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映画感想 マトリックス4 リザレクションズ

 『マトリックス リザレクションズ』が早くもNetflix配信に登場!

 『マトリックス』シリーズの始まりは1999年。ソフトウェア会社に勤めるトーマス・アンダーソンは奇妙な感覚に囚われて過ごしていた。それがあるとき、モーフィアスと名乗る男から、この世界はすべてデジタル上で作られた仮想現実で、本当の世界は別にある……と告げられるのだった。
 インパクトの強いストーリーに現代の風刺を同時に表現し、かつ誰も映像世界で見たことのないイメージを生み出した傑作SFは、その時代を代表する物語となり、映画表現のグレードを1段階押し上げ、その後も忘れ得ぬ名作として語り継がれていった。その『マトリックス』3部作完結から18年――その続編がついに制作された。それが『マトリックス リザレクションズ』だ。
 いったどんな切っ掛けで『マトリックス』の続編が制作されることになったのか。ワーナーブラザーズからの圧力か……? そうではなく、監督であり原作者であるウォシャウスキー姉妹の両親が死去したから。その悲しみから逃れるために、自分たちの原典に戻った作品を作りたい……。「両親は死んでしまったが、あの2人なら生き返らせることができる」――そういう想いから、再び制作に臨んだそうだ。
 しかしウォシャウスキー姉妹の間に意見の相違も生まれ、ラナ・ウォシャウスキー(姉)は『マトリックス』の制作に前向きだったというか、そこに慰めを求めていたが、妹のリリー・ウォシャウスキーは「自分たちの過去に戻るだけ」……と否定的。ウォシャウスキー姉妹は今まで全ての映画を姉妹で作り上げてきたが、本作だけはラナ・ウォシャウスキー単独による脚本・監督となった。
 こうした動機からもわかるように、少しパーソナルな作品として作られたのが本作。映画会社の経営的都合によって作られた作品でもないし、ファンの後押しを受けて作られた作品でもない。監督のラナ・ウォシャウスキーの精神的なものが制作の切っ掛けとなっている。こうした経緯もあって、脚本もこれまでウォシャウスキー姉妹共作だったが、ドラマシリーズ『センス8』で共作した脚本家ディヴィッド・ミッチェル、アレクサンダー・ヘモンの協力を得て完成させている。
 本作の制作費は1億9000万ドル。映画が公開された最初の5日間で稼いだお金は2120万ドル。予想をはるかに下回る成績だった。最終的に全世界で1億5730万ドル。残念ながら制作費すら回収できない映画となってしまった。本作は劇場の公開と同時にストリーミング配信され、こちらが5日間で280万世帯が視聴。ストリーミング配信にCOVID-19が興行成績に影響を与えたとされる。
 映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば63%が本作を支持、平均評価は6.2。決して悪くないがやや見劣りがする……という評価が下されている。

前半30分のストーリー

 それでは本作のストーリーを見ていこう。


 物語の始まりは、お決まりのハッキングシーンから始まる。
 バッグスとシークはとある「モーダル」に侵入するが、そこには見覚えのある風景が……。『マトリックス』1作目冒頭の風景だ。でも微妙に違う。これは同じシチュエーションをえんえんループさせ続けるためのプログラムだ。しかしなんでこんなものを……。
 間もなくバッグスはエージェントに発見される。鍵屋に飛び込んだところで、エージェントに掴まり、バッグドアの向こうへ連れて行かれるが……。そのエージェントはバッグスを掴まえたのではなく、助けたのだった。
 エージェントは名乗る――「私はモーフィアス。ネオを見付けなければならない」

 ネオはどうしたのだろうか?
 ネオは再び電脳世界で、「トーマス・アンダーソン」として暮らしていた。1999年に制作したゲーム『MATRIX』によって世界中の誰もが知るゲームデザイナーとなっていたが、トーマス・アンダーソンはそんな現実にどことなく違和感を憶えながらも、日々を過ごしていた。
 あるとき、デウス・マキナ社のCEOに呼び出され、『MATRIX4』の制作に着手するように命令される。トーマス・アンダーソンは「『MATRIX』は終わった」と答えるが、CEOはお前がいなくてもシリーズの制作は続けられる……と言うのだった。トーマス・アンダーソンは自分の作品を守るために、続編制作を引き受けることになる。


