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映画感想 ユーリー・ノルシュテイン傑作選

 ロシアの名作アニメーション!

 まずは偉大なるアニメーターであるユーリ・ノルシュテインという人物を見てみよう。
 ユーリ・ノルシュテインは1941年、第2時世界大戦の最中に疎開先のペンザ州ゴロヴィンシチェンスキー地区アンドレエフカ村で生まれる。ユダヤ人家族の子である。1943年母親と兄とともにモスクワに戻り、マリナロシュチェ地区で子供時代を過ごす。
 父親は教育を受けていない木材加工工場整備工であったが、高等数学を理解し、絶対音感と音楽的記憶力の持ち主だったと言われている。ただユーリ・ノルシュテインが14歳の時に死去している。兄は父の才能を引き継ぎ、バイオリン修復技術者になった。
 ユーリ・ノルシュテインはモスクワの10年生中学で学び、最後の2年は同時に芸術学校にも通っていた。その後、家具コンビナートの仕事を得て家具職人をやっていた。
 1959年サユーズムリトフィルム国立映画スタジオ付属アニメーター2年コースに入学。卒業後はそのままサユーズムリトフィルムに就職し、50本ほどの作品でアニメーターを務める。
 1968年、アルカディ・チューリンとの共同監督ではじめての監督を務める。それが『25日・最初の日』である。

25日・最初の日

 『25日・最初の日』これがユーリ・ノルシュテインの最初の監督作品である。

 この作品はロシアで起きた「10月革命」がモチーフになっている。では「10月革命」とは何なのか?

 1917年11月7日、ロシア首都ペトログラードで起きた労働者や兵士らが武装蜂起して起きた革命である。当時はまだ「ロシア帝国」の時代で、ロシア帝国はかなり無茶なやり方で国民を動員し、戦争を続けてきた。その戦争の最中、若者が無駄に死んでいき、国民が飢える……という事態が起きていた。そんなロシア帝国の威信に決定的な亀裂を作ったのは他でもなく日本。日露戦争(1904~1905)の敗北が、ロシアを貧困状態に陥らせ、国民に皇帝への不信感を募らせることとなった。
 10月革命は「ロシア革命」という大きなくくりの中の一局面である。事件の始まりは1905年1月9日に起きた「血の日曜日事件」。当時、日露戦争の真っ只中だったわけだが、無闇に人が死んでいくし、軍隊への食糧供給により収穫物が取り上げられていく。戦争が原因による貧困と飢餓が広まっていた。
 この抗議のために、サンクトペテルブルクに6万人の民衆が集結し、抗議のデモがはじまった。帝国側はこのデモを止めるために実力行使に出る。平和的な抗議デモは大混乱に陥り、死者数は4000人に達すると推測されている。

 では作品を見ていこう。
 冒頭のこの場面は、サンクトペテルブルクの宮殿前広場。ここに6万人の労働者が集結し、軍隊とぶつかり合い、4000人の死者が出た「血の日曜日事件」の舞台である。その後もなにかと陰惨な事件の舞台となった場所として記録に残されている。

 プロローグ。
「自分が生きてきたことを総括しようと思い立った。歳月を掘り起こすとき、思い浮かぶのはその日。まさに最も輝かしい「25日」。「最初の日」が浮上する。

「パン……小さなパン……呪わしい戦争を止めろ!」

 戦争により飢餓と貧困が拡大。しかも度重なる作戦失敗によってロシアは敗北続き。ロシアの同胞が大量に死んでいく。今すぐに戦争を止めさせるんだ! ロシアの民衆が動き始めていた。
 1917年2月23日には「2月革命」なるものが起きて、労働者がストライキを起こし「パンを寄こせ!」と大合唱するデモが起きていた。

 農民の格好をしたマリア様。ロシアはキリスト教国。時代は混乱しているけど、マリア様は民衆を見守ってくれている……。

 銃剣を携えた兵士たちが行列を作って行進している。

「全ての権力を評議会(ソビエト)へ!」

 「ソビエト」は現代では主に「国名」のこととして使われがちだが、もともとはロシア語で「会議」や「評議会」という意味。言葉の起源は定かではないが、1905年の民主化運動の最中で初めて出現したと言われている。
 ロシアは長らくロマノフ王朝による帝国によって統治されていて、ロシア民衆はその帝国の圧政を受けていた。ロシアといえば「共産主義」だが、なぜ共産主義なのかというと、圧政に対するカウンターがあったから。

 行進する兵士たちと同じ方向を向き、指をさしている男。もちろんこの男が軍団の指揮者。レーニンである。

 軍団の勢いがやがて早くなっていき、「わー!」という感じになっている。これは「激しく攻撃している」様子の象徴的表現。

 兵士たちが突撃する先にいるのは――豊かな生活を送るブルジョワ階級。

 向かってくる兵士たちと戦うブルジョワ階級。描かれ方に悪意がある。ブルジョワ階級を間抜けな姿に描こうとしている。

 激しい闘争の末、ブルジョワ階級たちが逃走していく。

 権力はソビエトへ。土地は農民へ。人々に平和を。飢えた者にパンを。

 兵士たちが赤い腕輪を付けている。共産主義のサインだ。

 ここから演説の場面へと入っていく。語っているのはレーニンだと思うけど……一応情報の確認しようとネットで検索をかけてみたけど、この演説の場面とぴたりと合う音声は発見できなかった。

 元になっている写真はこちら。サンクトペテルブルクの集会で演説するレーニン。

 語っている内容を見てみよう。

「ソビエト権力とは? ソビエトの本質とは何か? 大多数の国はそれを理解できないでいる。あるいは理解したくないのか……。国家は統治されることで成立する。統治するのは富豪か大資本家だ。だがこの国を統治するのは、資本主義が抑圧した階級なのだ。そしていま世界で初めての国家権力がロシアで打ち立てられたのである。次のような形態で……搾取者を除く労働者と農民だけが大衆組織や評議会(ソビエト)を形成し、ここにこそあらゆる国家権力が譲渡される」

