読書感想文 コミュニケーションは、要らない/押井守
この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。
2011年3月11日。東日本大震災。この時、押井守氏は歯医者で治療中だった。
その時の様子が、本書冒頭に描写されているのだが……。
激しく地面が揺れる最中、女医は何を思ったか押井氏の顎を掴み、「この建物は絶対だいじょうぶ。私はこの歯を嵌めるるんだからね!」と叫び、義歯をねじり込もうとしていた。
……本書ではシリアスな一場面として描写されているが、私にはどうにもギャグにしか見えず。大地震で激しく揺れている最中、ものすごい剣幕で義歯をねじり込もうとする女医の姿……なんて完全にギャグ漫画の一コマだ。
人間、非常時なにをするかわからない。
といっても、2011年当時にこの一場面を“笑い”として描写したら、各方面から「不謹慎だ!」と、あの時代のことだから集中砲火にあっていたことだろう。当時は何でもかんでも「不謹慎だ」「自重しろ」と大騒ぎで、この影響で経済が冷え込んだくらいだ。今だからこそ、この場面を“笑い話”として読むことができるのだが、当時はそういうわけにはいかなかったのだろう。
本書『コミュニケーションは要らない』は3.11東日本大震災を切っ掛けにして書かれた本だ。押井氏はあの震災の直後、帰宅難民となり、歩いて家まで戻った後はご多分に漏れずネットで情報をあさりまくった。その結果として見えてきたのは、“そこには何もない”という事実だ。震災は何も始まらなかったし、何も終わらなかった。
あの震災の後、重大な被害に遭った地域を除いては、あっという間に元の日常に戻っていった。日常に戻ること自体は悪いことではない。ただ、このレベルの災害を目の当たりにし、ここまでネット情報が拡散されたというのに、“国民が同じ体験を共有している”といえない状態――つまりある種のコミュニケーション不全に陥っているということに無自覚であった。ただ“共有している気分”を作り出すための標語「がんばれニッポン」とか「絆」という言葉だけを置き、あるいはその言葉を免罪符にした。私たちは「東北かわいそう」という気分をそこに消費しただけに過ぎない。
コミュニケーションには2つの側面がある。「現状を維持するためのコミュニケーション」と「異質なものと付き合うためのコミュニケーション」だ。
前者のコミュニケーションは「ご近所づきあい」や「会社つきあい」「友人関係」「夫婦関係」といったコミュニティを維持するためのものだ。問題なのは、日本のコミュニケーションがこの前者の方に極端に偏りすぎているということだ。
国会の答弁を見てわかるように、本来は議論を戦わせる必要がある場面であっても、日本人は前者的なコミュニケーションに頼ってしまう。「わかるでしょ」というやつだ。
最大の問題は、馴れ合い的なコミュニケーションを続けてきた結果、日本にはまともな言語空間と言論空間というものがなくなってしまったことだ。
東日本大震災の時、TwitterやFacebookを通じて当事者たちが発信する様々な情報に触れる機会を得て、なにか同じ体験を共有したかのような気分になったが、これは錯覚に過ぎない。
そこにあったのはコミュニケーションではなく、感情移入の促進だ。コミュニケーションとはそれぞれの立場が明確にあって、初めてコミュニケーションたり得るのだ。震災直後ならともかく、あれから時を経た今、我々の本質を見極めるための議論が必要だろう。
言論空間とは、互いに共通の尺度と認識のもとに正常に語り合うことのできるコミュニティのことだ。強調することがコミュニケーションなのではない。
まず、インターネットはコミュニケーションには向いてない世界だ。何よりもまず、ネットでのコミュニケーションの主体はいきなり個人レベルから始まってしまうからだ。メールでもブログでもTwitterでもFacebookでも、それを始めた瞬間、それまでの共同体を置き去りにした個人となる。今の社会ではテレビや新聞というメディアでは国民の話をし、それがインターネットになるといきなり個人の話になる。けれども、ほとんどの者が「社会性」とは個人とマスの中間地点にある。
そして、それぞれの共同体の中では、共通言語がある。この共同体の内部では、現実世界でもネットの世界でもそれなりの対話がある。しかし、それ以外のコミュニティにまたがる会話というものは、かなり限定されてしまう。
ネットは情報のしがらみを離れて、世界中のコミュニティにコミットしているかのような気分にさせるが、これは錯覚で、むしろ個人の殻に引きこもっているだけだ。
3.11以降、様々な場所で原発について語られてきたが、その本質について、未だに語られていない。技術に関する些末な部分については語られているが、政治の話になると急に焦点が霞む。
核の問題に関して「平和利用から考えます」と言っている国なんて、世界に1つしかない。日本のみだ。ここに原発問題の根源がある。
福島第一原発は6号機を除き、ゼネラル・エレクトリック社製のマークⅠ型原子炉を使っているが、「Ⅰ型」の名が示す通り、これはもっとも初期の原子炉だ。なかでも日本が採用した沸騰小型軽水炉というタイプの格納容器は、核融合の副産物であるプルトニウムを原子炉から取り出せない構造となっている。これこそが、時代遅れな原子炉を日本政府が導入した理由だ。
プルトニウムは誰もが知っている通り、核兵器を生み出す主原料だ。これを自由に取り出すことができてしまえば、対外的に否応なく核保有国として見られる。
