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映画感想 マトリックス リローデッド

前作

 『マトリックス リローデッド』は前作から4年後である2003年公開! あの衝撃の展開、衝撃の結末からいったいどのようにストーリーを紡ぐのか。2003年当時の映画ファンすべてが待ち焦がれていた作品であったと言ってもいい。
 その当時は『ハリー・ポッター』『ロード・オブ・ザ・リング』といった何作にもわたる超大作が立て続けに公開されていた時期で、『マトリックス』もこの時代を代表するシンボル的な映画の1本であった。
(余談としては、『マトリックス』『ロード・オブ・ザ・リング』の2作に出演する映画俳優が1人いる。エージェント・スミスことヒューゴ・ウィーヴィングである。ヒューゴは『ロード・オブ・ザ・リング』ではエルフの里裂け谷の長・エルロンドを演じる。ヒューゴをこのように評する人は少ないが、実はこの時代を代表する俳優の1人だった)
 制作費は1億5000万ドル。前作よりも制作費が2倍以上になったが、世界興行収入は7億3500万ドルとこちらも前作越え。映画会社も映画ファンもみんな期待する3部作の2作目であった。
 アメリカでの公開が2003年の5月15日で、日本公開が6月7日とほとんどタイムラグのない形で公開された。話題性の強さや、ネタバレ防止というのもあるが、ウォシャウスキー監督の日本文化に対するリスペクトによるものである。この時代は、まだ日本はハリウッドに次いで「儲かる国」だった。ハリウッドでコケても日本で回収できたこともあった……という事例も結構あった。そういった理由で、日本での興業にも力が入っていた。
 ちなみに日本での公開館数が666スクリーンという妙に意味深な劇場数だった。

前半30分のストーリー

 では前半のストーリーを見ていこう。

 英雄/救世主として覚醒したネオであったが、毎夜のごとく奇妙な夢に悩まされていた。それはトリニティが窮地に陥り、ビルから転落するという場面だった。しかし直前で目を醒ましてしまうため、生死がわからないままだった。
 これはただの夢なのか、それとも予知夢なのか……。

 この頃、ザイオンは危機に直面していた。
 ついにマシーンたちにザイオンの位置が特定されてしまった。センチネルたちが時速100メートルの速度で地面を掘削し、ザイオンを目指している。センチネルたちがザイオンに到着するまで、およそ72時間……。
 センチネルの兵力は25万。ザイオンの人口は25万。センチネルがザイオンに到達すると、その時点で人類は絶滅させられてしまう。
 ただちに全兵力を挙げて戦いに出るべきだ……と人類側は考えるが、しかしモーフィアス率いるネブカデネザル号だけは未だに予言者を頼りにしていて、その連絡を待つべきだと考えていた。

 電脳世界の会合も、エージェントたちに勘づかれて解散となる。もはや電脳世界に安全なところはない。一同は人類最後の砦・ザイオンに帰郷し、対策を練ることとなった。

 ザイオンに到着すると、モーフィアスとロック司令官との諍いが始まる。ザイオンにいる誰もが予言者を信じているわけではなかった。予言や救世主に頼らず、独力でザイオンを守ろうと考える勢力も多かった。
 一方で救世主による救いを信じる人々もいる。ネオがザイオンの自宅に戻ろうとすると、救いを信じる人々たちに詣でられるのだった。

 その夜、地下洞窟に人々が集まる。モーフィアスはその人々たちの前に宣言をする。我々は100年ものあいだ機械たちと戦ってきた。1世紀にも及ぶ戦いを繰り広げられてきたが、我々は生きている。次の戦いも勝利できる!
 モーフィアスの言葉に鼓舞された人々が太鼓を打ち鳴らし、地面を踏みならして踊るのだった……。

 ここまでがおよそ30分。
 この端境のところに、エージェント・スミスが現実世界にやってくる……という大きなフックが描かれるが、これが効いてくるのは今作ではなく、次回において。