 ロシアは長らくロマノフ王朝による帝国が統治していた。その王朝によって人々は圧政を受けていた。政治に関与することができず、王家の威信を維持するためだけの戦争が起きて、若者が戦場に駆り出され、作物が取り上げられていく。
 では資本主義が素晴らしいのか……というとそんなわけはなく、資本主義の世界は一部の資本家が王族のように振る舞い、貧しい人々から搾取するだけ。
 国を統治するのはその国に住んでいる人々でなければならない。人々によって作られた「評議会」によって国家が運営されなければならない。「ソビエト」とはまさにその評議会に国家権力を譲渡する……ということだった。

 これがロシアの理想だった。国家の権力は大衆・労働者にあるべき。国民の富が国家に収奪されてはならない。意に沿わない戦争に参加させられてはならない。
 その思想は西側国家の「資本主義」思想には反する。国家間というのは「政治の駆け引き」の世界なので、共産国家が成立してすぐに西側諸国は承認しなかった……という背景がある。理想はどうであれ、西側国家は自分たちと違う主義の国は認めたくない……そういう考え方があった。だからロシアは西側諸国と対立し続ける。

 というのがロシアの理想だったのだけど……。10月革命の成功で帝政ロシアを打倒し、レーニンによる社会主義国家成立は国民にとって誇らしいものだ――このアニメが制作された1968年ごろも相変わらずそう信じていたのだけど……。
 結局は一部の人に権力が集中するようになり、民が貧しくなり、意に沿わない戦争に駆り出されてしまう……。国家の理想がいかに難しいか……2023年の現代を見てそう思うのだった。

ケルジェネツの戦い

 『ケルジュネツの戦い』1971年の作品。イワン・イワノフ・ヴァーノとユーリ・ノルシュテインとの共同監督作品。こちらの作品は14~16世紀のロシアのフレスコ画をもとに作品が作られている。まだリアリズムの時代は来ていない頃の絵画なので、ビザンツ様式的な絵の描かれ方をしている。
 当時、この作品は高く評価されたらしく、1971年にカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で最優秀アニメーション映画賞受賞、1972年にザグレブ世界アニメーション映画祭で大賞を受賞している。
 なお、この作品のみシネスコープ作品である。

 お話しの舞台は「キーテジ」と呼ばれるロシアで語り継がれる伝説の都市だ。ロシア中部、ニジェゴロド州ヴォスクレセンスキー地区にあるスヴェトロヤル湖の「水の中」にあったとされる伝説上の都市である。またキーテジは「目に見えない都市」とも言われる。

 こちらが実際のスヴェトロヤル湖。2015年に文化遺産登録されている。
 この周辺では水質調査や考古学調査などが行われていて、石器時代の遺跡は発見されているが、「目に見えない水中都市」の痕跡は発見されていない。

 そんな美しい都市に、戦争が迫ろうとしていた……。

 教会の鐘、最後の晩餐のテーブル……キリスト教モチーフが次々に出てくる。

 武装して集まる兵士たちの前に、マリア様が現れる。兵士たちがマリア様の祝福を受ける。

 ここで合唱が始まる。
「許してくれ。さようなら。懐かしいことども。家族の皆々泣くな。戦で死ぬのが我らが運命。死者は恥を知らぬ。戦で死ぬのが我らの運命。戦闘で我らの命は尽きるだろう」
 ……とやたらと格好いい歌唱が歌われる。

 戦地にやってくる兵士たち……。
 戦う相手はモンゴル帝国。1236年、モンゴル帝国は西に遠征してヨーロッパ諸国を侵略していた。キエフも同じくモンゴル帝国の脅威に晒されていた。
 キエフ侵略の中心人物だった人がバトゥ・ハーン。バトゥ・ハーンは3万5000人の弓騎兵を動員してロシア、ウクライナ、ベラルーシを侵略し、領地に置いていた。この時代のことを「タタールのくびき」と呼ばれている。
 この支配は100年ほど続き、1380年モンゴル支配からの脱却に向けて独立戦争が開始された。それからさらに100年後の1480年、モンゴル軍勢はロシアから去って行き、解放されることになる。この時にロシア帝国が成立している。

 キーテジ伝説はこの時代のことも語られている。ロシア侵攻したモンゴル司令官バトゥ・ハーンはキーテジの話を聞きつけて、この街を領土にしようと画策する。
 モンゴル人たちは間もなく捕虜を捉え、その捕虜からスヴェトロヤル湖へ向かう秘密の道について聞き出す。そうしてやがてモンゴル軍はキーテジに到達する。

 進行するモンゴル軍の姿。ここは地平線の向こうに、騎馬隊の列が見えている……という場面だが、その姿がブレるくらいに早く動いている。当時のモンゴル騎馬軍団は疾風韋駄天、それゆえに地上最強の軍団だったとされている。

 同時に這うような黒い煙が映し出される。モンゴル軍はこの黒い煙のごとく押し寄せてきた……という抽象表現。

 まるで荒れ狂う波のような動きのモンゴル軍。これくらいにモンゴル軍の強さは圧倒的でしたよ……という抽象表現を絵にしている。

 いよいよ戦いの場面……!!
 二つの軍団がぶつかり合う。

 しかし圧倒的なモンゴル軍に力及ばず、キーテジの軍団は劣勢。次々と死者を出すのだった。

 そこに、突如として鐘の音とともに“何者か”が現れる。
 教会の鐘の音とともにスーッと姿を現す存在だから、天使とか聖人といったところでしょう。どっちなのかわからんけど。
 とにかくも軍団の前に、天使の救援がやってきた……!

 天使の姿を見て、モンゴル軍が逃げ出していく……!