 最初の30分は他にもいろいろあるのだが、紹介するぶんはこれくらいの内容でいいでしょう。

 プロローグは第1作目冒頭シーンが描かれている。これはプログラムが第1作目のシーンを何度も繰り返していて、プログラムにシチュエーションを学習させ、進化させている場面。最初は確かに第1作目と同じ展開でお話が進むのだけど、間もなくトリニティはエージェントたちにやられてしまう。エージェントたちがオリジナル版より進化していることを意味している。

 そんな場面に紛れ込んでしまったバッグス。「バッグス・バニー。盗聴器って意味も」と自己紹介で語っているように、肩に「ウサギ」の入れ墨が入っている。第1作目でトーマス・アンダーソンを外に連れ出した切っ掛けとなっていたあの入れ墨だ。その入れ墨を入れている……ということで、バッグスが今作でもトーマス・アンダーソンを外の世界に連れ出す切っ掛けを与える人物であることがわかる。
 次にエージェント……かと思ったらモーフィアスだった、というややこしい展開が出てくる。このエージェントはネオの記憶から再構築しているのだが、それがどういうわけか「モーフィアス」としての役割と「スミス」としての役割を合体させて電脳世界に再構築されてしまっている。ということは、この電脳世界はかなりの程度ネオの記憶から作られているということになる。

 さて、問題のトーマス・アンダーソンはどうしているのかというと、1999年にゲーム『MATRIX』を制作し、世界中から称賛された伝説のゲームデザイナーということになっていた。20年前に制作された映画『マトリックス』でのできごとは、「ゲームの中のできごと」とされ、トーマス・アンダーソンは自分の作ったゲームと現実の区別があやふやになっている精神的に不安定な人……ということになっている。
 トーマス・アンダーソンの現在は『バイナリー』というオンラインゲームの制作をしていたのだが、ふとハッキングされていることに気付く。社長に呼び出されてから戻ってみると、ハッキングされた痕跡は消えてしまっていたのだが……その時のメッセージが「MODAL 101 UNDETECTED」。「101」はネオを意味するサインなので、ネオの要素が削除されたことを示唆している。

 デウス・マキナ社CEOに呼び出されたトーマス・アンダーソンは『MATRIX4』の制作を命じられる。
 窓際に置かれている銅像がエージェント・スミス。つまり「この男はスミスでっせ」と語っている場面。隠す気がぜんぜんない。
 どうして前作でエージェント・スミス役を演じたヒューゴ・ウィービングは出演しなかったのか……どうやらスケジュール・ミスが原因のようで……。ヒューゴ自身は出演するつもりで、監督ともやりとりをしていたが、あるとき別作品のスケジュールがすでに入っていることに気付いて、出演を諦めたのだとか……。事務所かマネージャのどちらかがスケジュールチェックを怠ったのだろう。ヒューゴはこの件についてインタビューで尋ねられると、「私なんかいなくてもいいでしょ」みたいに拗ねて語るようになっていた。
 デウス・マキナ社長はこう語る。
「君はあの物語は終わったと言っていたが、物語というものに終わりはない。同じ物語を語り続ける。違った名前と違った顔で。それに、私は楽しみなんだよ。長い年月を経て原点回帰する。『MATRIX』に」
 とメタ的な話を語る。『マトリックス』が現実の映画でも、映画内ゲームでも再び制作される……という話をしている。

 ここから映画内ゲーム『MATRIX』の続編をいかにして作るか……チームで会議する場面が描かれる。ここは要するにウォシャウスキー姉妹がこの20年の間に色んな人に言われたことが反映されている。名作SF映画『マトリックス』の作者として、色んな人から色んなふうに言われて、それを聞いて困惑する……ウォシャウスキーの姿がキアヌ・リーブスに当てはめられている。
 ところで映画『マトリックス』が再び制作されることになったのは、ウォシャウスキー姉妹の両親が立て続けに亡くなったことが切っ掛けだったのだが、もう一つ理由があるんじゃないか……という説がある。
 というのも、アメリカで「陰謀論」のネタとして『マトリックス』が頻繁に引用されていたんだとか……。「いま我々が見て知ったつもりになっているものは、何者かが作った仮想現実なんだ。真実は別にある! 『マトリックス』のように!」……というように、陰謀論を語るときに引用されがちで、ある界隈ではもはや『マトリックス』といえば「陰謀論の元ネタ映画」にすらされているとか……。それは『マトリックス』の新しい映画を作られた理由とは絶対に違うが、新作を作ることで「自分たちのところにもう一度引き戻す」だけの意義はあったんじゃないか……とも語られている。
 作品が陰謀論者の玩具にされていた……という理由は穿った意見だけども、あり得るかも……という気はする。周りが『マトリックス』についていろいろ言うし、いろんな幻想を語る対象になっているからこそ、作者自身の手でまた『マトリックス』を再生しなければ……みたいな意識はあったのかも知れない。