 前半のストーリーを見ていこう。

 前作のネオは、「醒めても夢の中にいるような感覚」の中にいたが、また夢に悩まされている。トリニティが窮地に陥る夢だが……。これはネオが「救世主」になったから未来視もできるようになったのか? そうではなく、マトリックス世界はすべて計算によって成り立っている世界なので、ネオはその属性を部分的に見ることができるようになった。これまでに起きたことから、そうなるであろう未来が予測できるようになった。
 でもネオはマトリックスそれ自身になったわけではないから、未来の光景を漠然としか認識できない。トリニティの生死が漠然としているは、「その時ネオは何を選択するのか?」という重要な選択肢をネオ自身していないから。トリニティを助けるのか、助けないのか……選択していないから当然、生死に関する未来予測は不明のままとなる。それ以前に、夢の意味をネオ自身、意味を理解していないので、選択しようもなかった。

 これに続いて電脳世界の会合が開かれる。前作ではネブカデネザル号の人々しか出てこなかったが、今作では色んな船の人達が一杯出てくる。一気に社会観が広がった。
 私はこのシーンを最初に見た時、「ファッションショー」だと思った。今回の視聴の時も、やっぱりファッションショーだと思った。全員とんでもなくお洒落。生地の材質が、素人目に超高級。革製のジャケットがイミテーションじゃなくて、かなり本物っぽくツヤツヤ輝いている。
 『マトリックス リローデッド』は前作の大ヒットを受けて大予算で制作できることになったので、有名デザイナーを呼んで、全員オーダーメイドの服を作ることができた。この会合のシーンでもそこそこの人数が出ているが、ひとりひとりがとんでもなく高い服を着ている。ファッションショーと感じたのは間違いではなかった。
 電脳世界なんだから、どんな格好をしたって構わない。むしろ自由な格好をしていたほうが、電脳世界という印象が高まる。だったら現実世界でできないようなお洒落したいじゃないか……。こういうところは『ソードアート・オンライン』や『レディープレイヤー1』と一緒。ただ作品のスタイル的に、『マトリックス』の場合は全員ダークスーツ。
 『マトリックス』みたいにまとまりを持って全員ダークスーツ、って決めてやるとやたらと格好いいね。

 間もなくザイオンに帰還するが、ザイオンの光景もCGで作り込まれている。ここも大予算の恩恵を受けている。
 今作の制作費は1億ドル超えだけど、そんな予算は前作が大ヒットしなければ出ないもので、これだけの予算感がなければザイオンは描けない。続編を作ろうとしたら、ウォシャウスキー監督は『マトリックス』第1作目を「大ヒット」させなければならなかった。「そこそこのヒット」ではダメだった。そう考えると、なかなかの綱渡りだったが、見事達成している。
 そのザイオンに入ってからのエピソードだけど……少々退屈。モーフィアスとロック司令官との確執が描かれるのだけど、まあありがちなやつ。新しい乗組員であるリンクの家庭事情なんて描く必要があっただろうか。もうちょっと後だけど、ネオとハーマン評議員の対話シーンもあるが、これもあまり楽しいものではない。
 前半はこういった人達の対話シーンで30分ほど続くのだが、この辺りのシーンがどうしても退屈だ。
 『マトリックス リローデッド』はマトリックスの中にどんな世界観があるのか、どんな社会観があるのか……というところまで押し広げているのだが、しかしそれを一つ一つ物語として描くと、退屈になる。かといって描かないわけにはいかない……という難しい問題を抱え、解消できていないように感じられる。今作の不満点があるとしたら、この辺りの退屈なシーン。
 1作目はネオの物語にのみ集中していたのに対して、2作目はいろんなものを描きすぎ、また描かなければならない問題に直面してしまった。

 前半のハイライトシーンは、洞窟の中のお祭り。太鼓を叩いて、人々が踊り狂う。その振り付けだけど、あえて単調に描いている。
 私たち人類は世代を経て高度な文明を築いてきたから勘違いしやすいが、この文明が崩壊してしまうと、私たちはあっという間に原始生活に戻ってしまう。実は薄氷の上に築かれたものにすぎない。現代のような文明観を失うとどうなるか……というと、やはり原始時代のプリミティブな文明観や思想観にあっという間に戻ってしまう。私たちは未だに精霊や幽霊に怯えているし、意識そのものは実は洞窟生活の時代とそう変わってない。
 ヨーロッパではローマ帝国が崩壊した後、「中世」の時代がやってきたのだが、文明を失った人々は、石器時代からやり直したそうだ。その時に、文明観だけではなく思想や習慣もおそらくは原始時代に戻り、最初からやり直したのだろう。
 ザイオンの文化観はそういう世界観を意識して描かれている。集会所は人工の場所ではなく、天然の洞窟の中で。思うままに太鼓をドンドコ叩き、ただただジャンプしているだけ……振り付けもあったものではない。人々の意識が原始の時代に戻り、率直な生命の喜びを表現している。
 またこうした表現が、徹底して管理され洗練された世界観である「マトリックス」と対になるようになっている。