 実際の伝説がどうなっているかというと、モンゴル人が街を攻撃していると、突如地下から無数の噴水が噴き出して、街は湖に沈んでしまった……という。水面に残っていたのは、十字架のついた大聖堂のドームだけだった……。
 ということになっているが、現代の地質調査でもスヴェトロヤル湖には街の痕跡はなく、いったいどういう経緯で伝えられた伝説なのかよくわかっていない。

 このアニメでの物語では、奇跡が起きてモンゴル兵達を退け、良かった良かった……で終わる。
 でもこの時代のフレスコだから、なんとなく「ぽかーん」とした感じの絵になっている。「あいつら、なんで逃げたんだ?」みたいな。

 戦いに勝利したが、哀しみに暮れるマリア様。大地に消えた我が子を弔っている。

 されはさておき、敵を退けて平和を獲得した。キーテジの人々は平和を謳歌する。

 最終的に人が一杯増えました。わー! めでたしめでたし……で終わる。

 しかし公式サイト『ユーリ・ノルシュテインの仕事』での作品紹介を見ると……「この物語は西暦988年キエフ公国軍による国家統一のお話し」……と書かれている。Wikipediaの記述を頼りにすると、この頃の話としては980年代にウラジーミルによる領土拡大の話しか出てこない。モンゴル軍のキーテジ侵略のお話しは13世紀なので、なんだか話が合わない。どの資料が正しいのだろう……困った。

ウサギとキツネ

 続いて『ウサギとキツネ』。1973年の作品。この作品からユーリ・ノルシュテイン単独監督となり、その作品がじわじわと知られはじめる頃である。
 美術監督を務めたのはヤールブソワ・フランチェスカ。この作品における牧歌的な絵を作り上げたのがこの人。ユーリ・ノルシュテインの妻でもある。
 第7回全ソ連映画祭で最優秀賞。第二回ザグレブ国際映画祭児童映画祭で最優秀賞を受賞している。
 日本でもこのアニメ中の絵を利用した絵本が出ている。

 お話を見てみよう。


 昔、あるところにキツネとウサギが暮らしていた。キツネは氷の家に住み、ウサギは樹皮の家に住んでいた。
 キツネは氷の窓からウサギの暮らしを嘲笑っていた。
「おやまあ、なんと野暮で無知なこと! あんなボロ小屋なんか作って……。こっちのほうがよっぽどエレガントだわ」
 ところが春が来ると、氷の宮殿はとけてしまった。
 家なしになったキツネはこう考えた。
「そうだ! ウサギの家を乗っ取ろう!」
 ウサギが家を離れた隙にキツネはその中に入り込み、そのまま乗っ取ってしまった。
 家なしになったウサギは途方に暮れて泣いてしまう。
 そこに灰色のオオカミが現れる。
「こんにちわウサギ君。何が悲しくてそんなに泣いているんだい?」
「泣かずにいられない! 僕の家は樹皮造り。キツネの家は氷造り。春が来てキツネの家はとけてしまった。そして僕の家を乗っ取ったんだ」
「なんと横暴な! なんと哀れな! 俺たちでキツネを追い出してしまおう!」
 灰色オオカミは樹皮の家の前までやって来て、こう叫ぶ。
「おいキツネよ! その家から出て行け!」
 するとキツネが飛び出してくる。
「暖炉から飛び出してお前をやっつけてやる! 箒の束が風に飛んでバラバラになるがいいさ!」
 おやおや、なんという凄まじい怒りだろうか。灰色オオカミはなすすべもなく退散する。
 ウサギは野原に出て途方に暮れる。するとクマが声を掛けてきた。
「やあウサギ君。どうして嘆いているんだい?」
「嘆かずにはいられません。キツネが僕の家を乗っ取ってしまったんです」
「よしわかった。僕らの手で追い払おう」
「いいえ追い出せないでしょうね。だってオオカミ君もダメだったから」
「僕はクマだ! キツネを追い出せないとなると、面子に関わる!」
 ウサギはクマを伴って家に戻る。
「おーい、キツネよ、人様の家からとっとと失せろ!」
 するとキツネが家から飛び出してくる。
「暖炉から飛び出し、お前をやっつけに行く! 箒の束でお前はバラバラになるぞ!」
「なんて凶暴なんだ。まったく手が付けられない」
 クマは唸ってすたこらと逃げてしまった。
 ウサギは野原で1人すすり泣く。すると大きなものがぬっと頭上に現れた。牡牛だ。
「やあウサギ君。なぜ泣いているの?」
「キツネが僕の家を乗っ取ったんだ」
「では追い出そう」
「オオカミ君もクマさんも追い出そうとしたがダメだった。君もきっと無理だよ」
「いいや、そんなことはない。必ず追い出してやろう」
 牡牛はそういって家へ向かったが、あっという間に戻ってきて、そのまま走り去ってしまった。
 夜が明けて雄鶏が歩いてきた。
「やあウサギ君」
「こんにちわペーチャ」
「元気かい? なぜ泣いている?」
「家を取られたんだ。泣かずにいられるものか。僕には樹皮造りの立派な小屋があった。でもキツネが奪ってしまったんだ。僕は家に帰れなくなってしまった」
「そうか。ではキツネを追い出そう」
「追い出すなんてできないよ。しっかり居座っているから」
 それでも雄鶏は勇敢にも樹皮の家へと向かいだした。
 雄鶏は家の前までやってくると、勇ましくこう言った。
「肩に剣を担いで堂々と雄鶏が行く。キツネをぶった切って、帽子を作りたい」
 雄鶏とキツネが戦いとなった。雄鶏とキツネは激しくぶつかりあい、その末、とうとうキツネを追い出すことに成功する。
 それ以来、ウサギと雄鶏は一緒に暮らすようになった……。


 と、こういうお話しなわけだけど、最初の2本は注釈を一杯入れないと難しい作品だったけど、この作品は見たまんま。
 お話しはロシアの昔話『キツネとウサギ』。キツネの家とウサギの家があったけれど、キツネの家は氷の家だったために春になると溶けてしまった。横暴なキツネはウサギの家を乗っ取ってしまう。
 そこでウサギの家を取り戻そうと、オオカミ、クマ、牛がやってくるけど、みんなキツネの凶暴さに恐れをなして逃げていく。
 同じ展開の反復は童話の世界でよく見られる様式。童話の世界には「3の法則」があり、失敗が3度繰り返され、その次で成功を手にする。
 オオカミ、クマ、牛でも太刀打ちできなかったのに、小さく非力なニワトリが達成してしまう……。なんだか不思議なお話だけど、ニワトリといえば西洋では日の出の象徴。ニワトリがコケコッコーと鳴けば悪霊が退散するという言い伝えがある。
 ロシアに西洋の言い伝えがあったかどうかよくわからない。が、もしもそういう話であるなら、キツネは動物ではなく魔物。夜明けを告げるニワトリがやってきたから追い出された……ということになる。……という話は民俗学者に聞いてみないとわからない。