原子力発電所を作るということは、国際的には核保有国になるということだ。原発と原爆はセットだ。――が、日本だけは非核三原則「核兵器を持たず、作らす、持ち込ませず」がある。ここに矛盾を抱えてしまう。
原発を作るが、原爆は作りません。そんな説明が国際社会に通用するわけがない。特に中国は黙ってないだろう。だからこそ日本政府は、プルトニウムが取り出せない、旧式原子炉を選択したのだ。
つまりあの事故は想定外などではなく、予想通り起きたということだ。
普通の国だったら今回のような大災害が起きた場合、真っ先に考えるのが国防だ。災害時は国防が揺らぐ。周辺国にとっては災害時にこそ、国防を見定めるチャンスとなる。
東日本大震災直後も日本がパニックに陥っている最中、アメリカも中国も韓国も片方では日本に援助の手を差し伸べながら、もう片方では冷静に日本の対応を見ていた。実際、震災直後かなりの時間、日本上空を無人偵察機が飛んでいた。堂々たる領空侵犯だ。
災害時の管理能力といえば、経済や食料の確保の話だけではなく、国防能力も問われる。だからこそ、ここぞとばかりに日本の領土に入ってくる。
ところがそんな時、時の総理こと菅直人が何をやったかというと、全国の自衛隊10万人をかき集めて、被災地に送り込むという愚行だった。
10万人規模の自衛隊を一度に派遣するなど、まともな指揮官なら絶対にやってはいけない。輸送経路も食料の確保も不可能だからだ。おまけに国防も手薄になる。民主党は自ら自衛隊予算を大幅にカットしていたから、ロクな装備もなく、自衛隊員たちは東北に送り込まれてしまった。
本書の紹介はここまで。ここから私の“雑感”に移る。
話を聞いていると、さて、どこかで聞いたような、という気分になってくる。どこかで、ではない。映画『パトレイバー2』だ。一発のミサイルが横浜ベイブリッジを爆撃。このニュースに日本中が大混乱に陥るが、誰も本質的な話をしない。そのうちにも“何から何を守るか不明”なまま、首都圏に自衛隊が出動されてしまう。
かつて押井氏が『パトレイバー2』でシミュレーションしていたことを、東日本大震災の時に現実として起きた。結末は同じだ――「3年前、この町に戻ってから私もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局、最初の砲声が轟くまで誰も気づかなかった。いや、もしかしたら今も……」
震災に原発という、未曽有の危機を前に誰もが大パニックとなり、様々な議論が交わされるが、誰も本質を語らない。原発事故が起きたのは、そもそも旧式原子炉なんぞを使っていたからで、なんでそんなものを使用していたかといえば非核三原則があったからだ。
日本人は自ら墓穴を掘って、自らその中に入ったのだ。でもその指摘を誰もしないから、問題の根はその後も解消されず、今に至っている。
原発事故は起きるべくして起こった。しかし見たくないから見ない、気が付いても言わない、言っても聞かない……だから破局を迎える。
そうなったのは言語能力の欠如、コミュニケーション能力の著しい低下にある。問題の根源は明治の「言文一致運動」。これによってあらゆる文章が「話し言葉」に近い口語体で書かれるようになった。これによって日本語が「ロジック」としての骨組みを失い、「表現としての言葉」に流れていってしまった――その末期が現代である。
今、Twitterやブログで垂れ流している言葉は、単に“気持ち”を吐き出すため。このブログがまさにその“雑感ブログ”だけども。アニメや映画のレビューがあっても、批評なんてものはただの一つとしてなく、単に好きか嫌いか。そして現代人の大多数は自分がその対象に(作り手や当事者に対して)「好感を持てるか否か」ジャッジを言い渡せる「上から目線」の存在になっている。
東日本大震災の時、多くの作家(小説家、漫画家、映画監督その他)が「震災によって目が覚めた。もう以前のような作品を描くことができない」……と語った。
押井氏はそういう“ぬるい”作家たちを看破する。
「じゃあお前らがそれまでに作ってきたものはなんだったんだよ」
と。
そもそもの問題は、「そのとき初めて」起きたことではなく、ずっとずっと前から進行していた。単に、考えたくないから先延ばしにしていただけだ。
映画『パトレイバー2』にこんなセリフがある。
「戦争? そんなものはとっくに始まっている。大事なのは、いかに終わらせるかだ」
そう、とっくに始まっていて、ずっと進行中だったのだ。そのことにある意味知っていたけど、気づかないふりをし、忘れたふりをし続けたのが今のこの現代だ。
押井氏はかねてより「順番に考えること」が大事だと語っている。原発問題が起きたのは旧式原子炉を使っていたからであり、なんでそんな旧式原子炉を使っていたかといえば「非核三原則」があるからであり、なんで「非核三原則」なんてものがあるかというと、我が国の国防問題・国防意識があるからで――。
(ここまで来ると「右翼的だ!」「軍国主義賛美だ!」と大騒ぎするあの連中が大量に押し寄せてきて、ここまで積み上げてきた思考は一気に崩されてしまう。だから考えることができない)
一つ一つ遡っていったら問題の根が見えてくる。
そして日本は根っこのところですでにおかしい。
原発問題にしても、「いち地域の問題」でもなければ、近視眼的な「今の電力問題」のみばかりでもなく、掘り返せば「国が抱えている問題」がそこにあるわけで、そこから一つ一つ考えて語らねばならない。
この本は原発問題を一つの例にして、順番に考えることを説いた本ともいえる。