映画感想文 翔んで埼玉
翔んで埼玉 予告編
相当に頭のおかしい映画……と聞いていたのだが……。確かに頭がおかしい映画だったが、しかしそれ以前によくできてるなぁ……という感想が前に立つ。
映画中に起きているあらゆるできごとは馬鹿馬鹿しく、その馬鹿馬鹿しいことを力一杯やる……というのがコンセプトだが、こういう映画にありがちな「滑った」感じが全くない。世界観をガチガチに作って、でもその世界観の有り様がどこかおかしい……というやり方を採っている。映画の作り方そのものはギャグとして作っていない、というのが大きなポイントだ。
“映画の作り方そのものはギャグとして作っていない”……というのがこの作品のポイントで、大きな構造は地域いじりネタを中心にしたギャグだが、シーンの一つ一つはギャグとして作っていない。しかし大きな構造がギャグだから、個々の台詞やシーンがギャグになっている。この両極端への振り方が、ギャグになっている。
……説明が難しい。やっていることや起きていることはおかしいのに、誰も状況に対して冷淡になっていない。“醒める”ようなことを誰もしていない。
シーン作りも「ギャグだから」といって手を抜かず、全力でイメージを作り込む。ひょっとすると作り手は本気で台詞やシーンを作り込んでいるのでは……と思わせるくらいの本気度が込められている。
例えば後半の、川を挟んで、埼玉県出身有名人、千葉県出身有名人を競い合う、世にも馬鹿馬鹿しいシーンがあるが、シーンの作りはかなり堂々として実に見事だ。予備知識なしでこのシーンだけを見ると、普通に「格好いいシーン」に見える(実際予告編で見ていて、格好いいシーンだと思っていた)。しかし大きな構造そのものがギャグだから、やっていることも言っていることもギャグになる。この温度差が、作品全体に引っ掛かる笑いになっている。
『翔んで埼玉』のもう一つのポイントは、ハリウッド映画的なものに対するパロディ。
まず音楽。音楽がハリウッド映画的なもののパロディなので、聞いていると、「あの映画で聞いたメロディだ」というものが次々と出てくる。これ、怒られるんじゃないか、というくらいハンス・ジマーのパクリ曲が出てくる(ハワード・シュアのパクリ曲もあった)。この音楽の作りもパロディとして作っているのだけど、作りがガチガチなので、これだけで聞くと格好よく聞こえてしまう。
次に演技。日本映画の問題は、芝居が日本人の文化に即していないこと。映画的な芝居は西洋から学んだもので、それを日本の風景を背景に、日本語でやるからどこか不自然な感じになる。「いや、日本人はその場面でそんなこと言わねぇよ」みたいな違和感になる。
ところが『翔んで埼玉』はむしろ「日本人がやると不自然」という芝居を全面に出してきている。露骨にわざとらしい。でも、これは「日本人の顔でやるとわざとらしい」芝居であって、アメリカの映画では普通にやっていること。芝居の作りもシーンの作りも、ハリウッドスタイルのパロディとして、わざとらしく仰々しくやっている。
これが「露骨に嘘くさい行動と嘘くさい背景」とぴったりとハマっている。嘘くさい×嘘くさい×嘘くさい……の結果が一周回って「ああ、いいなコレ」となっている。ハリウッド的な映画制作作法のパロディです(同時に地域いじりネタパロディ)……というエクスキューズ付きだけど、日本映画的な胡散臭さを乗り越えているんじゃないか、という気分にさせてくれた。
作劇が胡散臭い映画、というと実写版『ジョジョの奇妙な冒険』がある。こちらはただ「胡散臭い日本映画」止まりになってしまっていた。一方の『翔んで埼玉』は突き抜けた1本になった。それこそ、「これはアニメでしかできないんじゃないか」というファンタジーを実写で作り上げた。
『ジョジョの奇妙な冒険』と『翔んで埼玉』……何を違えたのか? おそらくこの2作は、向かっている方向が同じだったはずだ。どちらも「キテレツな原作漫画」があり、どちらも非日本的な風景を目指して映画を作った。何が違ったのだろう?
もしかしたら『ジョジョ』も、「一見すると笑えるくらいおかしい映画」……にしてその後に感動させる映画を目指した方が良かったのかも知れない。だいたい『ジョジョ』に真っ当なものを目指しても仕方がない。中途半端なリアリティよりも、笑えるくらい突き抜けた映像を目指して、一回笑わせておいてガードを下げさせ、そこからガチガチに作り込んだ『ジョジョ』らしい画面を目指していけば良かったのではないだろうか。
『翔んで埼玉』はギャグ映画なのだが、ギャグの向こう側に「日本映画はどうあるべきか?」という提唱が見えてくるような気がした。特に「漫画原作の実写映画」への新しい指標にもなるかも知れない傑作作品だ。
最後になったが、壇ノ浦百美が可愛かった。男……? 可愛けりゃ男か女とか関係ねーよ! 演じてるのは女優さんだし。