 作品を見てみましょう。

 キツネが住んでいる氷の宮殿。スケートを履いていて、地面を蹴るたびに背景がスーッと移動していく様子がなかなかオシャレ。「魔法の宮殿」らしさが出ている。

 家を追い出されたウサギの前に、オオカミが現れる。
 絵を見ればわかるけど、オオカミはウサギを食べる気まんまんだった。ところが話を聞いているうちに同情してしまい「よし、俺がキツネを追い出してやる!」ということになる。

 次に現れたのが大きなクマ。口にお花をくわえていて、話ながら手先で花を編んでいる。なかなか可愛らしい姿だ。

 ニワトリがやってきて、戦いの場面に入る。オオカミ、クマ、牛の3人がそれぞれのテリトリーから様子を見ている。それぞれのいる場所でフレームが違っていて、こうやって見るとグラフィカルで綺麗。俯瞰して見ると、オオカミ、クマ、牛の居場所がどれも夕暮れや夜になっている。雄鶏がやってきたところだけが朝として表現されている。

 キツネとニワトリの激しい戦闘に、クマが危険だとみてウサギをかくまっている瞬間。この瞬間がかわいい。

 キツネを追い出した後は、ウサギと雄鶏は一緒に暮らすようになったとさ……。
 オイオイ、どういうことだよ。異種族じゃねーか。
 でもひょっとするとなにかの暗喩かな……という気もした。異民族に領土を奪われて、それを取り戻すお話しかも……と推測してみたけれど、特にそれを裏付けるお話しもない。童話特有の不思議なお話……という感じだった。

アオサギとツル

 次のお話しは『アオサギとツル』。1974年の作品。前作の発表から1年後。ここから数年間、ユーリ・ノルシュテインの作品に勢いが出ている時期で、作品数が一気に増えるし、世界的名声も作られていく。
 アワードがなかなか凄いことになっていて、第8回全ソ連映画祭で制作集団第1位。第10回アヌシー国際映画祭で審査員特別賞。ニューヨーク国際映画祭で最優秀賞。テヘラン国際青少年映画祭で最優秀賞……と古里ソ連だけではなく、フランス、アメリカ、イラン、フィンランド、パナマ、オーストラリア、デンマークとありとあらゆる国で発表され、称賛を受けることになる作品だ。

 ではお話しを見ていこう。


 古いお屋敷跡にツルがいた。ツルの住処からそう遠くないところに、くちばしの長いアオサギが住んでいた。
 ツルの姿を見ながら、アオサギはぼんやりと思った。……求婚しようかな。
 くちばしは長いし、脚も長い。僕とお似合いだよ。よし、結婚しよう。
 そう考えていると、ツルは想いが大きくなっていき、アオサギの住処へと向かった。
「アオサギお嬢さんはいらっしゃいますか?」
「ええ、ここよ。ここですけど、なにかご用?」
「僕と結婚しないかい?」
「あなたに嫁ぐ? ヒョロ長のノッポのくせに? よく求婚しようなんて思ったわね。さあ出ておゆきなさい!」
 アオサギはツルを追い返して、その後ろ姿を見ながらふっと思った。
 どうして断ってしまったのかしら、私。彼のことは嫌いじゃないはずなのに……。ああいけないわ。彼はとてもいい人よ。とても男前だし……。私、彼のお嫁さんになるわ。
 そう思ってアオサギはツルの住処へと向かった。
 しかしツルはアオサギの想いを聞いてもツンとしている。
「いいえ。僕は君との結婚は思いとどまりました。お引き取りください」
 ツルが断ると、アオサギはしょんぼりしてお屋敷を去って行った。
 そんな後ろ姿を見て、ツルはこう思うのだった。
 ああ、どうして断ってしまったのだろう。あの子のことが好きなはずなのに。
 ツルはアオサギの後を追いかけていった……。


 あらすじの紹介はここまで。ここから先は、えんえん同じことの繰り返しになる。ツルが求婚するけど、アオサギは断ってしまう。その後で後悔して、アオサギはツルに求婚するけど、ツルは断ってしまう。それに後悔してツルはアオサギに求婚し……。
 それで最終的に結ばれたり……はしない。えんえん求婚しては断られる……を繰り返す。
 これは「ツルとアオサギ」と姿を変えているけど、恋愛の最中でよくある話。好きなはずなのに意地悪をしちゃう。恋人どうしになった後も、好きなはずなのに喧嘩をしてしまう。相手を疑ってしまう。別れた後で「どうして別れてしまったのだろうか?」と後悔する。結婚後も2人の関係は安泰……というわけにはいかず、男女はえんえん同じことを繰り返し続ける。いつの時代も男女は同じ。そういう意味で、普遍性のあるお話だともいえる。

 映像はご覧の通り。監督デビューから一貫して「切り絵」を使ったアニメーションを制作しているのだけど、本作でもスタイルは同じ。ただ撮影の方法はここで劇的に変化していて、中央にピントを合わせてあとは思い切ってぼかす。これでなんともいえない幻想的な空気が生まれた。

 雨のシーンはより幻想的な空気が増す。……でもどうやって制作しているのだろう? 日本のアニメの場合、傷を入れたセルを上に被せると雨の効果が出る。しかしこの作品ではかなりくっきりした雨の筋が描かれている。

 この作品で特に裏読みすることはないのだけど、舞台は廃墟。もしかしたら鳥の姿をしているけど、かつてそこに住んでいた人間の記憶をえんえん繰り返している……というお話しかも知れない。
 そういうお話しとして廃墟を舞台にしているのかも知れないし、単純にかっこいいイメージだから……で廃墟を舞台にしているのかも知れない。この辺りはどちらなのかわからない。
 ただ廃墟だから時代観がぼやけている。どの時代でも、どの文化でも当てはまる……というお話にはなっている。