 ここでトーマス・アンダーソンの日々が描かれるが、いくつか重要なシーンが描かれる。まずオタク社員の「新しいバレットタイムが必要だ!」は後々とあるキャラクターが現実にこれを表現する。
 この辺りのシーンで『不思議の国のアリス』を読んでいる女性が出てくるが、この人が実はサティー。後半、重要キャラクターとして再登場する。
 キアヌ・リーブスが肉を食べるシーンがあるが、これは第1作目で裏切り者サイファーが肉を食べるシーンが元ネタ。

 トーマス・アンダーソンは自分が作ったゲームと現実の区別が曖昧になっている……ということになっている。これは1999年当時、「ゲームをやりすぎると次第にゲームと現実の区別が付かなくなる」とよく言われていた言説が元ネタになっている。この時代の少年犯罪はだいたいがこれが原因ということになっていた。今でもこの説を支持している大学の先生ってたくさんいるんだろう。結局、そんなやつは世界中探しても1人もいなかったんだけど。
 それでトーマス・アンダーソンは精神科医・アナリストの元へ通っているのだけど……。
 まず色彩。前作では電脳世界は全体が緑色だったからすぐにわかるが、今作では一見するとノーマルな色彩で作られているように見える。でもよーく見ると、色んなものが赤・黄・青の信号カラーで作られている。このシーンでは後ろのソファに置かれている布が赤、アナリストが着ているカーディガンとメガネが青。
 この配色にどういう意味があるのかというと、「信号」と同じ。赤いものは危険、青いものは安全。トーマス・アンダーソンは精神科医は「安全な人」と見なしているから、青のカラーでまとめられている。ただ、青はメガネとカーディガンだけだから、「表面的に安全を装っている人」……という見方もできる。
 この場面のもう一つのポイントは背景の書棚。よーく見てもらいたいが、「青い蝶」の標本が置かれている。「蝶」のモチーフは創作の世界では「夢・幻覚」を意味する。映画で蝶が出てくると、その場面は夢ですよ……ということになる。この場面の場合、精神科医がトーマス・アンダーソンを幻覚の世界に押しとどめようとしている……ということを暗示している。

 行きつけのコーヒーショップへ行くと、そこにはゲーム『MATRIX』に登場するトリニティそっくりの女性が……。その女性の名前はティファニー。人妻である。
 ティファニーが結婚している男性がチャドという名前。役者の名前もチャド・スタエルスキというのだが、この名前を聞いてピンと来る人も多かろう。映画『ジョン・ウィック』の監督だ。チャド・スタエルスキは実は1999年の『マトリックス』3部作の時、キアヌ・リーブスのスタントダブルだった人なので、トリニティが結婚したのはある種のネオの影武者である……ということになる。電脳世界ではネオとは縁がなかったが、ネオの影武者的な存在と結婚している……というような表現となっている。

 ティファニーと会うシーンは前半パートで2回あるのだが、その2回目の時に、ティファニーはこう話す。
「私は家族が欲しかったけど、それって私が女性だから? 自分の意思? そう育てられたから?」
 これも結末に絡んでくる伏線的な台詞。過去の3部作ではトリニティの役割は“救世主の隣にいる人”だった。女性にありがちな立場として、戦う男性を支える……それがトリニティの役割だった。そういう立場について、ティファニーは疑問を口にしている。