 このお祭りのシーンは後半、次第に性的なイメージが多くなっていく。男女が股間を密着させて揺すりあっている。このイメージを背景に、ネオとトリニティのセックスシーンも描かれる。
 これは多分、本当にみんなセックスしているんだろう。お祭りには日常的な理性を遠ざけて、あえて場も人も狂騒で満たし、意識を解放させるという効果があり、かつての時代にはその延長に「乱交」もあった。
 なんであの場面で「乱交」する必要があったのか、というとこれから「戦い」があるから。戦いがあると、当然ながら多くの人が死ぬ。最前線に出る男性はほとんど死ぬ(人口はたったの25万人しかいない)。そうした危機に直面して、遺伝子を残す必要があるから、この機会に盛大に乱交して子孫を残しておこう……ということだろう。
(この乱交のシーン、よく見ると女性同士……というカップリングがちょっと描かれている。ウォシャウスキー監督のデビュー映画『バウンド』はレズビアンが主人公で、『マトリックス』後に脚本を手がけた『Vフォー・ヴェンデッタ』も主人公がレズビアン。その後、監督兄弟も性転換して姉妹になる……と女性同士の性交に強い願望を持っていた)

中盤以降から最後までのストーリー ネタバレあり!

 中盤以降のストーリーを見ていこう。

 ようやく予言者から連絡が来て、電脳世界マトリックスの中に入る。
 そこでネオはセラフと会い、戦いとなる。「セラフ」の名前はご存じの通り「天使」のこと。正確には天使の位階の一つである「熾天使」のことであり、熾天使をヘブライ語読みすると「セラフ」となる。セラフの複数形がセラフィム。
 なんでここで天使の名前が出てくるかというと、予言者が神様であるから。神様に会うわけだから、天使が案内するのは当たり前。その予言者に謁見できるのは救世主のみ……というのも示唆的だ。
 でもこの予言者に会うシーン、予言者はカラスにエサを与えている。
 これはひょっとすると、「堕天」という意味もあるのかな? 予言者はもともと「アーキテクト(設計者)」と同じ属性だったのに、下々の世界に降りてしまったわけだから。

 予言者と会うネオだが、ネオもすでに「マトリックス」という世界観の正体に気付きつつある。予言者は「人間」ではなく、「マトリックス」世界内で作られたプログラムの一つにすぎない。NPC(ノンプレイヤーキャラクター)だ。
 しかしマトリックスの世界はしばしばエラーを起こす。人々がマトリックス世界がまやかしでしかないことに気付き、「目覚め」てしまう。その状況をコントロールし、制圧するのがエージェントの役割だ。エージェントはゲームでいうことの「ゲームマスター」的な役割を持っている。エージェントは「人類の敵」ではなく、単にプログラムの意思に則って管理しているだけの存在にすぎない。
 それ以外にも、プログラムはしばしばエラーを起こす。そうしたプログラムは管理の手を逃れて、流浪者(エグザイル)となってしまう。そのエラーの諸現象が幽霊やら天使やら宇宙人といった目撃話となって現れてくる。
 そうした問題を解消するために、「救世主」がソースへ行き、新しいプログラムに書き換えなければならない。

 ここではまだ、なぜ救世主がメインフレームへ行かなければならないのか……という理由に対する「答え」は与えてくれない。とにかく行かなければならない。行かなければザイオンが滅びる……という「結果」だけを知らされる。
 そのメインフレームに行くためには「メロビンジアン」に会い、「キー・メーカー」を救い出さなければならない……というミッションを通らなければならなかった。

