映画感想 最初の『マトリックス』を20年ぶりに見てみる
およそ20年ほど前に完結したと思われていたシリーズである『マトリックス』の新作が劇場公開される!
ということで、今回は1999年に制作された初代『マトリックス』を視聴!
まずは基本的な情報から。
『マトリックス』シリーズはウォシャウスキー兄弟によって制作されたSF映画。制作費6300万ドルに対して、世界興行収入は4億6300万ドルの大ヒット映画。アカデミー賞では主要技術部門(視覚効果賞、編集賞、音響賞、音響編集賞)受賞、BAFTA賞、サターン賞受賞。「新世代のSF」として絶大な評価を受け、世界中に熱狂的なファンを生み出し、当時「もっとも続編が待ち焦がれる1本」となった。
『マトリックス』を結節点として、映画表現は間違いなく1つ上のステージにあがった。CGを活用した映画はすでに『ジュラシックパーク』をはじめとして『ターミネーター2』といった傑作がすでに存在していたが、これらの作品は自然主義に基づく表現に限られていた。例えば『ターミネーター』と比較してみると、超人的な怪力を持った殺人マシーンが登場するが、その表現は物理的・論理的に常識的の範囲で表現されている。ところが『マトリックス』は物理的にあり得ないような描写の連続――超高速で動いたり、異常な高さで跳躍したり、吹っ飛んだり、パンチ一発で壁を破壊したり……。普通で考えてはあり得ない、「漫画的表現」を実写世界に持ち込み、違和感なく見せる手法を確立した。
『マトリックス』によって映画は「常識的な経験則に基づくリアリティ」という範疇から越えて、「超現実的な表現」が可能であることが証明され、映画がより新しく激しい表現を模索していく切っ掛けを作った。
『マトリックス』はただ「名作アクション映画」というだけではなく、映画表現の限界点を一歩前進させた作品でもある。映画の歴史を一歩動かした作品だ。
『マトリックス』前半のストーリーは……!
主人公トーマス・アンダーソンは大手ソフトウェアのプログラマーとして日常を過ごしていたが、天才ハッカー「ネオ」という裏の面を持っていた。そんなトーマス・アンダーソンは「ずっと夢を見ているような感覚」に日々囚われていた。今のこの現実は夢ではないのか……そんな不安を抱いていた。
そんなある日、トーマス・アンダーソンのパソコン画面に「起きろネオ」「マトリックスが見ている」「白ウサギについて行け」という謎のメッセージが浮かび上がる。
ちょうどハッカーとしての仕事を依頼してきた相手が尋ねてきた。その相手は「たまには外に出たらどうだ」と誘う。トーマス・アンダーソンは断ろうとしたが、相手の肩に白ウサギの入れ墨があるのを見付けて、何か運命的なものを感じて付き合うことにする。
そうして家を出てクラブへ行くと、そこにいたのはトリニティー。トリニティーも界隈では有名なハッカーだった。
トリニティーは「あなたが夜な夜な何をしているか知っている」と告げ、「あなたが求めるものの答えは間もなくわかる」という謎めいた言葉を残し、去って行く。
トーマス・アンダーソンは目を醒ます。あの夜の出来事は現実だったのか夢だったのか……。その答えもわからないまま、いつもの日常へ、自分が務めているソフトウェア会社に出勤する。
そこにやってくるのがエージェント・スミスたちであった。まさかハッカーとしての犯罪行為がバレたのか……!
その時、トーマス・アンダーソンの元に郵便物がやって来て、それを受け取ると、中には携帯電話が一つ。その携帯電話から、「今すぐ逃げろ」――そして逃げるべき場所を指示する。
トーマス・アンダーソンは電話の指示通りに逃げようとするが、やがて電話は奇妙な指示をし始める。ビルの外壁に出て、細い足場を通って屋上へ行け……という。しかし窓の外ははるかな奈落……。これは無理だとトーマス・アンダーソンは諦めて、エージェントたちに拘束される。
尋問室でトーマス・アンダーソンは、エージェントたちにハッカーとして活動を把握していることを告げられる。その上で、「君は最近、モーフィアスという男と接触を受けた」その情報をこちらに引き渡してくれたら見逃してもいい……。
トーマス・アンダーソンがそれを拒むと、ヘソの中に奇妙な生き物を注入されてしまう。
その直後、トーマス・アンダーソンは目を醒ます。目を醒ましたそこは、自分の部屋だ。ここまでの出来事は現実だったのか、夢だったのか……。
起きた直後、電話が鳴る。電話の相手はモーフィアスだった。「私は君を探している。生涯探し続けていた。まだ会いたいか?」と問いかけられる。トーマス・アンダーソンはもちろん「会う」という選択をする。
とある橋で謎の一団と会い、その車に乗ると、ヘソに謎の機械を装着され、そこから奇怪な生物を引っこ抜かれる。あの尋問室の出来事は夢じゃなかった!