 なんにしても首とくちばしの長いツルとアオサギ……という組み合わせが良い。シルエットがシャープになって、男女の官能的な姿を、いやらしくなることなく表現できている。
 そんなツルとアオサギが、求婚しては断られる……という繰り返しをえんえん続ける。ツルとアオサギだからこの滑稽さが強調されている。
 なにもかもが象徴化した物語に、なんともいえない幻想的なイメージが加わり、見事な1本に仕上がっている。この作品を切っ掛けにユーリ・ノルシュテインの世界的名声が始まったのも納得の1本だ。

霧に包まれたハリネズミ

 次の作品は1975年発表『霧に包まれたハリネズミ』。間違いなくユーリ・ノルシュテインの代表作といえる作品で、世界的名声もこの作品で完全に確定した。宮崎駿も大絶賛の一作だ。
 アワードも凄いことになっていて、第9回全ソ連映画祭で最優秀賞受賞、第10回テヘラン国際青少年映画祭で最優秀賞受賞、ロンドン・フェスティバルでは年間最優秀映画賞受賞……とこの作品も世界中で大絶賛された。
 2014年ロシアソチオリンピックでは「ロシアを代表する作品」として開会式に取り上げられ、ウクライナ首都キエフにはこの作品の像が建てられている。それくらいの影響力を持った作品だ。

 では本編のあらすじを見ていこう。


 ハリネズミのヨージックは友人のコグマに招待を受けていた。お茶を飲みながら、一緒に夜空の星を数えよう……と。ヨージックはコグマの家へ行こうと森の深い中を進んで行く。
 すると茂みを通り抜けたところで――白馬だ。茂みの向こうに霧が広がっていて、その霧の中に白馬がひっそりと佇んでいた。
 ヨージックはふと考えた。
「あの白馬が霧の中で横になったら、溺れてしまうのだろうか?」
 ヨージックは好奇心に駆られて、霧の中へと入っていった……。


 あらすじはここまで。ここからはヨージックが霧の中を彷徨い歩く場面がひたすら続く……というお話になっている。
 霧の効果だけど、Wikipediaには、
「全体を覆う霧は、非常に細かい紙片を舞台上に置き、1フレームごとにすこしずつカメラに近づけていくことによって、表現されている」
 と書かれている。この説明だとよくわからない。見て明らかなことは、CGでは絶対にない。アナログ的な手法で作られたのは間違いないのだけど、いったいどうやったらこんな効果が得られるのかよくわからない。いったいどうやって作られたかわからないからこそ、映像はひたすらに神秘的。どこか「魔法」そのものを見せられているような気分にすらなる。

 お話の内容を詳しく掘り下げていこう。

 冒頭。ハリネズミのヨージックは友人のコグマに招待されて、その家へと向かおうとしている。するとその背後を、フクロウがじわりと迫ってくる。
 しかしヨージックはフクロウがにじり寄ってくるのに気付かない。フクロウの羽は特殊は風のさばき方をするので、羽ばたき音が聞こえない……ということもあるのだけど、ヨージックはその存在にすら気付かない。
 これはフクロウが「あちら側」の使者であるから。こちら側と位相の違う世界の住人。あちら側に誘う最初の使者が「夜のしもべ」であるところのフクロウ……というのが一つのポイント。
 ただしヨージックはフクロウの存在に気がつかず、通り過ぎてしまう。

 ヨージックが深い茂みの中へと入っていく。
 これは「異世界」との端境にあるトンネル。異世界探訪物語にはしばしばこういう、「あちら側」と「こちら側」を切り分けるゲートのようなものが登場する。例えば『千と千尋の神隠し』では暗く長いトンネルを通り抜けると、「あちら側」の世界へ行く。『不思議な国のアリス』では落とし穴のようなところをえんえん転げ落ちて、あちら側世界へ行く。
 そういう「あちら側」へのゲートを何気ない感じに描いている。物語の中におけるごく自然な光景のように描かれているところが良い。

 暗い茂みをくぐり抜けると――ヨージックはハッとする。目の前にはこんな白い馬。その姿が半分霧の中に溶け込んでいる。こんな白馬が霧の中にひっそりと動いている……この光景のなんともいえない官能的な風合い。

 あの白馬を見て、ヨージックは好奇心に駆られて霧の中へと入っていく。ヨージックは誰かに「落とされた」わけでもなく、自分から霧の中へと入っていく。その導入となるのがあの白馬の描写だから、納得感が強い。あんな美しい画面が出てくると、好奇心に誘われて「行ってみようか」と思うのは自然な流れ。

 霧の中へと入っていく。制作方法はもちろんアナログ的なもの。まるで絵画そのものが動いているかのような美しいシーンが連続していく。
 この霧の世界はなんなのか――というと「異世界」。ヨージックはすでに「この世」ならざる世界に迷い込んでいる。異世界転移物語の作法的なものだけど、その世界は時間や空間といったものが曖昧になる。例えば『不思議の国のアリス』はうたた寝をしている間のほんの一時の物語だった。『千と千尋の神隠し』は両親の体験では一瞬に過ぎなかったけど、現実に戻ると数日が過ぎていた……という描かれ方をする。『ピーターパンの冒険』『ナルニア国物語』も同じ。「妖精の世界は私たちの世界と時間の流れ方が違う」……これが異世界の基本ルール。
 ヨージックが体験している異世界も、コグマの家まで行くほんの短い道のりの中で体験したこと。その異世界での体験がどこまでも間延びしてしまっている。
 現代は「異世界転生物語」が大量に作られているがゆえに、「物語の作法」がわからなくなっているが、本来「妖精世界」の物語とは、私たちの住んでいる世界とは時間と空間が違うこと……が条件だ(だから現代の「異世界転生もの」はファンタジーであってもファンタジーではない。エセファンタジーだ)。

 霧の中の世界が掘り下げられていく。フクロウ、カタツムリ、それに象も登場する。ロシアの森に象なんているはずがないから、ここは間違いなく異世界。
 ほとんどは普段なら道を歩いていても意識せずに通り過ぎていくようなものばかり。異世界に迷い込んだことで、普段なら見落としているような自然の小さなものが異様な存在感を持って目の前に現れてくる。
 ヨージックはその一つ一つに関心を向けたり、怯えたりする。