 という対話の後、エージェント・スミスが登場する。カラスを従えながらの登場がまた格好いい。「堕天使」のシンボルである。
 エージェント・スミスは前作の戦いの後、消滅したはずだった。しかし何かしらが起きて、復活した。しかも「エージェント」としての役割を失ったので、自由に活動ができるようになった。『マトリックス』の世界観は電脳世界で、エージェントはあらゆるNPCの人格に宿ることができるわけだが、その性質を利用してエージェント・スミスはNPCに自分のコピーを作りまくり。自己増殖を繰り返すのだった。
 ネオはマトリックス世界におけるアンチノミーだ。だから超人的なパワーを発揮し、空も飛ぶことができる。条理の向こう側へ意識を超越させることができるからこそ英雄/救世主たり得る。
 エージェント・スミスも条理の向こう側へと超越した存在となってしまった。しかもまだエージェトとしての属性を持っているから、その力を使っていくらでも自己増殖ができてしまう。エージェントは本来ただのエラー修復システムに過ぎず、プログラムに則って行動しているだけだが、エージェント・スミスは「自我」を持ってしまったので、エージェントの権限を利用しまくっている。
 お互いに、本来あるプログラムの向こう側の存在となってしまった。ネオとスミスが「宿敵」としての構図ができあがった。この対立がこれからの『マトリックス』を面白くしているポイントである。

 そのネオとエージェント・スミスのバトルシーンは20年の時を経て再び見ても、やはり見事なものだ。「技術面が」という話ではなく、この20年間、同じ顔をした300人と派手なバトルシーンをやる……なんてシチュエーションを描いた人が誰もいなかった。この作品でしかないトンデモバトルシーンだ。
 どうしてここまでトリッキーなシチュエーションを作ったのかというと、前作バレットタイムが色んな映画でパクられたから……というのもある。「絶対誰にもパクれないシーンを作る!」と意気込んだ結果、生まれたシーンだ。

 技術面を見ると、近景はエージェント・スミスことヒューゴ・ウィーヴィングに背格好が同じくらいのスタントマンを集めて、「そっくり顔メイク」を施し、さらにデジタルで顔面合成を施して……。「そっくり顔メイク」も「顔のデジタル合成」もその時代から今でもよくあるものだけど、問題なのはその数。ワンシーンにここまで一杯の人間に対してメイクやらデジタル合成やら……とんでもない労力だ。いま振り返ってみても、よくやりきったなぁ……と感心する。
 遠景は完全なCGで描かれている。当時の最新CGだが……。2021年、Unreal Engine5の技術デモとして『マトリックス』のビジュアルをゲームに置き換えた映像が配信された。実際にPS5とXbox Series Xでプレイ可能なゲームなので、リアルタイム映像だ。そのUnreal Engine5のリアルタイム映像と当時の最新CGを比較すると、ほとんど差異がない。こうして見ると、20年の間にとんでもない時代に来たなぁ……。『マトリックス リローデッド』のあのシーンも、当時は「驚異的に実際の人間に近付けられた」と語られるほどのCGだったんだが……。
 CGだけに及ばず、アクションシーンそのものも労作の産物。たしか……曖昧な記憶だけど、このシーンの撮影に1ヶ月くらい使ったんじゃないかな。「絶対に誰もパクれないシーンを」と意気込んだ結果、本当に誰もマネできないトンデモシーンができあがってしまった。『マトリックス リローデッド』名シーンの一つだ。

 エージェント・スミスとの戦いが終わった後は、あまり面白くもない会議シーンを間に挟んで、第2幕。メロビンジアンと呼ばれる男に会いに行く。

 メロビンジアンとは何者か……というと、マトリックス世界の住人。実態はなく、プログラムの存在。エージェントや予言者と一緒。エージェントが「エグザイル」と呼ぶ人達。
 プログラムだけど、エージェントのような管理者ではない。プログラムの管理から外れた「エグザイル」なので好き勝手やっている存在である。自分でプログラムを書くこともできるので、NPCに働きかけ、行きずりのセックスなんかも楽しんでいるようである。
(NPCと書いたけど、相手はたぶん人間)
 マトリックスの世界は定期的にプログラムの刷新を行っており、そのたびに全データが新しく書き換わっているのだけど、メロビンジアンはその刷新の手を逃れているプログラム。メロビンジアン自身の台詞からして、マトリックスが構築された初期時代から存在しているようだ。彼らもエージェントから追われる存在である。
 で、メロビンジアンが見境なくNPCとエッチしまくるので、奥さんのパーセフォニーと対立。これもある意味プログラム同士の対立……と取れなくもない。

