけで、ゾンビ映画もスラッシャー映画も、「我らアメリカ人はこういう人間です!」と高らかに語っているようなものである。
 とはいえ、ハリウッド映画がゾンビ映画とスラッシャー映画という独自の国家観をホラーという形で表現できるようになったのは、ごく近年になってからだった。最初からそこまで映画を通して自分たちの内面を見詰め、すくい取ることはできなかった。何十年も映画ばかりを作り続けてきたからこそ、達成し得た意識である。
 それまでどうしていたか……というとハリウッドはずっと海外のホラー観を借りながら映画を作っていた。『魔神ドラキュラ』だったり、『狼男』だったり……ヨーロッパの伝承を借りて映画の中で表現していた。
 で、本作『死霊館』シリーズも実はアメリカ独自のアイデンティティに紐付いたホラーではなく、ヨーロッパ的。あるいはイギリス的ホラーが意識の中心にある。
 ヨーロッパ的なホラーというのは悪魔払いを物語の中心としていること。ヨーロッパは心霊現象は「悪魔」なるものが実際にいると仮定し、それを「祓う」ことで解消すると考えられていた。日本にも幽霊に憑かれたり、狐憑きというのは昔からあるので、こういう考えには通ずるものがある。

 もう一つの形式は「お館の幽霊」。これがイギリス型のホラー。どういうことかというと、イギリスの幽霊は由緒正しきお屋敷に現れるものと考えられていた。なので、幽霊を目撃できる人は、その由緒正しき血筋を引いている可能性が高い……ということになる。
 イギリスの幽霊観は日本と真逆で、「幽霊が出る」が宣伝になる。みんな幽霊を見たいと思う。だからアパートにしてもホテルにしても「幽霊が出る!」が宣伝文句になっている。もしも幽霊を見ることができたら、ラッキーだからだ。イギリスが「1平方メートルあたりの幽霊の数が最も多い」と世界に向けて宣伝しているのものそういう由縁だ。日本で幽霊が出たら「事故物件」の扱いなので、考え方が逆である。
 ハリウッドで作られる事故物件的な幽霊ものホラーも、舞台となっている場所が「お館」……といってもマジなお館は現代の背景では現実的ではないので、普通の住宅でありながらちょっとずつお館っぽい“しつらえ”が施されている。腰板がしっかり嵌められいたり、手すりの彫りがやたらとこだわって作られていたり。一般の住宅にしてはやけに手が込んだ作りになっている。『アナベル 死霊人形誕生』はこうしたしつらえが強く意識されて舞台が作り込まれていた。本物のお館は(リアリティに欠けるので)使えないけれど、端々にそれを感じさせるものが見えるように作られている。そうしたしつらえの中に幽霊が出てくる……というシチュエーションに、欧米の人には真実味を感じているのだ。
 住宅の差異でイギリス的ホラーと、日本的ホラーの温度差を見ることができる。日本のホラーは和建築のなかに見出される。「和建築の幽霊」が日本人の幽霊観の基本となっている。和建築の中に現れる、ジトッとした空気感に、日本人は幽霊の存在を見出す。  そこから進んで、現代住宅である文化住宅における幽霊を想像する。『呪怨』がそうだけど、ああいったちょっと昔風の住宅の中に幽霊のイメージを見出す。日本人は最新の近代住宅(例えばデザイナーズハウスなど)から幽霊の存在をイメージしづらいのだ。

 アメリカは移民達が集まって短時間のうちに拵えられた歴史の浅い国だ。だからゆえのコンプレックスや妬みというのもわりと大きい。『スターウォーズ』でローマ帝国的な社会制度が描かれるのも、悠久なる歴史を持つヨーロッパへの憧れというところが大きい。
 そんなふうに様々な文化観を引き受けて作られた国だから、ホラー観もどことなくヨーロッパ的な史観を引き受けているところがある。もちろんアメリカならではのホラー観も中には存在している。
 『死霊館』シリーズも、ヨーロッパから文化的なものを引き受けながら作り出された作品だ。本作『死霊館のシスター』の場合だとルーマニアが舞台。『エンフィールド事件』はイギリスで実際に起きた事件。『ラ・ヨローナ』はメキシコの怪談がベース。アナベル人形だけがアメリカ産。由来がバラバラである。そうした幽霊達が、移民達とともに海を渡ってアメリカで集約されて新たな何かに変わっていった……それが『死霊館』である。
 『死霊館』は最初の1作目のヒットを受けてシリーズ化し、ユニバース化していったが、次第にアメリカ的な、色んな文化を引き受けてアメリカナイズ化していった背景そのものを語る作品に変貌しようとしている。それははっきりいえば、たまたま1作目がヒットしたから、結果的にそうなったという話にすぎないが。『死霊館』がユニバース化していったのは、アメリカ的な文化感があるからだ……いつかそう言われる時代が来るかも知れない。


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