 ヨージックが体験しているこの異世界はなんなのか。というと自然そのもの。ありふれた森の光景。普段なら見落として気にもしないようなものたち。そういうありふれたものこそ、異世界の源泉だ――とそういう描き方になっている。

 そういう草むらに隠れているような自然を改めて見つめ直す物語であるから、これはロシアの原型的な精神性「ロシア的魂」を探索する物語だ……という解釈もある。ヨージックが体験するのは、ロシアの原型的な自然の光景。そしてプリミティブな感受性が描かれている……と。
 果たしてそういう意図があるのかどうかわからないが、いかようにも読み取れて、解釈されるたびに厚みが生まれてくる物語であることは間違いない。

 夜という時間の使者たるフクロウも、ヨージックの前に現れる。普段なら遠くで鳴き声を聞くだけ……かも知れないけど、異世界になると存在が際立ってくる。

 なんでもない木もこの存在感……!
 マルチプレーンを組んで撮影されているはずなので、幹の手前側、少しかすんで見える奥側、さらにうっすらとしている一番奥とは、すべてバラバラの絵素材のはず。こうしてみると手前から奥までの流れがあまりにも自然なので、そこで分かれているように見えない。しかもこれが緩やかに回転する……という3D表現までやっている。「実は2D」だと言われても嘘だろ……と思って見てしまう。

 足元に空洞ができている木。
 立体的に表現されているので、あたかも本当に立体物を作って撮影しているかのように見える。
 でも平面の切り絵であるはずだから、くっきり映っている幹の手前、少しかすんで見える幹のフチのところ、さらに一番奥のうっすらしているところとで別素材になっているはず。
 切り絵とは思えない高度な技術で、しかもキャラクターがかすんで見える奥から手前へと移動してくるので、こういう絵が本当に動いているかのように見えてしまう。

 ここで「ヨージック!」と呼ぶ声がする。もちろん呼んでいるのはコグマ。ヨージックを探しているコグマの声が、異世界であるこちら側までうっすら聞こえている。実はそう遠くないところだということがわかる。

 持ってきていたはずのジャムの包みをなくしてしまった……!
 慌てるヨージック。でもそこにホタルが止まっている木の枝を見付けて落ち着く。不案内な霧の中で、一瞬の安心を見出すが……ホタルはふわっと飛んでいってしまう。

 辺りは夜の暗闇に包まれている。手を伸ばした先すら見えない。
 ヨージックははたと不安に駆られる。霧の中に見えていた自然が、急に「恐怖の対象」として立ち上がってくる。
 この恐怖に紛れて、コグマが自分を呼ぶ声が聞こえる。

 どうしよう……途方に暮れたところで犬が現れて、なくしたジャムの包みを持ってきてくれる。
 不思議な場面だが、ユーリ・ノルシュテインはこう語っている。
「「霧の中のハリネズミ」に犬が出てきて、ハリネズミに包みを渡しますよね。『ハッハッハッ』と言ってね。あれはどこから来たのかというと、8ヶ月くらいの頃の記憶なんですよ。でも私の母は信じてくれない。私は疎開先で生まれたんですね。戦争があって。
モスクワからみんな疎開したんです。日本もそうですね。その疎開地で生まれて、そのときちょうどむこうからバァ−ッと走ってきて、息を舌を出して『ハアッハァッハァッ』と息をする犬を見たんです。これはずっと記憶にとどまっているんですね。それがそこに出てきたんですね」
ユーリ・ノルシュテインさんへの質問会
 生後8ヶ月くらいの記憶がその後もずっと頭の中に留まっていて、それであの場面が生まれたのだという。
 とにかくも犬という救い手がいて、ヨージックは窮地を脱する。

 再びコグマの「ヨージック!」と呼ぶ声が聞こえて、その方向へ向かうと、突如川の中に落ちてしまう。
 これはどういうことかというと、異世界という夢を見ている最中からの覚醒した瞬間だから。
 つまりヨージックは、最初から川に落ちて気絶していた。その間に見た夢があの霧の世界という異世界だった……というのが平凡な解釈。あの霧が本当にあったかどうかすら定かではない。何もかもが夢のお話し。
 ともかくもヨージックは川の流れに身を任せる。

 川に流されていると、ふと「魚」が現れて、ヨージックを岸辺まで運んでくれる。
 しかしよくよく見ると、「魚」は映像の中に描写されていない。ヨージックもその姿を見ておらず、岸辺について振り返るともうその姿はない。ナレーションを見ても、
「“どういたしまして”と誰かが言いました」
 とぼかすような言い回しになっている。
 つまりヨージックを岸まで運んだ何者かも異世界の住人(よくよく考えると、この物語はハリネズミとコグマ以外の動物は喋らないことになっている。なので魚が喋るはずがない)。フクロウと対局の何者か。この何者かが最終的に異世界の外へと送り出してくれる。

 ようやくヨージックはコグマと合流する。どうやらコグマはあちこち探していた様子。でも気付けば待ち合わせ場所にいたヨージック……。
 異世界の探検が終わって、まだその余韻の中にいるヨージック。結局いうと、あの異世界の体験は「夢」に過ぎなかったのだけど、面白いことにヨージックはその体験が夢なのか現実なのか、覚醒している時のお話しなのか川に落ちて気絶している最中のお話しなのか……それすら認識していない。あたかも現実と異世界が地続きだったかのような表現になっている。だからこそ、なんともいえない不思議さが後味として残されていく。

 あの体験は夢なのか現実なのか……しかしヨージックの脳裏に、霧の中の白馬の姿がしっかり刻み込まれている。確かに「経験」はした。その経験がヨージック自身をすこし別の存在へと変えてしまう……。

 というお話しの『霧に包まれたハリネズミ』。ユーリ・ノルシュテイン作品の中でも抜きん出た傑作の1本。他はともかくとして、この作品は観るべき。間違いなく名作と言える短編アニメである。