 このメロビンジアンの部下である「ツインズ」と呼ばれる双子と戦うことになる。
 ツインズもどうやら元々はエージェントだったもの。マトリックスのいつかのバージョンでは、ツインズがエージェントだった時代があったようだ。プログラムが最新版に刷新される時に削除されるはずだったが、これを逃れてメロビンジアンの配下に収まっていた。
 メロビンジアンとの対話の後、キー・メーカーを引き連れてハイウェイ上でツインズたちと追走劇を繰り広げる。このシーンがなんと20分近くもある! これまたトンデモアクションシークエンスだ。
 映画撮影のためにここまで長期のハイウェイ封鎖なんてできないので、全長2キロのハイウェイを建造。やっぱり大予算になるとやることが違うね。

 そうした色々あって、ネオはついにアーキテクト(設計者)の元に行き着く。いわゆる「神様」なので、真っ白な空間にモニターだけ山ほど積み上げた場所に鎮座している。電脳世界の神様はきっとこんな姿をしているであろう……。「白髭のお爺ちゃん」という普遍的な神様/賢者のイメージを踏襲しつつ、ばっちりスーツで決めて、杖の代わりにタッチペン、玉座の代わりに革張りの椅子に座っている。大量のテレビは、あらゆる事象を見通せる存在であることを現している。見ていると、「ああ、なるほど……」と思うような描写だ。

 アーキテクト(神様)はネオに何を告げるのか?
 マトリックス世界は人間を管理しているので、定期的にエラーが起きる。「エグザイル」すなわち「目覚め」ちゃう人が出てきてしまう。プログラム的にはそういう人達は避けたい。
 しかし人間は様々に思考を巡らし、欲求を持ち、その最中に社会という仕組みそのものに疑問を投げかけてしまう。「システムに疑問を持つ」……人間はしばしばそういう問題を起こす。
 ネオの存在も、プログラムの不完全さが生み出した欠陥の一部に過ぎなかった。
 まあ超人的な力に目覚めたネオだって、よくよく考えたらそれはマトリックス世界だけの話。ゲーム世界でチートやっていただけに過ぎない。ネオはマトリックスというオンラインゲームの中で、唯一チートができるプレイヤー……みたいな状態。
 でも条理を越えた認識力に目覚めることができた。だから「救世主」と呼ばれる。
 が、この救世主の出現も、プログラム的に見れば「予定」されていたことの一つ。救世主の出現もまた「可能性として予見されたエラー」の一つとなっていた。救世主の出現を「予見されたエラー」にすることで、マトリックスはその問題を包括しようとしていた。
 つまり、全部「やらせ」だった……ということ(人類規模の「ドッキリ」でもある)。予言者も救済も、全部マトリックス内の予定調和だった。あえて人々に「希望」を持たせるために、「予言者」なるものがいて、それに促されて「救世主」が生まれ、それに人々が突き動かされていく……という構図だった。すべて計算されたとおりの行動だった。

 前作『マトリックス』は英雄/救世主誕生物語で、前回の感想文で見たとおり、その構成が実はかなりオーソドックスな英雄物語のテンプレートに則って描かれていた。しかしその続編では「英雄の竜退治」の物語は描かれなかった。『マトリックス リローデッド』で「その英雄物語ってどうなの?」と疑問符を突きつけている。そもそも「英雄」とは何なのか、どういった存在であるのか? 神様の視点で見ると英雄がどのように見えるのか?
 過去、様々な英雄物語が描かれてきたが、その英雄物語全体に対する疑問、その向こう側がどうなっているか……それを『マトリックス』は指摘している。
 こうした発想も、『マトリックス』の世界観がプログラムに過ぎない……というところから始まっている。プログラムはまずコードが存在して、そのコードを書き換えればいかように世界観が変容する世界。この世界においては、神様も、救世主も、書き換えようと思えばいくらでも書き換えられてしまう。救世主といっても、それは「所詮はゲーム内世界」の話であって、現実ではない。本当にスーパーパワーを身につけたわけじゃない。全部「虚構」だ。「物語内」のできごとでしかない。
 そうした世界観における神様や救世主はどういったものであるのか?
 この疑問が、英雄物語の構造そのものをひっくり返すような物語を生み出してしまっている。『マトリックス』という3部作を2作目で転換させる構造になっている。