その後、ついにモーフィアスと会う。モーフィアスはトーマス・アンダーソンに赤の錠剤と青の錠剤を示す。青の錠剤を飲めば明日も何事もなくベッドで目覚めて、今までの出来事が夢になる。赤の錠剤を飲めば「この不思議な国の正体を見せてやれる」という。
トーマス・アンダーソンは赤の錠剤を飲む。
ここまでが前半30分の内容だ。起承転結の「起」にあたる。
トーマス・アンダーソンはかねてから「夢と現実」が曖昧な日常を生きていた。いま感じているこの日常が実は夢なんじゃないか……。そんな疑いを感じていた。
そこに謎のメッセージが送られてくる「目覚めよ」「白ウサギを追え」……。
この展開だが、かなりトリッキーな作り方をしているように感じられるが、実はオーソドックスな「英雄伝説」のテンプレートに基づいて描かれている。
まず主人公は誰かの庇護を受けている、ある種の楽園で過ごしている。その楽園のまやかしに気付かず、行動を起こさなければ、一生平凡な「誰か」として終えることができる。しかし主人公は疑問を持ち、切っ掛けを見付けて「冒険の召命」を受けることになる。
このテンプレートを提唱したのは、ジョゼフ・キャンベルという神話学者で、詳しくは『千の顔を持つ英雄』に記されている。英雄物語には、古代から語り継がれる物語から、現代の漫画や映画でも共通するパターンが存在する。そのパターンを発見し、提唱したのがジョゼフ・キャンベルであった。
ジョゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』が出版された後は、逆に作家たちが英雄物語のパターンを知り、それを採用して物語を作ることになった。物語には古来から続くパターンがあり、そのパターンこそ人間にとって一番自然で感動させやすい形式であるから、そのパターンを踏襲させて物語を作れば破綻なく成立させることができるからだ。この『千の顔を持つ英雄』で示されたテンプレートに則って描かれた物語といえば、誰もが知るあの名作『スターウォーズ』である。
『マトリックス』も実はこのテンプレートに基づいて物語の導入部が描かれている。主人公はある種の「楽園」で過ごしているが、しかしその楽園には何かしらのほころびがある。主人公は冒険の切っ掛けを求めていた。そこに「冒険の召命」を促す「使者」が現れる。
その最初の切っ掛けに示されたのが「白ウサギ」。『マトリックス』には様々なモチーフが混在して描かれているが、その一つが『不思議の国のアリス』。トーマス・アンダーソンはひたすらリピートされて出口のない夢のような世界を生きている。そこに示される白ウサギ。青と赤の錠剤も『不思議の国のアリス』で描かれたモチーフだ。
『不思議の国のアリス』はご存じの通り、アリスが昼寝している間に見た夢だった……という夢落ち話である。『マトリックス』の冒頭の世界観も実は夢にすぎない……この状態と『不思議の国のアリス』に引っ掛けて描かれている。
(『不思議の国のアリス』の作者ドジスンは数学者としても知られ、『不思議の国のアリス』に登場する様々なモチーフも実は数学的な法則に基づいて描かれている。……私はまったくわからなかったが。その「数学的な法則の世界」と、「マトリックス」という世界観にも引っ掛けて、モチーフが選ばれている)
しかしトーマス・アンダーソンは最初、この「冒険の召命」を拒否する。従おうとするが、ビルの外壁を伝って屋上へ行け……という無茶な指示の前に尻込みしてしまう。
「冒険の召命」を一度目は拒否する……というパターンも『千の顔を持つ英雄』に示されているものである。あらゆる物語でもいえることだが、主人公は「冒険の召命」を受けた時、一度目は拒否する。「私たちの世界を救ってくれ」という指令を受けても、「どうして俺がそんなことしなくちゃいけないんだ」と反発する。『マトリックス』の場合は、「ビルの外壁を伝って屋上へ行け」という無茶な指令、命懸けの指令を受けて、冒険を断念してしまう。
尋問室のシーンに入る場面、監視カメラの映像が示されるが、まったく同じ画面が無数に描かれる。どういうことかというと、すでにこの場面は何度もリピートされている瞬間であることを示している。
ここはテレビゲーム的に示されている場面で、トーマス・アンダーソンは映画中で描かれているところとは別のところで、何度も試練をミスしてリトライをし続けている。『マトリックス』という仮想空間の中で何度も死亡し、その直後、「夢だった」ということになってベッドからリスタートしている。おそらくソフトウェア会社からの脱出シークエンスも、何十回と繰り返しているのだろう。トーマス・アンダーソンが「いま見ている現実が夢のように感じている」というのはこういうところにもある。
実は「ビルの外壁を伝って屋上へ行け」という指示も、最初の「試練」であった。そんな命懸けの試練を示されても、「まだ行く気はあるか?」とモーフィアスに問いかけられる。トーマス・アンダーソンはそこから逃げずに、その先へ進む勇気を示す。
という経緯を経て、ようやくトーマス・アンダーソンの英雄/救世主へ至る冒険が始まる。おそらく何百回とリピートし続けていた幻影の向こう側へを覗き見る旅が始まる。
『マトリックス』中盤以降のストーリーを見る