前半50分までのストーリー

 では続く30分を見てみよう。


 トーマス・アンダーソンがデウス・マキナ社へ行くとなにやら慌ただしい様子。アップデート内容に怒った14歳の少年が脅迫電話をかけてきたのだ。
 そんな最中、ネオは謎の人物からメッセージを受ける。そのメッセージに従ってトイレへ飛び込むと、そこにモーフィアスが……。
「ついに会えた。前の台詞だが、どうしても言いたくてね。モーフィアスは窓辺に現れ、外は激しい稲光。久しぶりの登場はトイレの個室から」
 しかしトーマス・アンダーソンは「あり得ない」と困惑する。モーフィアスはゲームの中の登場人物のはず……。現実にいるわけはない……。
 そうこうしているうちに、武装している兵士が突撃してくる。外へ飛び出すと、デウス・マキナ社CEOが「アンダーソン君!」と叫びながら銃を乱射する。
 これは現実じゃない……妄想だ……。そう自分に言い聞かせ、ふと気付くと精神科医セラピストの元にいた。すべて幻覚、すべて妄想……精神科医はトーマス・アンダーソンにそう言って諭す。あの襲撃もなかった。頭の中で起きたことに過ぎないんだ。

 その夜、トーマス・アンダーソンはビルの屋上にいた。
「心を解き放て。よし、心を解き放つぞ」
 ビルから飛び降りようとするその時、女がトーマス・アンダーソンを止める。女は「バッグス」と名乗り、肩に入れられたウサギの入れ墨を見せる。
 あのドアを開けてくぐったら、真実が明らかになる。ドアを開けなかったら、また単調な日々の繰り返しに戻る――と選択肢を突きつけられる。トーマス・アンダーソンは迷わずドアを開けるのだった。

 ドアをくぐると、そこはトーキョーを走る新幹線の中。さらにドアをくぐると劇場だった。
 劇場のスクリーンには『マトリックス』1作目の風景が映し出されていた。成功の確度を上げるために、過去の要素を取り入れたのだという。トーマス・アンダーソンは赤い錠剤を受け取り、飲み込もうとする。鏡に映る自分と向き合うのだが……鏡の向こうにはなぜか精神科医・アナリストの姿が。
「トーマス、これは現実じゃない。精神障害が起きている」
 精神科医はトーマス・アンダーソンを鏡の向こうに引き戻そうとする。仲間達が気付いてトーマス・アンダーソンを留めようとする。そこに敵が飛び込んできて、銃撃戦が始まるのだった……。


 ここまでで50分くらい。
 この後、ようやくトーマス・アンダーソンはネオとして電脳世界から覚醒するのだが……。各シーンを細かく見ていこう。

 トーマス・アンダーソンがデウス・マキナに出社すると様子が慌ただしい。14歳の少年がアップデート内容に怒って脅迫電話をかけてきたのだ。大手になるとこういうことにも対応しなくてはならないから大変。
 それから間もなくモーフィアスと会うことになり、銃撃戦になる。画像を見てもらうとわかるように、武装した兵士はかならず赤い光をバックにした扉から飛び出してきている。オフィスの色はブルーで、赤い光から武装した兵士がわらわらと出てきて、その中で黄色のコートを着ているのがモーフィアス。トーマス・アンダーソンにとって、モーフィアスが危険な赤か安全な青かわからないから、こういう配色になっている。
 いろいろ飛び出してきてしっちゃかめっちゃかな時に、ハンドガンを持った社長が突如スミスとして覚醒して「アンダーソン君!」と叫び始める。それから間もなく、気付けば精神科医のもとにいた……ということになっている。

 その次のシーンがビルの屋上。トーマス・アンダーソンは夜景を見ながら、酒を飲んでいる。街の光が赤・青・黄色のみで構成されている。

 この場面に現れるのはバッグス。最初に「バッグス・バニー」と言っているので、「白ウサギ」のシンボル的なキャラクター。トーマス・アンダーソンにとって安全な人物なので青髪、青いシャツを着ていて、すぐ側のドアはわかりやすく青く輝き続けている。

 ドアをくぐり抜けると、その向こうはトーキョーへ向かおうとする新幹線の中だった……。
 東京だったらあの位置に富士山はおかしいのでは……と思うかも知れないが、これは「電脳世界トーキョー」ですので……。もともと『マトリックス』は日本リスペクト、アニメリスペクトの作品なので、唐突に東京が舞台として登場してくるのだけど、東京である意味はあまりない。
 ここで駅の乗員が「ボット」となって襲いかかってくる。今作ではエージェントはあまり登場せず、ボットが次々に出てくる……という設定となっている。この「ボット」はたぶん現代風刺。今の社会は「インフルエンサー」と「ボット」の関係性で個人の自我が構築されている。みんな誰かの「ボット」になっている。ボットとなっているという意識がなく、インフルエンサーの行動や発言をコピーしている。
 運営がわからしてみると、ボットのほうがエージェントほどコストがかからず、お手軽にコピーを作れるという。この場面でも、インフルエンサーからの号令を受けて、みんな一斉にボットになってしまっている。