話の話

 1979年発表作品。前作から4年。しかもこれまで10分前後だったものが一気に29分。今までは童話がモチーフだったけど、この作品から作者自身の記憶や心象にグッと近付いていくような内容になっている。
 例によって世界中で称賛された作品で、アワードは第13回全ソ連映画祭での最優秀賞受賞をはじめ、フランス・リラ国際映画祭において最優秀賞、国際批評家連盟賞、ノルド賞を受賞、カナダではオタワ国際映画祭では最優秀賞受賞。ロサンゼルスの映画芸術アカデミーがハリウッドASIFAと共催した国際アンケートで「歴史上最高のアニメーション映画」という評価を受けた。
 アニメ史上に残る最高の作品という評価を受けた作品。果たしてどんな内容なのか――。

 そのお話しを観ていきましょう……と言いたいところだけど、今までの作品のように簡単にあらすじ紹介ができない。わかりやすい起承転結がない。具体的な登場人物がいて、何をするお話しか……という展開がない。ただただイメージが続く……というお話しで、一見するとどういうお話しかわからない。
 というわけで、今回は最初から“細かいところ”から見ていくことにしよう。

 冒頭。赤ちゃんがお母さんのオッパイを吸っている場面から始まる。お乳を飲んで、満腹になってまどろんでいる……。ぼんやりした視線の先には……。

 赤ちゃんの視線の先には、空想の存在であるはずのオオカミの子供がいる。
 子守歌を聞いてみよう。
「ねんねんころり、おころりよ。ねんねしないと灰色オオカミの子が来るよ。灰色オオカミの子だよ。灰色オオカミの子はね、脇腹をつかまえて森に連れて行くよ。ヤナギの茂みの中だよ」
 お母さんの歌声を聴いて、赤ちゃんの頭の中に浮かんだ「灰色オオカミ」の幻。このお話しは、赤ちゃんが頭の中で見ている夢のキャラクターが自らの意思を持って行動し、夢想する……というお話し。主は赤ちゃんであり、赤ちゃんの夢の中でオオカミの子がさらに夢を見る……という2重構造のお話になっている。

 赤ちゃんが眠った後、いくつかのイメージが出てくるのだけど、その次に出てくるのが廃墟のお屋敷。夢診断で「廃墟のお屋敷」といえば、その人間が潜在的に持っている世界観のことで、しかもそれは古い記憶に根ざしたもの……ということになる。古い記憶に根ざしたものが「お屋敷」という形を持って夢の中に現れてきている。
 ではこの廃墟のお屋敷の夢を見ているのは誰なのか――?
 最初に種明かしすると、実はこのお話しは3重構造になっている。答えはユーリ・ノルシュテイン自身の夢。ユーリ・ノルシュテインが赤ちゃん時代の記憶を夢想し、さらにその夢の中に出てくるオオカミの子の夢想がはじまり……というお話になっている。かなり複雑だが、これを押さえておくと、「誰の、どういう記憶の中のお話しか」がわかるようになる。

 お屋敷の一部がパァーと光を漏らし……。
 いきなりお屋敷の中の様子が見えてしまっている。この世界観は現実世界ではない。夢想世界だから、条理に合わなくても、主体がイメージしたものがパッと前面に出てくる。「夢の世界だ」という割り切りがあるからこそできる表現。
 画面はこの光の中へとスーッと入り込んでいく。

 光の向こうに現れたその世界は――『楽園』。
 子供時代に体験したかも知れない「幸福な世界」。みんな一緒の世界にいて、動物とお話しもできたかも知れない世界。みんな笑顔で楽しげで……。

 詩人が創作に行き詰まっている。
 他の登場人物たちが世俗的な役割を持っているのに対し、この詩人だけ少し違うポジションにいる。他のみんなと画面を共有せず、いつも1人でいる。実は特別な存在――つまり作品の語り手でもある。
 そんな詩人が猫にダメだしを喰らっている様子が面白い。

 夢の世界なので、魚が漂っている姿が平面的に描かれている。
 画面やや上のところに線が1本引かれている。実はあれは水平線。登場人物たちがいる向こうは海になっている。望遠レンズで撮影されている想定で、丘に建っている住宅の向こうにある海が、立ち上がって見えている。それをあえて子供っぽい感性で描いているので、水平線が平面上に並んで見えている。あたかも水槽のような画面構成に見えるので、思い切って魚もそこに描かれてしまっている。おかげでより「夢の中」という印象が強まっている。

 子供の遊びに付き合わされて、少し迷惑そうな牛。妙にかわいい一コマ。

 洗濯をしている母親に、父親が赤ちゃんをあやしている。

 再び廃墟に戻ってくる。
 手前の人のいないテーブルは『ケルジェネツの戦い』でも使われたモチーフ。『最後の晩餐』が元ネタになっている。ほんの少し前までここで食事していた人がいて、その人たちはすでに去ってしまった……ということが暗示されている。
 それは誰なのか?

 次に廃墟に現れるのは、ややリアルなタッチで描かれた車。車は「現代」の象徴。なにもかもが明晰に描かれる時代の産物だから、リアルなタッチで描かれている。
 車のスクラップが描かれるが、どこかでエンジン音がして、走り去っていく音がする。これも「過ぎ去った時代」の象徴だ。

 再び廃墟。外は雪が降って、オオカミの子はお屋敷の中に閉じこもっている。暖炉に薪がくべられている。その炎をじっと見詰めている。するとスーッとなにかのイメージが浮かんでくる。

 それはささやかな街灯の下でタンゴを踊る男女たちの姿。さっきの「空になったテーブル」で食事をしていた人たちだ。

 ささやかな幸福なときはふっと終わり、男たちの姿が消える。女たちが取り残されていく。

 男たちが向かって行ったのは戦争。
 ユーリ・ノルシュテインは戦時中の生まれ。疎開先で生まれたのだけど、今でもその時の記憶があって、物語の中に出てくる。ユーリ・ノルシュテインにとっても忘れられないし、国家の歴史としても忘れられない記憶になっている。

 女たちのもとには通知が送られてくる。
「ご主人は英雄として勇敢に戦い、負傷しました。しかしその傷が元で死亡しました」

 愛した人は戻ってこなかった……。あの時タンゴを踊った明かりの下で、孤独に佇む女。

 次に浮かぶのは小さな子供。子供はナシを食べながら、頭上を見ている。

 画面が上へすっとPANすると、そこにも子供が……。これは子供が「こうなったらいいな」と妄想している姿。あそこにいるカラスと一緒にナシを食べたいな……と考えている姿が映像になっている。