『マトリックス』が発表されたのは1999年である。この時代は「ノストラダムスの大予言」や「2000年問題」で世の中が騒がしかった時代だ。
(※2000年問題 当時のソフトウェアは1999年までを想定して作られていたので、2000年になった瞬間、エラーが起きて、社会が混乱するのではないか……と考えられていた。実際には特に問題は起きなかったし、問題を起こしたソフトウェアもごく少数だった)
「ノストラダムスの大予言」も「2000年問題」もその時代の人々なりに、「世の中」や「日常」に疑問を抱き、「グーレトリセット」への不安を抱きつつも、願望として思い描いていたということの現れだった。社会というなんだかわからないものが私たちを支配し、その中で毎日同じ場所に通学・出勤して同じ行動、同じ発言を繰り返す……。そんな日常がいつか崩壊するのではないか。いや、いっそ崩壊して欲しい……と誰もが思っていた。
最近はAIなるものが登場して「AIに支配される」「AIに管理される」なんて不安が聞かれるが、私たちはとっくにこの「社会」というシステム・仕組みに支配され管理されている。それに気付いていないだけだ。ここでなぜ「AIに支配される」恐怖が改めて浮上してきたかというと、AIという新規なものを前にして、ふと「社会に支配されている」という事実に断片的にも気付いてしまったからだ。
そういう時代に発表された『マトリックス』に、人々は運命的なものを感じていた。私たちの住んでいるこの世界は、何者かに管理されたまやかしの世界。そこからの覚醒を促す……というストーリーはその時代の深層に深くリンクしていた。『マトリックス』という作品表現が優れていたこともあるが、その時代の意識にも深く結びつき、鮮やかな回答を示したことが世界的大ヒットの理由でもあった。『マトリックス』はまったくのフィクションではなく、その時代精神と深くリンクしていた。
中盤以降のストーリーを見ていこう。
目を醒ましたトーマス・アンダーソンこと「ネオ」の前には、同じく『マトリックス』から目覚めた人々が待っていた。ネオと同じく、冒険の召命を受け入れ、戦う覚悟を受け入れた人々であった。
しかし全員が同じ意識の元に団結しているわけではなかった。ネブカデネザル号の1人、サイファーは「目を醒ましてしまった」ことに深く後悔していた。現実がこんな悲惨な状況だと知っていたら、「夢であることにずっと気付かないままのほうが良かった」……と考えていた。
サイファーはネブカデネザル号を裏切り、モーフィアスをエージェントたちに差し出そうと画策する。
このサイファーという人物は、ネオと対立する人物として描かれる。ネオと同じく冒険の召命を受け、そのすえに「ひたすらリピートされ続ける日常」を脱して覚醒したのだが、戦う決意までも受け入れたわけではなかった。「望まぬ目覚め」を迎えてしまった男だった。
「ネオももしかしたらそうなっていたかも知れない」――それがサイファーというキャラクターだ。サイファーももしかしたら、この世界を救う英雄になれたかも知れなかったが、その候補から脱落してしまった1人である。
このサイファーの裏切りを示唆するところで、だいたい映画全体の1時間くらい。サイファーの裏切りが判明するところで映画が転換していくことになる。
サイファーの裏切りが示唆された後、ネオは「予言者」に会いに行く。しかし予言者からは「あなたはその人ではない」と告げられる。
これはどういうことかというと、ネオはまだ英雄の候補者の1人にすぎないから。サイファーもまた英雄の候補者の1人だ。ネブカデネザル号の他の誰かが英雄になるかも知れない。真に英雄となるためには、まだまだ試練を乗り越えなければならず、現状のネオでは「たった1人の英雄」とは言えなかった。それに、真に英雄になるためには、現状とはまったく「別人」にならなくてはなかった。
その試練とは何か……というと映画中何度も示される、「死の覚悟」を受け入れられるか。死の危険があっても戦う意思を示せるかどうか。
映画前半の、「ビルの外壁を伝って屋上へ行け」という試練から、それが示されている。モーフィアスに示された訓練プログラムの中で、ビルからビルへとジャンプで飛べ……というのも「死の覚悟」を受け入れられるかどうかの試練の一つ。
これはどういうことかというと、ネオは英雄となるために、一度「死ぬ」必要があった。一度死んで全く別の、新たな人間にならねばならなかった。もちろん、ただ死ぬのではなく、「覚悟」「勇気」を示した上で死ななければならない。ただ単に死にました……というのでは「自殺」でしかない(自殺は「勇気」ではなく「恐れ」の結果)。勇気を示した上で死ななければならない。これが映画全体で示されている試練だった。
もちろん、実際に肉体的に死ぬ……というのではなく、「マトリックス」という世界観の中であるから、精神的に死の覚悟を示せるかどうか(精神的に死ぬと、どちらにせよ肉体的にも死ぬが)。その覚悟をもしも示せるのであれば、現実的・物理的・論理的概念を飛躍した「超人」になるための資格を得ることができる。「落ちたら死ぬ」「銃で撃たれたら死ぬ」(「絶対撃破不能のエージェントの戦いを挑む」も試練の一つ)という「常識」の向こう側へ行かないと、「超人」にはなれないわけである。