 最初にこの場面を見たとき、ホラーかと思った……。
 トーマス・アンダーソンは他の人からは白髪ではげあがったおじいさんに見えていた。実はティファニーも別の人からは金髪の女性に見えている。なぜならトリニティの場合、トリニティではなくティファニーだから、周りの人たちにはティファニーとして見えている。
 しかし時々、キアヌ・リーブスそっくりの姿として映る瞬間もある。例えばバッグスは窓拭きの仕事をしていたとき、ふっと顔を上げると、飛び降りようとしているトーマス・アンダーソンの姿が見えた。バッグスにはその瞬間、トーマス・アンダーソンの姿が正しく見えて、マトリックス世界から解放されたのだという。
 この回想シーン、トーマス・アンダーソンは実は空を飛んだらしい。時々不意に「覚醒」してしまうことがあったらしい(要するに覚醒していたから、バッグスにもネオの姿が見えた)。そのたびに、精神科医は「あれは夢だったんだ。君は空を飛んでいない。そんなこと起こりえない」と洗脳していた……ということのようだ。
 トーマス・アンダーソンは何度も覚醒しかけていたのに、電脳世界での生活をし続けていた。なぜなら精神科医がそのたびに洗脳していたから。赤の錠剤を飲んだ後で覚醒しかけていたところでも精神科医が現れ、トーマス・アンダーソンを再び電脳世界に引きずり戻そうとする。精神科医がかなりしつこくトーマス・アンダーソンにべったり寄り添っていたことがわかる。

それ以降の展開 ~ネタバレあり!

 これ以降の展開をざっと紹介しておこう。
 旧3部作の後、幽閉されていた人類は解放されたのだが、その後、機械達は再び以前と同じ体勢を作り、新しく生まれてきた人々を幽閉していたのだった。
 その様子を見届けて、ネオたちはバッグスらとともにムネモシュネ号に乗って移動する。ムネモシュネというのはギリシア神話に登場する、ムネーモシュネーのこと。「記憶」を神格化した女神のことを指す。
 辿り着いた場所は「アイオ」。ネオと機械達との戦いが終結して60年が過ぎて、社会体制も大きく変わっていた。アイオは空をバイオ・スカイが覆い、ほんのわずかだが果物を生産できるほどになっていた。機械と人間が共存する、おだやかな共和国が生まれていた。
 ザイオンはあの後、モーフィアスが新たな指導者に選ばれたが、預言者の「新たな力が生まれる」という言葉を信じず、最後にはザイオンを滅ぼし、自分もこの世を去ってしまった。その後、ナイオビが人々を引き連れて、新たな拠点アイオを建造し、現代の体制が作られていった。
 ナイオビを演じるジェイダ・ピンケット・スミスは前シリーズと同じ人。実年齢50歳の女優が老婆を演じていたのだが、ちょっと無理があったかな。

 平穏の日々は長く続かず、間もなく機械同士の戦争が始まった。原因は「電力不足」。人類にとって「食糧不足」に近い状況に陥り、機械はわずかな栄養源・電力を巡って機械同士戦争を始めるようになった。食料源が不足すると、人類も機械も同じような行動を取るのだ。
 その結果、機械達は再び以前と同じように孵卵器を作り、電脳世界を再構築し、新しく生まれてくる人々を「生体電池」としたのだった。
 そうすると再び人間対機械の戦争が再開される。この戦いに勝利するために、敵地に幽閉されているネオを探し出す必要があった。
 このネオが眠っていた場所が高さ2キロにもなる塔の中。ネオは童話物語に描かれがちな、「塔に捕らわれたお姫様」だったのだ。