 そんな子供の側にいる両親。父親が酒をあおるように飲んでいる。

 父親が酒瓶をパンとたたき割る。

 木の枝にいる……という妄想をしていた子供が転落し、“自分自身”に戻ってくる。妄想から現実にパッと引き戻された様子が描かれている。

 そして母親が子供の手を引っ張る。画面全体がブレて、その瞬間、パッと止まる。ナシだけがくっきり映っている。

 『話の話』の冒頭を見てみると、夜の森の中に取り残されているナシが描かれている。このお話しはユーリ・ノルシュテインの夢がモチーフになっている。夜の森は夢を見ている人の「潜在意識」の中でも深い場所を意味している。そんな場所に、ぽつんと取り残されたナシ。
 おそらくはこの雪の場面は、ユーリ・ノルシュテインがどこかで実際に体験したお話しなのだろう。あの時、母親に手を引っ張られて、ナシを地面に落としてしまった。その時の様子や光景が“心残り”となってその後も頭に引っ掛かり続けた……という場面なのだろう。

 歩いていると不思議なことにお父さんの帽子が二角帽子に変わる。これは何を意味しているのだろう……。二角帽子は軍隊での正装。お父さんが軍国主義に染まっていった……ということかも知れないけど、ユーリ・ノルシュテインの幼少期はもう戦後だったはず。するとこの場面は何を意味しているのだろう……不思議な場面。

 誰もいなくなった雪のベンチ。そこにやってくる謎の男性。
 この男性は誰なのだろう? たぶんユーリ・ノルシュテイン自身じゃないかな。成長したユーリ・ノルシュテインがこの場所にやって来て、「あんなことがあったなぁ」と思い出している……と。

 オオカミの子が桶の中に入れてあったジャガイモを取り出している。芽をもぎとって、食べようとしている。

 やがて戦争が終わり、男たちが帰ってくる。……しかし片足をなくしてしまっている男。道行く人に音楽を聴かせて、施しをもらおうとしている。

 街に男たちが戻ってきて、活気が戻ってくる。しかし戻ってこなかった男たちも……。再会を喜ぶ男女と、孤独に悲しむ女と……。

 人間が描かれていない場面。葉にくっきりとした雫が垂れている。たぶん「涙」を表しているのだろう。  戦争が終わって、喜びにあふれる人たちと、その一方で哀しみを引きずる人たち。

 オオカミの子が火をおこしてジャガイモを焼いている。ジャガイモを取りだした後も、火にフーッと息を吹きかけている。
 かなり抽象的な表現だが、この火は「想像力」の意思。『マッチ売りの少女』みたいな場面を想像してもらえばよい(他の場面も、火を見ているとイメージが浮かぶ……という構成になっている)。オオカミの子が消えかけようとする焚き火の火を頑張って維持しようとすると……。

 屋敷の扉が開いて、パァーと光が差し込んでくる。
 あの「楽園」に繋がる扉だ。あの扉が再び開いたんだ。オオカミの子は、その扉の中へ入っていく。

 楽園にも、誰かが帰還している。戦争から帰ってきた若者だ。
 この楽園は「想像の世界」。その世界に、主体である若者が帰ってきた。停滞していたこの世界が再び動き出したことを意味する。

 やがて夜になり……みんな家の中に戻り、お父さんだけは網を持って小舟に乗る。時間が進み、楽園に夜が訪れる。

 辺りが暗くなった後、オオカミの子は詩人のテーブルの側に現れる。
 この楽園はユーリ・ノルシュテインの想像力の源泉的な場所。そんな場所にいる詩人……ということはこの詩人は、この世界における代表的な存在……ということになる。この詩人が、想像の世界で起こったことを絵や文字に起こして語り手になっている。

 そんな詩人の側から……オオカミが作品を盗み出して逃げる。

 走っていると、作品が赤ちゃんに変わる。創作が産声を上げたのだ。生まれかけた作品は、赤ちゃんのように泣いて、その存在を辺りに知らせようとする。

 オオカミの子は手に負えなくなって、赤ちゃんを一度茂みの中に放置しようとする。
「灰色オオカミの子はね、脇腹をつかまえて森に連れて行くよ。ヤナギの茂みの中だよ」
 母親の子守歌通りの行動をするオオカミの子供。
 しかし泣き止まない赤ちゃんに、オオカミの子はやっぱり赤ちゃんを連れて行くことに。

 赤ちゃん用のベッドに入れて、ようやく一息。赤ちゃんも落ち着く。

 そして今までのイメージがバーッと流れていき……。
 最初のまどろむ赤ちゃんの場面に戻ってくる。

 子守歌を聴きながら、赤ちゃんが夢想した世界のお話し。そしてそれはユーリ・ノルシュテイン自身の子供時代の記憶がベースになっている。
 まるで作家の頭の中を覗くような映像体験。ただひたすらにふしぎで、ふしぎに切なくて、それでいてなにもかもが美しい。
 ユーリ・ノルシュテインが描いたまったくの独自の世界。なのに自分の記憶の中にもあったんじゃないか……と感じさせるふしぎな懐かしさ。それが圧倒するような美で包まれている。だからこそ「世界の名作」と呼ばれる1本になった。こうして見ると納得の作品だった。

 でも残念なことに、ユーリ・ノルシュテインの作家としてのピークはここで終わり。以降は数十秒や数分程度のCMや短編しか描いていない。2000年以降もどうやら現役アニメーターとして作品制作を続けているけど、その制作があまりにも長期にわたっているので、いまだに完成しない。
 1985年、長年制作に携わったソユーズムルトフィルムから解雇されている。その次回作であるゴーゴリの『オーバーコート』がえんえん完成しないからだ。その頃から新作が出ない時期が30年近く続いている。現在は信頼できる団体から支援を受けて、『オーバーコート』の制作を再開しているらしいが、完成がいつになるか……。2023年現在で81歳……本当に完成するのだろうか?


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とらつぐみ
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