だがネオは、結局のところ、自ら覚悟を示して死を受け入れたわけではなく、事故的にそれを達成することとなる。ネオは一瞬の油断で、エージェント・スミスに撃たれて死んでしまう。
なぜ「事故的に」という描かれ方だったのかというと、「運命」として描くためである。
ただ「覚悟を示せ」という物語があったとして「はい、やりました」ではその力強さを示すことができない。独力で達成できるなら、別にどの局面でも構わない。という以前に、「死の覚悟を示す」なんてことは通常の心理状態では達成不能なこと。その達成不能なことを示すためには、「運命的」なものとして描かなければならない。
その運命に至るために、外部的要因である、トリニティーの存在が導入されている。「私が恋した相手が英雄になる」――一度は死にかけたネオにキスをすると、英雄/救世主としての覚醒が達成される。
この元ネタは、童話『白雪姫』や『眠れる森の美女』だ。最後に王子様がやって来て、キスによって王女が目を醒ます。『白雪姫』や『眠れる森の美女』でよく語られがちな解説にあるのだが、白雪姫や眠り姫は「昏睡状態」に陥ったのではなく、実際に一度死んでいる。ただし、ここで死んだのは「少女」としての白雪姫や眠り姫であって、王子のキスによって目覚めたのは「大人の女」としての白雪姫や眠り姫。王子という性的他者を受け入れられる大人の女だ。少女と女性の端境の精神的ドラマが『白雪姫』や『眠れる森の美女』の物語の本質である。
最近、私が観た映画の中でこの構造を援用した作品といえば、『マッドマックス 怒りのデスロード』がある。フィリオサは映画の全体を通して、「シタデルの女性大隊長」であった。だが全てのミッションを経た後、フィリオサは瀕死の状態に陥って、一度は昏睡状態になる。だが、マックスによる治療によって目覚め、それ以降はフィリオサは「英雄」となり、新しいコミュニティに迎え入れられることになる。フィリオサは確かに一度死んで、別の存在として蘇ったのだ(ただし『マッドマックス』の場合はマックスのキスではなく、治療によって蘇るという展開が描かれる。『マッドマックス』の世界観にキスで目覚めるなどというロマンスは不要だ)。『マッドマックス』という映画の最終局面でなぜフィリオサが重傷を負い、倒れる必要があったのかというと、「シタデルの女性大隊長」としてではなく、「人々を救う英雄」として帰還しなければならなかったからだ。
『マトリックス』は前衛的なSFとして語られやすいが、実は『千の顔を持つ英雄』や『不思議の国アリス』のような古典に則った作品でもある。
『マトリックス』の最終的な覚醒の舞台が、映画冒頭のホテルと同じ場所……というのも運命的なものを補強させる。英雄になるための覚醒は、遠い土地で……ではなく、最初と同じ場所でも構わない。というか、『マトリックス』の第1作目はえんえん繰り返しの物語で、その繰り返しから脱出ができるかどうか……というお話である。だから最初のステージに戻り、その場所で覚醒する、としたほうが意味が補強される。
ちなみにネオが最後に覚醒する部屋は303号室。トリニティは「3」を意味する言葉なので、トリニティに紐付いた場所であることが示されている。(ネオが住んでいた部屋番号は101号室)
まだ「303」には「三位一体」という意味もある。「三位一体」とはキリスト教的思想で、父(神)・子(キリスト)・霊(聖霊)をそれぞれ示した言葉で、「神を信じぬなら、キリスト(救世主)を信じないことも同義だ……という理屈になっている。
また「ホテル」という場所も、あそこは「寝る場所」である。寝る場所であり、覚醒の場。そういう場所であるからこそ、「覚醒」のモチーフに相応しいということになる。
こうした様々な試練を経て、死を乗り越えて、ネオは「救世主」として覚醒することになる。この過程が描かれたのが第1作目『マトリックス』であった。
「編集」としての『マトリックス』
映画『マトリックス』のシンボル的なシーンといえば、ネオによる「銃弾避け」のシーンである。この作品を見ていない人でも、「あのシーンなら知っている」というくらい超有名なシーンだ。『マトリックス』にはありとあらゆる超現実的なシーンが描かれてきたが、その中でも突出した存在感を放つのが、「銃弾避け」のシーンだ。
「バレットタイム」と名付けられたこの技法は、撮影対象の周囲に無数のカメラを設置し、そのカメラで一斉に撮影することで成立する。
(『マトリックス』が公開された当時は「マシンガン撮影」という名前で紹介されていた)
動画の撮影とは、一つのカメラで1秒間24回以上連続でシャッターを切ることで成立する。こうやって連続撮影されたものは、一枚一枚は静止コマにすぎないが、ダーッと連続して見ると、動いているように錯覚する。これが動画撮影の原理である。
これを、もしもたくさんのカメラで同じ瞬間を撮影したらどうなるか? ……この発想がバレットタイムである。
1秒間を撮影するために24コのカメラを連結させ、少しずつタイミングをずらして1コマ1コマ撮影し、それを最終的に一つのフィルムとして並べる。そうすると、対象はスローで動いているのに、カメラだけが激しく動いているように見える……という不思議な動画が生まれる。