 映画も1時間半に差し掛かったところで、トリニティ/ティファニーと再開。そこに精神科医・アナリストが出現するのだった。
 ここでようやく前半部分で宣言するように語っていた「新しいバレットタイム」が具体的に表現される。ネオを含む周りの人たちが超スローで動く中を、アナリストだけが自由自在に動き回れる。時間の進み方を自由にコントロールできる能力だった。
 アナリストは映画中の謎を全て解き明かす。
 アナリストは“スーツ”というさらなる上位存在から雇われている存在だった。そして現在の電脳世界は、アナリストの提案による生まれたものだった。旧3部作の時にいた、アーキテクチャーと預言者は、もうすでにアップデートで削除されてしまっていた。
 アナリストの新しい提案はネオを復活させること。ファンタジー的に蘇生させるのではなく、分子レベルで肉体を再生し、ネオの完全なるコピーを作り上げることだった。その上でさらにトリニティも復活させること。
 そうする理由は電力不足。機械達における食糧不足を解決させるためだった。ネオとトリニティは近づきあうと巨大な電力を発生させる。それこそ、機械達の電力不足を解消させるほどに。
 なぜネオがそんな電力を発生させるのか。それは愛の力。ネオとトリニティは近付き合うと特別な力を発生させる。それは人間的解釈によれば「愛の力」ということになるのだが、その時に発生させる“力/エネルギー”というのが機械達にとっては“電力”。人間は脳内にわずかな電流を流して信号を送り合っているわけだが、“愛”を自覚したとき、もっとも強烈な電力を発生させる。それが“救世主”クラスの愛になると、強烈な電力を発生させる。それが機械達にとっては電力不足の問題を解消させるだけの電力だった。
 それでネオとトリニティを再生され、ほんの少し距離を置いたところで幽閉された。あれくらいの距離感であれば、ネオは覚醒することはなく、ほどよく電力を発生させ続けるからだ……という(遠距離恋愛で恋しくてもどかしい……みたいな状態だと思えば良い)。時々覚醒しそうになるが、そうするとアナリストが出てきて、ネオを電脳世界に留める……ということを60年も続けていたのだ。

 ここまでがネオとトリニティが再生された理由。さらにアナリストはネオにずっと夢を見てもらい続けるために、トーマス・アンダーソンとしての人生を作り上げた。それが「ゲームデザイナー:トーマス・アンダーソン」だった。

 アナリストはこう語る。
「ところが君たちをほどよい近さに保つと、驚くべきことが起きた。さて、私の前任者は正確さを好んだ。彼のマトリックスは実証と方程式ばかり。人間の心を嫌った。だからフィクションが大事だと気付かなかった。君の大切な世界は全てこの中にある(頭の中)。君たち人間は無意味なものを好む。なぜか? 何がフィクションを現実にかえる? 感情だよ。見せてやろう」

 アナリストはトリニティに向けて銃弾を撃つ。ネオはトリニティを救おうと飛び出す。なぜそんなことをするのか……というと、ネオが力を発揮すれば発揮するほど、大量の電力を発生させるから。その電力を受けて、アナリストがパワーアップする。この状態であれば、永久にアナリストはネオに対して上位存在であり続けられる。
 トリニティはネオにとって側にいながら手に入らない存在であったほうがいい。だから人妻と設定された。永久に結ばれることのない関係。その状態であればほどよい電力をネオが生産し続けてくれる。機械達にとっては“美味しい”のだ。

映画の感想

 20年ぶりに復活した『マトリックス』。内容に概ね不満はないのだけど……しかしいくつか引っ掛かりどころがある。
 その1。
 ネオが覚醒するまで時間がかかりすぎる。第1作目の『マトリックス』でネオが自分の過ごしてきた日常が仮想現実だった……ということに気付き、覚醒するまで30分。それに対し、第4作目は50分もかかっている。この時点で正直、「長いな……」と感じていた。

 その2。
 ネオの立場にあまり感情移入できない。第1作目は確かに複雑、語られている言葉が難しい……というのはあったが、「主人公トーマス・アンダーソンはどういう気持ちでいるのか?」という基本的なことはスッと下りてくるように作られていた。周辺要素は思想や哲学でゴリゴリに固めているけれど、芯にあるエンタメ的な精神は崩していなかった。
 それが第4作目ではいまいち伝わりづらい。ネオの心情がどこか捉えづらい、共感しづらい。
 その3。
 アイオのドラマが深まっていない。ネオが目覚めてみると、前回の戦いから60年が過ぎていた。共に戦った盟友は老人になっているか、この世を去ってしまっていた。この時間の流れの無常観を感じづらい。
 もう一つ、アイオでは機械との同盟が生まれ、野菜の栽培に成功するところまでいった……みたいな話があるのだが、このあたりの設定説明が特に物語に作用していない。ただの設定説明にしかなっていない。この辺りの設定説明が後々のドラマを深める効果を発揮していない。なんだったら、「果物の栽培に成功した」の下りはカットしてもお話として問題がない。