 それはともかくとして、プログラム側としては、うっかり目覚めてしまって反抗組織を構築してしまった人間を虐殺せねばならない。あれもエラーだからだ。仮想世界でエージェントが人間を制圧するように、現実世界でもセンチネルで制圧せねばならない。
 救世主の役割はその救世主基準で全プログラムを書き直して、マトリックス世界を刷新。その見返りとして女16人男7人を選んでザイオンを再建してもいい権利を得る。
 要するに救世主準拠でプログラムを刷新するので、これを切っ掛けにマトリックス世界の「人々の意識」が変わるのだ。こうやって私たちの「時代の意識」は少しずつ変わっていく……という説明だ。
 これはアーキテクトとの取引で、拒否すればザイオンの人々は全員死ぬ。ついでにマトリックスに繋がれた人々も全員死ぬ。
 メロビンジアンはこの時の刷新の手を逃れてきた古いプログラムってことね。
 ザイオンがいったいどのように作られたのか、誰もわかない。ザイオンは空気や水の濾過システムによって人々が生きながらえているが、その仕組みさえわからない。誰が作ったのかもわからない。そもそも人類VSマトリックスの戦いがいつから始まったのかもわからない。
 その答えがコレ。過去の取引で救世主はザイオンを崩壊させている。つまりグレートリセットが起きて、その以前の過去がわからなくなっている。

 さあどうする? ザイオンの命運か、それとも……。
 今回のネオは「6人目」で、過去の5人は「ザイオンの未来」を選び取った。しかし6人目のネオは……あろうことがトリニティを選んでしまった!
 たった1人のために、人類終焉の未来を選んでしまった……。

 センチネルの侵攻は止まらず、ザイオンは危機に直面したまま。いったいどうすれば……?
 という時、ネオは迫ってくるセンチネルに対してビリビリバッシィを放つ!
 ネオが救世主なのは、あくまでもマトリックス世界での話であって、現実世界では普通の人間のはず……。何かが変わろうとしている――という予兆を示して『マトリックス リローデッド』は終わる。

20年ぶりにマトリックス リローデッドを見て……

 20年ぶりに『マトリックス リローデッド』を見たけれど、相変わらずセンス・オブ・ワンダー。あれから20年の時を経てきたけれど、この作品のような映像は誰も作っていない。発想的にも技術的にも、「あ、凄いことやってるな」と感心するクオリティ。未だにオンリーワン。古びてない。ある種、トリッキーすぎて時代の流れから一歩踏み外している感覚すらある。だからこその「名作」なわけだけど。

 物語もいま振り返ってみると、こちらもかなりトリッキーなことをやっている。1作目でオーソドックスな英雄物語を描いておいて、2作目で「その英雄物語ってどうなの?」と疑問符を付ける。「予定調和」の向こう側へと踏み込んでいる。だからこそ解釈が難しく、1作目は見れば誰でもわかるようなお話だったのに対し、2作目は振り落とされる人が多数。「結局どういうお話だったの?」と2作目からは「わからない」という人を多く生んでしまった。
 おそらく脚本の段階で、「これ、理解できる人いるの?」みたいな疑問は出たはずだ。ハリウッドって世界に向けて作品を作るから、「わからない」という人を可能な限り減らしたい。だからとにかくも誰が見てもわかるように作品のIQを落としていく。ハリウッドってそういう何かと脚本のIQを落としたがる連中が一杯いるんだ。『マトリックス リローデット』だって、そういう意見は絶対に出たはずだよ。
 でもあえてここまで難解なストーリーをそのまま出してきた。監督の意志の強さもあるけれど、やっぱり第1作目が世界的大ヒットしたからだね。

 私も『マトリックス リローデッド』から「どういうお話だったかな……」と忘れていたから、改めて見てかなり驚いた。ああ、こんなことやってたんだった……と。こんな凄い発想で作ってたのか……と。20年前の私は理解してなかったんだろうなぁ……。
 久しぶりに見て、20年前の作品に圧倒されて、「これは参った」と思うことになるとは……。私もまだまだ修行し直さなければならないようだ。

次回


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