『マトリックス』の「銃弾避け」のシーンはおよそ12秒あるから、連結されたカメラの数は恐らく288台……といってもこれは理論値なので、これで滑らかな動画になるかどうかはわからない。実際はもっと多くのカメラが連結していたかも知れない。
映画中では12秒かけて描かれた瞬間だが、メイキング動画を見ると、実際には1~2秒くらいの瞬間である。そうすると、俳優はこの瞬間のために何度も同じポーズを繰り返すことになる。監督が意図した体の動き、コートのはためきができているかどうか、またカメラの撮影のタイミングとピタリと合わせなければならない。特にカメラのタイミングは俳優とカメラマンの息がピッタリ合わないとうまくいかない。タイミングが0,001秒でもズレると思った画にならない。世の中的には「CGさえ使えばどんな画面でもお手軽に作れる」と思われがちだが、理想通りの画面を作ろうとしたら相応の苦労が伴う。俳優もCGのいち素材……になろうと思ったら、映像的に理想的な絵を演じなければならず、それは思った以上に大変な話なのである。
(このバレットタイムのシーンで一つのポイントは、コートが逆向きに翻ること。本来の物理法則に反した動きだ。逆向きに翻させることで、銃弾が激しく横切っている……ということが強調されている。こういう発想も「アニメ的」に作られているポイントだ)
『マトリックス』でバレットタイムが紹介された後、以降しばらくあらゆる映画でバレットタイムが使われた。当時、めちゃくちゃに流行ったテクニックだった。もちろん、どの映画もただパクるだけではなかった。映画制作とは男性的なところがあるから「俺のほうがもっと凄いものが作れる!」「もっとかっこいいのが撮れる!」と同じ技法を使いながら、作り手の意地を見せる場となっていた。
結局、その先駆者たる『マトリックス』の衝撃を越えた作品は1本たりとも現れなかったのだが。
しかし実はこのバレットタイム、『マトリックス』が初出の表現ではなかった。すでにCM撮影でバレットタイムが考案され、表現されていた。おそらくウォシャウスキー兄弟は、このCMを見て映画に採用することを考えたのだろう。
その初出については私も当時見たドキュメンタリーの中の一つとしての「記憶」でしかなく、今こうやって検索してもその映像が出てこない。私が見た映像とは、農場のシーンで、牛や農夫の姿をバレットタイムで撮影するという、不思議だが美しいCMであった。この動画は様々な国の「不思議な映像表現」を紹介するドキュメンタリーの中で登場していた。私としても、それ以上の記憶がなく、「マトリックスより先だったと思う」……くらいのことしかわからない。
ただ、バレットタイムのような表現も、ウォシャウスキー兄弟の「天才的な頭脳」から突如として生まれ出た表現ではなく、おそらく「引用」と「編集」だろうと、私は考えている。
『マトリックス』ファンの間ではあまりにも有名だが、この作品は押井守監督『GHOST IN THE SHELL』に絶大な影響を受けている。黒バックにグリーンの文字が流れるシーン、うなじに作られたプラグの穴、ビルの着地時に砕ける床、市場での銃撃戦でスイカが破壊されるシーンなど、類似シーンは山ほどある。トリニティーの配役にしても、「草薙素子っぽい顔の人を選んだ」とウォシャウスキー監督は正直に語っている。
ウォシャウスキー兄弟は押井守監督の絶大なファンで、ある時押井守がハリウッドに来ている……という話を聞きつけ、会いに行ってサインをもらった……という可愛い逸話も残っている。
(この時の様子は対談として公開されている)
もはや『マトリックス』は『GHOST IN THE SHELL』の実写映像化といったほうがいいくらいで、後にハリウッド実写版『GHOST IN THE SHELL』が制作されたが、『マトリックス』のほうが『GHOST IN THE SHELL』の精神性を精確に伝えているほどである。
他にも『マトリックス』が影響を受けた作品は山ほどある。SF小説『ニューロマンサー』、伝説的なアニメ映画『AKIRA』、その他ジョン・ウーやジェット・リーの影響も大きい。すでに挙げた『千の顔を持つ英雄』や『不思議の国のアリス』といった作品も引用作品の一つだ。実は『マトリックス』には「オリジナル要素」は少ない。様々な表現、思想を合成し、「編集」した作品だった……といえる。
と、こういう話を聞いて粗忽者は「パクりだー!」と大騒ぎするのだが、そもそも創作とはそういうものだ。1本の創作物の中で真に創造的な要素なんてものは1%くらいでしかない。1%もあれば充分だ。あとの99%は引用である。創作は1%くらいの創造的要素があればいいのだ(もしも創造性が1%を下回ったら、それはパクリになる)。だからあらゆる創作物は似ていて当然。要は何と何を編集するか――で創作の新規性は表れてくる。
別の記事でも書いたように、創作物というミーム(文化的遺伝子)にミッシングリングなるものは存在しない。すべての創造物は、その以前の創造物を踏まえるものである。どんな作家も宿命的に自分を構築した過去の文化を再現したいという欲求を持っている。またその「過去の文化」=ミームこそが芸術を構成する「文法」となるので、その「型」から外れると破綻した作品となってしまう。作家が過去の文化をなぞるのは、そこに創作をより良いものにする「黄金律」が隠されていることを知っているからだ。