 その4。
 トリニティを救い出すために再び仮想世界マトリックスへ挑むが、そこにエグザイル達が襲いかかってくる。これもやはり物語的な意味はない。トリニティのところへいく間に挿入されたアクションシークエンス……という感じ。しかもエグザイル達は結局逃げてしまうので、決着が付いていない。中途半端なシーンというしかない。ここもカットしてしまってもお話として問題がない。
 その5。
 新しいバレットタイムに驚きがない。アナリストだけネオ達と違う時間軸の中を移動できる……というアイデアだが、映像を見てもさほど驚きがない。もっと超スロー世界にいるという“現象”を見せないと……(どうせなら、街の中に入って、一杯人がいる中を時間停止して、移動を繰り返しながらバトル……みたいなのを見たかった。『マトリックス4』はどうにも見せ方が小さい)。周囲の時間軸を変更してしまう……というのは『ジョジョの奇妙な冒険』のラスボスみたいな感覚がでていて、それ自体は良い。しかしそのラスボスをいかにして倒すのか……というドラマの中に驚きや痛快さがない。『ジョジョの奇妙な冒険』はこここそ熱いバトルが繰り広げられるのだけど、その熱さが『マトリックス4』にはない。

 ではこれらの引っ掛かりどころをどうやったら解消できるのか。その答えはシンプルで、『マトリックス リザレクションズ』を2部作にすること。
 というのも1本の作品としてはまとまりが悪い。未消化のプロットがあちこちにあるし、肝心のドラマがすっと流れてこない作りになってしまっている。
 2本の作品にすればネオが覚醒するまでの物語を、ネオを中心にスッキリと描ける。1本にまとめられているから、「あれもこれも」となって、話が回りくどくなり、ネオの覚醒まで50分もかけることになってしまう。
 アイオのドラマが半端になっているところ、エグザイル達との決着がついてないこと、アナリスト打倒までのバトルが盛り上がらない……といった問題も、2部作にしてじっくり練り込めばうまくハマってくれるはず。

 実は引っ掛かりどころ「その6」というのがあって……。
 画作りが緩い。
 どういうわけか、構図の作りに締まりがない。旧3部作は構図の一つ一つをガチガチに練り込んで、絵画的な画作りを目指していた。しかし4作目は構図に緊張感がない。
 特に引っ掛かったのはアクションシーンで、プロローグとなる1作目の再現アクションにしても構図がパチッと決まってない(同じ構図なのに、なにか強さに欠ける)。トリニティのキックにしても、力強さを感じない。モーフィアスとの組み手のシーンでも、第1作目は俳優の動きとカメラの動きがパチッとハマっていて、気持ちいいくらいだったが、第4作目はここも緩い。構図も決まってないし、動きの捉え方も良くないのでせっかくのアクションがあまり格好よく見えない。
 これはウォシャウスキー監督の意識の変化で、旧3部作の頃は絵コンテを作り、その通りの構図・動きになるまで徹底的にやったそうだが、4作目まで来るとそこまでの厳しさが監督になくなっていたそうだとか。
(シチュエーションもいまいち。今作ややたら「トイレ」でのやり取りが多い。旧3部作は「場所」にもこだわっていたのに、今作にはそれもなくなった)
 私としては、あの頃の緊張感に戻って欲しい。『マトリックス』の前作である『バウンド』も画作りはバキバキに決めてくる監督だった。あの頃のウォシャウスキー映画の方が格好よかった。今は……。
 あの頃のウォシャウスキー兄弟は「俺たちの人生を賭けているんだ」ってギラギラしてたんだけどな……。

 そうは言っても内容のおおむねには満足できる作品だった。ただいくつかの引っ掛かりどころがあって、そこに一度引っ掛かってしまうと「あれ?」みたいになってしまう作品でもある。Rotten Tomatoesで微妙に評価が低いのはこういうところか……と実際の作品を見るとわかってくる。
 ウォシャウスキー監督の両親が死んでしまったことで『マトリックス』が復活した。切っ掛けはともかくとして、この復活をもっと祝福したかった。同窓会的な作品を1本作って終わり……じゃなくて、「新3部作」として企画を立ち上げて、もっともっと深いところまでこの世界観を掘り下げて欲しかった……。
 でもそういう作品じゃない……というところが今回の『マトリックス』なのかな。

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