その上で、新しい時代を取り込んだ新規性やカウンターがあるかどうか……が創造物を評価する時の基準となる。
もしもその以前の文化観を踏まえない創造物が唐突に出現したら、人々は「何だこりゃ」を受け入れないはずだ。受ける側にとっても、それ以前の創造物を踏まえて見る、という性質を持っている。真に独創的な創作は、世の中に受け入れられないものである。
(1982年公開された『ブレードランナー』がまさにそれ。映像が先進的すぎて、当時の観客は「何だこりゃ?」と困惑した。当時、『ブレードランナー』のような映像感の作品がなかったところにあの作品が出てきたから、観客はあの作品を鑑賞するために「踏まえる作品」がなく、困惑した。今では誰もが知る名作である)
JRPGなるものを世の中に提示した『ドラゴンクエスト』は、最近はよく「編集した作品」と語られる。というのも、『ドラゴンクエスト』にオリジナル要素は実は少ない。RPGなるジャンルはその時代にすでにあったが、作品ごとにルール、つまりシステムがまったく違っていて、しかもそのどれも複雑かつ難解で、一般的にはかなり敷居の高いものであった。
『ドラゴンクエスト』は混沌としていたRPGの文法をまとめ上げ、「編集」した。その結果、どんな子供がプレイしても、すぐにでもわかる作品になった。これが『ドラゴンクエスト』が成し得たたった一つの偉業である。これが非常に大事なことで、『ドラゴンクエスト』で「RPGとはこういうものです」という提示があったから、その後にたくさんの人が続き、様々な表現の刷新が生まれた。
あれだけ奇抜な表現で知られるピカソだって、自身で生み出した表現はさほど多くない。有名なキュビスムもピカソがオリジナルで発明したものではなく、他の作家(ジョルジュ・ブラック)が生み出したものだし、その上で時代の潮流を入れ込んだものだった。ピカソの偉業は、キュビスムを生み出したことではなく、「キュビスムを紹介したこと」のほうである。
こういう話でいくと、『マトリックス』オリジナルで提唱されたものは実は少ない。
『マトリックス』の場合、日本のアニメをベースに、中華思想や文化を組み合わせて、それをハリウッド風にまとめ上げた。その組み合わせが『マトリックス』が示した新規性であった。
当時のハリウッドで、人の体にワイヤーを着けて宙に浮かばせたり吹っ飛ばしたり……という表現はそこまでなかった(吹っ飛ばす表現はあったはず)。カンフーアクションについてはほとんどなかった。SF映画という背景の中でカンフーアクションやワイヤーアクションといった表現はあの時代ではまだ存在しなかったかも知れない。そういう表現が一つの映画の中で繋がるとは誰も思っていなかった。カンフーアクションとガンアクションは敷居が違うと思っていた。
『マトリックス』は引用し編集した作品にすぎないので、実は個々の表現はそこまでクリティカルではない。哲学的なテーマは影響を受けたという『GHOST IN THE SHELL』ほどでもないし、カンフーアクションも本場香港映画と比較するとスローだ。ただそれらをまとめ上げて、SFアクション映画の中で両立しうる……ということを提示した。そのことのほうが大事である。
ポイントなのは、その組み合わせによって、過去に描かれたどんな映画にも類似しない、超越的な表現が可能になった……ということだ。普通に考えたら、カンフーアクションとガンアクションとSFという組み合わせなんて、作ろうとしたら奇怪な化け物ができあがるのに決まっている。でもそれをうまく「編集」すればぜんぶ繋がる……ということを『マトリックス』によって証明された。
『マトリックス』を切っ掛けに、ほとんどのアクション映画で俳優にワイヤーをくくりつけて何メートルも跳躍するようになったし、格闘アクションもかなり複雑になった。実際の武術家を指導として呼んで、様々な格闘スタイルを取り入れながら、それを一つの見せ場として描くようになったのは『マトリックス』以降の話だ。
ハリウッドにはハリウッドなりの伝統があった。SF映画でもアクション映画でも、その以前から組み立てられていたスタイルと呼ばれるものがあって、それをしっかり守ることが本流とされていた。物理の法則は常識的に理論的に描く。リアリティを追い求めることが表現の上で大事だと考えられていた。
その約束事を完全に破壊し、新たな次元へ導いたのが『マトリックス』だった。『マトリックス』によってその以前から考えられていた以上の表現が可能になった。いや、作家たちが“考える”ようになった。「もうこれ以上の表現はない」……ではなく、もっと上へ。「想像の限界」の上限がさらに一歩上へと進んで行った。『マトリックス』のネオは試練を経て死を超越した英雄へと成長していくのだが、同時代を経験した作家たちも、同じように表現者として新たなステージに上がる切っ掛けを掴んだのである。
それを促したのが『マトリックス』という作品だ。それこそ『マトリックス』が成し得た偉業ともいえよう。
20年ぶりに『マトリックス』を見た印象は……?
実は20年前、私も『マトリックス』にハマった1人である。当時出たばかりのDVDを買って、PS2で何度も『マトリックス』を観た(当時はDVDプレイヤーよりもPS2のほうが安価だった。実際、PS2を切っ掛けにDVDが普及したといってもいいくらい)。改めて見直したのだが、いまだにほとんどの台詞は覚えていたし、ほとんどのカットも覚えていた。『マトリックス』を観なくなってもう十数年以上になるのだが、実際観てみると、そのシーンが来る前に台詞やカット割りが頭の中に浮かんで、自分の記憶をなぞっているようだった。今もって『マトリックス』が私の血肉となって流れていることを確認したわけである。
『マトリックス』の新作が公開される……という話を聞いて、じゃあ第1作目をまた見返してみるか……というのが今回視聴の切っ掛けだったが、正直、怖かったところがある。なにしろ20年前の映画だ。CGの映像は現代と較べるとショボく見えるんじゃないか……。私の頭の中では『マトリックス』は偉大なる映画、映画史を変えた名作として残っているのだが、もう一度見返すことによって、「色あせた作品」であることを自覚するのではないか……。
実際にはそんなことにはならなかった。2021年のいま見ても、『マトリックス』の第1作目は猛烈に格好よかった(視聴は2021年12月23日)。今こうして振り返って観ると、そこまでCGに頼り切った映画じゃなかったんだな……というかCGに頼り切った映画ではなく、“スタイル”を見せた作品だったから、そこまでの「色あせ」感は感じなかった。
まず映像についてだ。「マトリックス」世界の映像は、全体がグリーンでまとめ上げられている。背景の家具や様々な小物にも、ほとんど色が付いてないか緑色で描かれている。画面全体が緑一色で、コントラストだけで描かれている。これが「マトリックスの世界ですよ」という説明になっているし、緑一色で明暗のバランスだけで描かれる世界はメタリックでそれだけでやたらと格好いい。
予言者が登場するシーンは壁紙や家具や服が緑で描かれているが、家具の一部にオレンジが使われていてる。これが予言者登場シーン特有の穏やかさが出ている。一見するとどこもかしくもグリーン……と思わせてその中に様々な色彩の使い方や組み合わせが見られて面白い。
緑の中でもショッキングな表現は強めの赤で描かれる。訓練プログラムの中のあるシーンで、通り行く人々はみんな白黒の衣装を着ているのだが、その中でただ1人、真っ赤なドレスを着ている女が出てくるシーンは印象的だ。ちょうど色相環的にグリーンの反対色がレッドだ。だからグリーンの中のレッドが際立つ。
少し変わったところだし『マトリックス』らしいなと感じるのは、ヘリコプターを操縦しているシーン、銃弾を受けて穴が開き、ガソリンが噴き出すシーンがあるのだが、このガソリンが「赤」で表現されていた。普通に考えれば「赤いガソリンってなんだよ」となるところだが、世界観がグリーン一色だからこそ赤いガソリンが際立つと判断されたのだろう。実際、ガソリンを赤く表現するのは効果的だった。
後半、ビルのロビーでの銃撃戦は、明らかにジョン・ウーの影響を受けている。銃撃戦が始まると、ひたすらスローモーションのシーンが続く。ネオが前傾姿勢で走りながらマシンガンをぶっ放し、その周囲の柱に着弾して、柱が粉々に吹っ飛んでいくという表現が出てくる。このシーンがたまらなくかっこいい。
よくよく考えたら、アクションとしてのセオリーを完全に無視している。アクションを描くなら、もっとスピーディーに力強さを表現すべきだ……。しかし『マトリックス』では延々スローで、ネオたちの決めポーズやはじけ飛んでいく柱ばかり延々描いていく。しかも銃撃で敵兵が倒れる瞬間ではなく、はじけ飛んでいく石片や地面に散らばっていく薬莢ばかりが描かれている。実はアクションとして必要な画がほとんど描かれていない……というのがこのシーンの特徴だ。
要するにネオとトリニティーの超人的な身体技が表現されたシーンなのだが、そはともかくとして、アクションとしての力強さや外連味ではなく、その瞬間の「画」がかっこいいかどうか。こちらの方が重視されている。
他のシーンでも同じだ。『マトリックス』にはおかしな瞬間が山ほどある。前後のカットが繋がってないとか、重力感がおかしいとか……。そういうのを無視して、「かっこいい瞬間」ばかりが追求されている。そのかっこいい瞬間の追求こそが大事なのであった。
ウォシャウスキーがかねてから影響を受けたと語る日本のアニメには、「決めの絵」というものがある。アニメは原画と動画が作業分担され、いつしか「原画の決め絵」を補強するために動画がある……といってもいいくらいになった。ディズニーと比較した場合、カットの中に日本のアニメのような「決め絵」なるものは存在しない。ディズニーにおいては、すべての動画が流麗に繋がること……のほうが大事なのである。映画もリアリティに重きを置いているわけだから、アニメ的な「決め絵」なるものは存在するわけがない。
ウォシャウスキーが日本のアニメから学び、再現したいと考えていたのは、この「決め絵」の存在。この「決め絵」を再現すれば日本のアニメみたいにクールでかっこいい絵が作れるのではないか……『マトリックス』はその実験的模索で生まれている。
ただそのために俳優は相当に頑張らなくてはならなかった。カメラが回ったら一瞬にしてキャラクターの表情を作り、監督が望むポーズをしなければならない。これは従来の意味での「演技」とは違う。俳優が画作りのための「素材」となることであった。俳優は「演技」をしたいわけであって、それぞれのシーンにおいて自分のニュアンスを込めたいと考える。そうした俳優的エゴを全部捨てて、「自分はただの素材」と割り切らなくてはならない。『マトリックス』において、もはや俳優は「演技力」なぞ必要ない……とまで言われるようになった。
(当時の映画俳優達にとって、これが懸案事項だった。「俳優の仕事がCGに持って行かれるのではないか」「演技力が必要なくなるのではないか」……などなど。実際にはそんなことはならないし、演技力や俳優の存在感は絶対に必要なものとわかってきたから、CGシーンのために割り切って演じる……ということも受け入れられるようになった)
しかし実は一瞬にしてポーズや表情を作るのにもかなりの労力が必要だ。有名な「銃弾避け」のシーンにしても、映画中では12秒ほどあるが、実際の撮影時はたったの1~2秒の瞬間だ。その一瞬で、あのポーズを取らなくてはならない。
『マトリックス』は実写素材を活用した「アニメ」なのだ。カートゥンでもなければディズニーでもない、「アニメ」である。これこそウォシャウスキーが目指していたものだった。その「アニメ」を実写の中でいかに再現するか、そのためにテーマを設定し、物語が組み立てられていた。すべて「アニメ」を実写映画の中に持ち込むことであって、その試みに成功を収めたのが『マトリックス』だった。こういう意味では、後に実写映像化された『GHOST IN THE SHELL』よりも『マトリックス』のほうが「アニメの実写化」という精神性は忠実に達成し得たと言える。
改めて見ると、「そういえばそこまであらゆるものをCGで表現しようとした作品じゃなかったんだな」……と気付いたし、そこでショボいと感じることもなかった。いま見ても充分に格好良かった。というかよくよく見ると、CGカットはさほど多くなかった。ほとんどのシーンは、アニメ的な決め絵をいかに再現するか……これに全神経が集中されているし、それによって作られたカットはどれもやたらと格好よかった。この格好良さこそが『マトリックス』の本質だったんだな……と思い出すことができた。もともとの「画作りの良さ」があったから、この部分は時代が変わってもそうそうに色あせるものではなかった。
物語作りも、一見トリッキーな描写を繰り返すSFのように見られがちだが、実際には様々な童話や神話から得た文法を忠実に守って描いている。最終的にはネオと呼ばれる若者の成長と覚醒の物語――というオーソドックスなお話だ。
映画のラストで、覚醒したネオがエージェントの攻撃を片手で受け流すようになるシーンは最高に格好いい瞬間だ。改めて見直しても、やはりこの瞬間には鳥肌が立つほどに格好よかった。あの瞬間が格好良く感じられるのは、それまでにエージェントの鉄壁の強さを描いてきたからだ。覚醒したネオがあのエージェントの攻撃を受け流せるようになった……その物語の流れがあったからこそ、あのシーンが猛烈に格好いい。単に無軌道に「格好いいシーン」だけを並べた作品ではなく、ちゃんとした物語経緯をきちんと抑えているのが『マトリックス』という作品だ。
『マトリックス』の弊害というべきか、一般層は「CGさえ使えばなんでも表現できるんでしょ。あれもあれもどうせCGなんでしょ」という見方をするようになった。しかしCGを使えば何でも表現できるわけではない。CGは相変わらずコストがやたらと高い表現だ。それに、CGを使ったところで「センスのいい画面を作れるかどうか」は全くの別次元の話だ。『マトリックス』第1作目にしても、よくよく見るとCGカットは少なかった。物語や構想のほうがよほど大事だ。
例えばクリストファー・ノーラン監督はトリッキーな画面を生み出すことで知られるが、そのほとんどはCGに頼らずに作り出している。「CGさえ使えば誰でも……」ではなく、革新的な映像を構想できるかどうかは、センス問題が一番に関わってくる。
また、「漫画・アニメの実写化」をいかにするべきか……という提唱も『マトリックス』が完璧に答えている。実写版『カウボーイビバップ』は『マトリックス』を見ていなかったのだろうか? と疑問にさえ思う。
テーマ的にも見るべき部分は多い。いま「AI」なるものが現実世界に現れて、「AIに支配される」「AIに管理される」と不安がる声は多いが、そんなテーマはとっくに『マトリックス』によって答えられていた。AIがあろうがなかろうが、結局のところ私たちは「社会」に支配され管理されて、その中でえんえん似たような日常をリピートし続けている。だからそこにAIが入り込もうが、私たちの大きな社会観はそう変わらないぞ……と。
『マトリックス』が提示したのは、その社会観が単なる「システム」でしかなく、そこからいかに抜け出すか。それが表現としての格闘アクションだったり、飛翔で表現されている。20年前の映画で、現代の、あるいは未来における人々の意識や課題についてすでに答えを出している。そういう意味でも、ぜんぜん色あせていない名作だったといえる。
20年経っても今でも充分な存在感を示す『マトリックス』。改めて見ると、名作たる理由が見えてくる。時代を超えて人々に呼びかけるものを持つ力強さのある作品であった。
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